2014年5月28日水曜日

シフの洞窟

 ラズズール師が異端の疑いにより逮捕されてから三日。
 その日は公開審問が行われていた。
 異端審問官らの追及に対してラズズール師が弁明し、その後、市民による評決で罪が確定する。
 異端の罪、それも黒魔術の使用が明らかとなれば、判決は死刑以外にはなかった。
 老魔術師ラズズールには五十人近くの弟子があった。
 弟子の中でも主だった者たちは、審問所に証人として召喚されていた。
 残された弟子の大半は、審問所の近くのとある屋敷に集まって判決の時を待っていた。そこは弟子の一人の親類の家であった。
「どうなるかな?」若い弟子のミズクがガロニトに話しかけた。
「さあ……待つしかないよ」ガロニトは答えた。
「大丈夫だよな。この前だって無事だったんだし」
「どうかな、今度の逮捕は二度目だ。それがどう影響するか……」
 ラズズール師が逮捕されたのはこれで二度目だった。前回は半年ほど前、広場で行った演説が皇帝を侮辱する内容だったという理由で異端審問官により捕縛されたのだった。だが、それがほとんど言いがかり同然の理由であったことは審問で明らかとなり評決の結果、無罪放免となったのだった。
 今回の逮捕は、ラズズールの魔術研究それ自体が異端の黒魔術であるとするより本質的なもので、異端審問官らがこの半年密かに内定をすすめた結果らしい。
「ウィカが戻ったぞ!」誰かが言った。
 審問所の傍聴席の数には限りがあり、弟子が確保できたのは一つきりだった。そこでウィカが伝令役となり審問所と屋敷を往復して状況を伝えていた。
「どうなってる?」若い弟子たちのリーダー格であるギルノがウィカに尋ねた。
「今、師の弁論が終わり、休廷となったところです。評決は午後から」
「それで、弁論の様子は?」
「師の発言は堂々としたもので、大審問官からの質疑にも理路整然とよどみなく応答していました」
「では、上手くいきそうか?」
「ええ、多分……」
「肝心なのは評決だぞ。市民の反応はどうなのだ?」と弟子の一人で大柄なヒュジンが聞いた。
「傍聴席は終始静まり返っていて、聞き入っている感じでした」
「罵声を浴びせるようなものはなかったのだな?」
「ええ、それは」
「では、大丈夫だろう……、前回の審問でも市民は師に味方した」
「前回の評決はおよそ七対三で無罪に傾いたが、今回はどうなるか……」と、ギルノは不安げに言った。
「異端審問官はどんな証拠を出したのですか?」ガロニトが質問した。
「それは師が所持していた古い文書を、無理やり異端に結びつけたようなものばかりで、説得力のあるものではなかった」
「当然だ。われわれの研究はこの国土を救うためのもので、決して黒魔術などではない」とヒュジンは言った。
 この地、ガルケルトは氷に閉ざされようとしていた。北方からの氷河が年々国土を侵食しつつあるのだった。このままではもう十数年もすれば国全体が氷に覆われてしまう勢いだった。
 今では、真夏でも気温はあまり上がず、冷たい北風が吹きつづけていた。
 ラズズールとその弟子たちの研究は、魔術の力で氷河の侵攻を留めようとすることを目的としていた。
 一方、軍の将軍たちは、南部の隣国を侵略し新たな国土を得ることに活路を見出そうとしていた。
 だから今般の異端審問官の策動には、世論を戦争へと導きたい軍部の後押しがあるのだという見方もあった。

 そして午後。首都ザロンの高位審問所では、市民百二十人による評決が行われた。
 その結果は、有罪。
 つまり、ラズズール師の死刑が確定した。執行は七日後と決まった。
「死刑、死刑だと!」
「弁論では審問官を圧倒していたのではなかったのか?」
「そうだ、師は自らの正しさを証明したはずだ」
 屋敷に集まった弟子たちは騒然としていた。
 そこへ傍聴席にいたゾキロと伝令役のウィカが戻ってきたので、皆が詰め寄った。
「どういうことなんだ!」
「一体、なぜ……!?」
「それどころではないぞ」青ざめた顔でゾキロは言った。「オココヅとサバチも逮捕された」
「何だって!?」
 オココヅとサバチは証人として出廷していた弟子である。彼らは審問所を出ることを許されず身柄を拘束されたのだった。
「このままにしておけるか、抗議に行くぞ!」
「そうだ、審問所に押し掛けるんだ!」
 弟子たちは口々に叫んだ。
「莫迦な、そんなことをしてもまとめて逮捕されるのがおちだ」
「われわれもこんな所に集まっていては危いのでは……」
 皆、声高に意見を交わした。
「聞いてくれ」ギルノが一同を鎮めた。「ここはいったん各人身を隠してから、連絡を取り合って対策を考えよう」そうまとめて解散することになった。

 夜になった。この頃は白夜の季節で、沈むことのない太陽がおぼろな赤い光で街を照らしていた。
 ガロニトはゾキロの住居を訪ねた。
 なぜラズズール師は死刑にならねばならないのか、彼はそれを知りたかった。
「おお、ガロニトか、よくきた」
 ゾキロは紫色のローブを着て水晶の盃から葡萄酒を飲んでいた。
「お前も飲めむか?」と酒瓶と手に取った。
「いえ、私は……」ガロニトは断った。「ここにいて大丈夫なのですか?」
「ああ、すぐに全員逮捕ということもあるまい。それに私ももう歳だ。逮捕なら逮捕で抵抗する気はない」
 ゾキロはラズズールの弟子の中では一番の高齢で、裕福な暮らしをしていた。
「だがガロニトよ、お前はまだ若い。それに弟子の中でもとくに優秀だ。無茶をして命を粗末にするようなことはやめておけ。何とか国外へ逃れてでも師の教えを伝えるのだ」
「ゾキロさん、ぼくは師の判決の時の様子を知りたくて来たのです」
「そうか……、師は、有罪の宣告を聞いてもうろたえたりはしなかった。それも運命と受け止めているようだった」
「でも、弁論では自分の正しさを主張したのでしょう?」
「それはそうだ。われわれは何も間違ったことなどしていないのだから。だが、市民の評決が有罪ではな……」
「なぜ、市民は有罪を選んだのでしょう?」
「ふむ、それはな……、論理的には、師は完全に正しかったと、私は思う。追及する審問官も言葉を失うほどにな。しかしあまりに高邁な理論というものは人を不安にさせることもあるものだ」
「それでは市民が愚かなんだ。そのために師は死刑に……」
「仕方のないことだ。それが市民というものだ。それになガロニト。今思えばあの半年前の演説での逮捕、あれも異端審問官の策略だったのではないかと思うのだ。あの時は無罪になったが、半年のうちに二度目の逮捕だ。たとえ灰色の疑惑でも、二つ重なれば黒に思える。市民の考えなどそんなものだ。理論だけではどうにもならんのだ」
「師は、審問官と論争するのではなく、市民に向けてわかりやすく語るべきではなかったのでしょうか」ガロニトは自分の考えを述べた。
「そうかもしれん。だが、師には師の考えがあったのだろう。私にはわからんよ」
「そうですか」
 ガロニトはゾキロの部屋を辞去した。

 ガロニトが自分の下宿へ帰ると、部屋の前に茶色の修道服の人物が二人佇んでいた。彼の帰りを待っていたミズクとウィカだった。
「どうした?」
「ギルノが呼んでる」ミズクが言った。
「何をする気だ?」
「われわれでラズズール師を救出する」ウィカが言った。
「どうやって?」
「魔術を使うんだ」とミズクは言った。

 三人がギルノの家へ行くと、そこではギルノとヒュジンが儀式のための準備を進めていた。
 黒いカーテンで囲われた部屋で、香炉が焚かれ、燭台の蝋燭に火が灯された。床には複雑な魔方陣が描かれていた。
「ガロニト、来てくれたか」ギルノは言った。
「何をする気なんです?」ガロニトは尋ねた。
「“黒の道”を使う」
「それは……禁じられた技だ」
「ふん、われわれはすでに異端の烙印を押されているんだぞ。手段を選んでる場合じゃない」
「そうだ」とヒュジンも同意した。
「四人で呪文を唱え、一人を牢獄へ送り込む。問題は誰を送るかだが……、これは危険が伴う。もっとも魔術の能力が優秀なものが行くべきだ」
 そう言ってギルノは四人を見渡した。
「ぼくが行きます」ガロニトは言った。
 ギルノは頷いて「他のもの異論は?」と尋ねた。
 他の三人は無言だった。
「では頼むぞガロニト」
 ガロニトは魔方陣の中央に立った。
 四人が四方に立ち両手をかざしながら呪文を唱えはじめた。

  える おうる あこるた はいら るうむ
  むる まうる おるこす ほうる うるえ
  かるます かるます きひきる うえ!
  かるます かるます きひきる うえ!
  える おうる あこるた はいら るうむ
  むる まうる おるこす ほうる うるえ

 やがて、ガロニトの体は黒い靄に包まれていった。
 ガロニトは猛烈な眩暈を感じた。
 視界を幾筋もの光の矢が走った。
 意識が遠のく……

 ガロニトの精神は暗黒の魔術空間を彷徨っていた。
「師よ、ラズズール師よ……、お答えください」
 と、呼びかけた。
 先方からの返答がなければ着地点を決められなかった。
「ラズズール師、どうか」
 必死で呼びかけをつづけた。
「師よ……」
「私を呼ぶのは誰だ?」と応答があった。
「ガロニトです。どこです、師よ?」
「私はここだ」
 そう応える思念に導かれてガロニトの身体は、ラズズール師が囚われている牢獄へと実体化した。
「ガロニト、これは黒魔術だぞ」老師はいさめるように言った。
 ラズズール師は、石の壁で囲われた監房で、粗末な木の椅子に腰かけていた。
「師をお救いするためです。このまま死刑にさせるわけにはいきません」
「愚かなことを。すぐに戻りなさい」
「なぜです、このままでは死刑になるだけです」
「市民による評決の結果だ」
「それを受け入れるというのですか?」
「そうだ。私とて市民の一人には変わりない。法の命ずるところには従わねばならん」
「しかし……しかし、市民はあなたの考えを理解してはいない。異端審問官の策動に惑わされているのです」
「私の考えはじゅうぶんに語ったはずだ」
「それでも理解を得られなければ……、もっと市民に直接訴えかけるように、わかりやすく語ってみては……」
「それは誠実さを欠くことだ。ガロニトよ。私の考えは、私の言葉でしか語ることはできないのだ」
「しかし……、いえ、ともかく一緒においでください。いったんこの牢獄を逃れましょう」
 ラズズール師は黙って首を振った。そして、もうガロニトに目を向けることもなく、ただ壁を見つめていた。
「師よ、では本当に……」
「さらばだガロニト。最後にお前と話せてよかった」
 その時、《黒の道》の効果が限界をむかえ、ガロニトの身体は暗黒の空間へと引き込まれた。

 ガロニトは、ギルノらの待つ儀式の間へもどった。
「一人で戻ったのか!?」ギルノが尋ねた。
「ええ」
「どうしてだ、師には会えなかったのか?」
「会いました。が、師は心を決めておいでです」
「どういうことだ?」
「市民が決めた以上、自分は死刑を受け入れると」
「莫迦な!」
「それで黙って引き下がってきたのか?」とヒュジンはガロニトにつかみかかった。
「説得はしました。しかし……」
「待て。誰か来るぞ」ウィカがヒュジンの腕を押さえて言った。
 騎馬の蹄が石畳を蹴る音が響いていた。
 ミズクがカーテンの隙間から外の様子をうかがって言った。「異端審問官だ! 武装している。この家に入ろうとしている」
「俺が行く」と大男のヒュジンが素早く部屋を出ていった。
 少し遅れてウィカも後について行った。
 玄関のほうから押し問答の気配が聞こえてきた。そして咳き込むような呻き声。
 ウィカが青ざめた顔で戻ってきた。
「ヒュジンが斬られました! 奴らすぐここへ来ます」
「二手に分かれて逃げよう」ギルノがすぐに決断して言った。「ウィカとミズクは裏口へ。私とガロニトは地下へ行く。落ち合う場所はユヴィラの酒場だ」
 ウィカとミズクは慌てて裏口へ向かった。
 ギルノは隠し扉を開け、ガロニトを地下へ通じる階段へ導いた。
 地下室へ着くと、明かりを灯し、彼は言った。「あの二人も助かるまい」
「それがわかっていながら!」ガロニトは言葉を荒げギルノの腕をつかんだ。
「仕方あるまい、誰かが生き延びねばならん」
 その地下室には古い書物や魔術道具が大量に保管されていた。
 ギルノは机の引き出しを開け、その奥に隠されていたものを取り出すとガロニトに手渡した。
 それは小さな黒い鍵だった。
「シフの洞窟は知っているな?」
「ええ」
「そこに師が集めた禁断の魔道書が隠してある」
「魔道書……、しかし、あそこはすでに氷に閉ざされているはず」
「その鍵をもって洞窟に近づいたら、『ウ・ヴァラ』と言うんだ。その呪文であらわれる錠に鍵を挿せば道が開ける」
 ギルノは床板の一枚を外した。そこにはさらに地下深くへと通じる階段があった。
「行け。魔道書をどう使うかは、お前に任せる」
「しかし、あなたは!?」
「ここもすぐ奴らに気づかれる。おれは残って時間を稼ぐ」
「いや、ならば……」
「お前が行くんだ。議論しているひまはないぞ」
 ギルノはガロニトの身体を階段へと押しやった。そうしてる間にも上階から隠し扉を破壊する音が響いてきた。
 ガロニトは階段を降りた。別れを告げる間もなくギルノは床板を閉じた。
 隙間から漏れるわずかな明かりで、用意されていたランタンを見つけた。
 ランタンに灯を入れ、地下道を進んだ。
 間もなく腹に響く轟音と振動がガロニトを襲った。通路に砂煙がたちこめた。
 振り返り、後方をランタンで照らすと、地下道の入り口が瓦礫でふさがれているのが見えた。
 ギルノが異端審問官を道連れに自爆したのだった。

 地下道は町はずれの廃墟に通じていた。
 そこは異端として追放された古い宗派の教会跡だった。
 ユヴィラの酒場はすぐ近くだった。
 ガロニトは酒場に入っていった。
 酔いつぶれた男が一人、椅子にもたれていびきをかいていた。
 ここの主人ユヴィラはラズズール師の密かなシンパなので、弟子たちには何かと親切にしてくれた。
 ミズクとウィカが街中で異端審問官に逮捕されたという噂がすでにここまで伝わっていた。 
 ガロニトが国外へ脱出するつもりだと告げると、主人は馬と食料を用意してくれた。
 ガロニトはシフの洞窟へと向かった。
 時刻は真夜中を過ぎていたが、空は赤紫色に輝いていた。
 氷河を渡り、山岳地へと分け入る。
 白夜が明ける頃、洞窟の入り口近くへ着いた。
 やはり、そこは厚い氷に覆われていた。
 ガロニトは黒い鍵を取り出し、呪文を口にした。
「ウ・ヴァラ」と。
 すると、鍵穴のついた錠前が虚空に浮かび上がった。
 鍵を挿し回転させる。
 錠は消え、鍵だけが手の中に残った。 
 前方の氷の壁には、ぽっかりと道が開けていた。
 ガロニトは馬を放した。
 朝日を浴びて、きらきらと光っている氷の壁を抜け、洞窟へと入っていった。
 しばらく行くと小さな木の扉があった。その奥がラズズールの魔道書の保管庫だった。
 ランタンを灯して扉をくぐった。
 本棚にいっぱい、書物が収められていた。
 読書用の机と椅子もある。
 ガロニトはランタンを机の上において、書物のタイトルを眺めた。
『死霊秘法』『ナコト写本』『エイボンの書』『無名祭祀書』『屍食教典儀』『ルルイエ異本』『妖蛆の秘密』……
 ラズズール師が長年にわたり世界を旅し、密かに持ち帰った禁じられた奥義書の数々だった。
 いずれも所持しているだけで異端の罪を逃れられないものばかりだが、師はこれらの中にこそ国を守るのに必要な知識が隠されていると信じていた。
 書物のほかに、未知の言語が刻まれた石版や陶片を並べた棚があった。
 ガロニトはその中から青い皮装の小型のノートを手に取った。
 表紙は鍵付きのベルトで留められるようになっていたが、すでに鍵は壊されていた。
 それは師が遠い異国より持ち帰ったもので、ガロニトも見せてもらったことがあった。
 このノートには、複雑な意味を持つ古代キタイ文字と、簡略化された記号のような文字の混成からなる手書きの文章が記されていた。
 最初のページには表題らしい文字があって“暗闇を歩け”と書かれていたが、ガロニトにはその意味を知ることはできなかった。
 彼はノートを棚に戻すと、次はアブドゥル・アルハザードなる人物が記した魔道の奥義書『死霊秘法』を手に取った。
 椅子に腰かけ、一ページづつ目を通し始めた。

 その考えがガロニトの心に浮かんだのは、自分自身で思いついたのか、あるいは魔道書に巣くっていた悪霊にでもとり憑かれたためなのか、自分でもわからなかった。
 とにかく彼は魔道書のページを繰るうちに、必要な知識をフォン・ユンツトによる『無名祭祀書』の中に見つけた。
 そして彼は待った、星座が求める位置に来るのを。
 ラズズール師の死刑の日もいつの間にか過ぎ去り、少しづつ摂ってきた食料が尽きるころ、その時が来た。
 彼は山を降り、ガルケルトの首都、黒い尖塔が建ち並ぶザロンを見下ろす崖の上に立った。
 そこで、クトゥーガを喚ぶ呪文を唱えた。
 やがて、太陽よりも眩しい光が都市に降り注いだ。
「世界よ、燃えろ」彼は呟いた。

2014年5月25日日曜日

魔の谷にて

 その井戸はラーノス辺境の砂漠の奥地にあった。ザタスクの町からもギファ・オアシスからも等しく離れた場所である。
 砂漠の真ん中にぽつんと一つだけの井戸。水が湧いているわけでもなく、ほとんど砂で埋もれていた。誰が何のために作ったものかも知られていなかった。
 灼熱の陽射しの下、二人の男が井戸から砂をかき出していた。
 痩せこけた小柄な男が井戸の中でバケツで砂をすくうと、筋骨隆々の大男がそれを引き上げてあたりにぶちまけた。
 彼らは夜のうちに砂漠を渡り、夜明けとともにこの作業を始めていた。今はもう太陽は中天にかかり、井戸の底まで熱い日射しに照らされていた。
「なあ、タウロン。少し休もうぜ」井戸の中の男がそう言ってへたりこんだ。
 大男がからにしたバケツを投げ込んで言った。「もう少しじゃないか、がんばれ」
 彼は岩につないだ馬のところに行って皮袋を取ると中の水を一口飲んだ。それから井戸の縁に立つと下で座り込んでいる男の頭へ垂らしてやった。
「うへっ」井戸の底の男は上を向いて水を舐めた。
 それで元気が出たのか小柄な男は、掘り進んだ井戸の高さを目測すると、かがみこんである一角の砂を手でかき出した。あらわれてきた井戸の壁を手で探ると彼は声を上げた。「おい、タウロン! タウロン!」
「どうした、ギーガ?」
「あったぞ、古文書の通りだ。刻みのある石だ!」
 大男タウロンはロープを伝って井戸の底へ降り立った。
 ギーガと呼ばれた男は、腰に吊った布袋から奇妙な凹凸のある四角い石を取り出した。
 それは、戦士タウロンと盗賊のギーガ、この二人が長い冒険行の末に、北の涯てニルンの地の氷に閉ざされた寺院の奥で見つけ出した石印だった。
 ギーガは石印を井戸の壁の刻みに押し当てた。
「うん、ぴったりだ」
 さらに石印を押し込むと、ゴゴゴッと重たげな石のこすれる音が響いた。
 井戸全体が激しく揺れだした。
「う、うわっ」
「落ち着け、ギーガ」
 足元の砂が流れ出した。井戸を埋めていた砂がみるみる減っていった。まるで砂時計の中に立っているようだった。
 やがて砂がすべて流れ落ちると、井戸の本当の底である石の床に二人は立っていた。そして二人の目の前には暗黒の窖へ通じる入り口が開いていた。
 二人はそれぞれ松明を手に暗闇の中へ踏み込んでいった。
 ゆるやかな下りの通路をしばらく進むと前方に石の扉があった。
 タウロンが手で押すと扉は音もなくすんなりと開いた。
 暗い広間を松明の炎が照らすと、奥の壁に三つの窪みが見えた。
 窪みのそれぞれには干からびた屍体らしきものがうずくまっていた。
「あ、あれは、木乃伊か?」恐る恐る足を進めながらギーガは言った。
 よく見るとそれらは三体とも手に頑丈そうな木の棒を握りしめていた。
「棍棒を持った木乃伊とはめずらしいな」
 二人が広間の中央あたりへさしかかると、三つの屍の眼窩の奥に、暗い鬼火のような光が灯った。
「待て、そいつは木乃伊じゃないぞ!」タウロンが言った。
 屍三体が動き出した。立ち上がり棍棒を振り上げた。
「あ、わわっ。ゾ、ゾンビ!」
「下がっていろ」タウロンは松明を捨て腰の大剣を抜いた。
「だ、だ、だいじょうぶか。相手は三体だぞ」
「まかせておけ」
 タウロンは獣のようなしなやかな動きで前進した。
 三体の生ける屍がタウロンに襲いかかった。
 戦士の剣が一閃した。
 ゾンビの一体は腹を裂かれ、もう一体は腕を切り落とされた。
 残る一体はいったん後退したが、すぐにふたたび向かってきた。
 タウロンが剣を振るうと、その一体も袈裟懸けに斬られ、くずおれた。
 ゾンビは三体とも塵となって消散した。
「ふう、いつもながら大した腕前だ」とギーガは言った。
 タウロンは剣を収め松明を拾った。
「行こう」
 広間を抜けると、その先で通路は左右に分かれていた。
「こっから先は迷路らしいな」
 とギーガが先に立って歩き出した。
 迷路には落とし穴や、左右から飛び出す槍などいくつものトラップが仕掛けられていたが、いずれもギーガが目ざとく見つけ出し、避けて通ることが出来た。
 しばらく行き来するうちにやがて中央に位置するとみられる小部屋へたどり着いた。
 部屋の奥は石作りの小さな祭壇になっていてその上に古びた宝箱が置かれていた。
 ギーガが慎重に周囲を調べながら祭壇に歩み寄ると、手製の工具で錠を解き、箱を開いた。
「あったぞ、石だ!」
 箱の中では、握り拳ほどもある大きさの青い宝石が、ゆれる炎を反射して妖しく輝いていた。
 盗賊が宝石に手を伸ばしたところ、タウロンがするどく声を上げた。「待て! 誰かいるぞ」
「何だって?」
「見ろ」
 部屋の入り口のところで不気味な影がゆらめいていた。
 影はやがて人の形をとり実体化した。それはフードつきの黒いマントで身体を覆った痩せこけた男で、フードの下から生白い皮膚のしわだらけ顔が見えた。
 マントの男は、手に持った細長い筒を口に当てるとシュッ、シュッと素早く二度息を吐いた。
 タウロンは反射的に剣を抜いて飛来した物体をはじき返した。
「吹き矢だ!」
「うっ、……うう」
 ギーガの胸に矢が刺さっていた。彼は口から泡を吹いて床に倒れた。
「おのれ、何者だ!?」
「フッフッフ……」男は含み笑いをもらし、ふたたび筒先をタウロンへ向けた。
 放たれた矢を剣がはじく。
「無駄だ。吹き矢でおれは倒せん!」
「フフッ、では、これならどうかな」男は、左手を前方にかざし小声で呪文をつぶやいた。「火よ。我にしたがえ!」
 松明の炎が目が眩むほど激しく輝いたかと思うと、その直後に火は消えてしまった。
 辺りは完全な闇に包まれた。
 シュッと吹き矢の吐き出される音が響いた。
 タウロンの剣が矢を跳ね飛ばした。もとより目で矢の動きを追っているわけではなかった。
 戦士は感覚を研ぎ澄まし、敵の気配を探った。
 暗闇の中、息を殺してゆっくりと位置を変えてゆく影の鼓動。
 コトリと、祭壇の上でかすかな音がした。
「そこだっ!」
 タウロンは床を蹴り、剣を走らせた。
 手ごたえはあった。
 床の上に小さな金属片の落ちる音が響いた。
「ううっ」かすかな呻き声とともにポタリポタリと液体の滴る音。
 だがその声はやがて「フッフッフッ、ハハハハハッ」という哄笑にかわりながら、気配が消えていった。
 タウロンはしばらくじっと動かず警戒していた。
 敵の気配は完全に消えていた。
 現われ方といい、消え方といいどうやら敵は妖術の使い手のようだ。
 タウロンは火を起こし松明を灯した。
 そしてまず、倒れたギーガの首筋に触れ脈を調べた。
 数々の冒険をともにした相棒は、もはや手の施しようもなく死んでいた。
 床には数滴の血が飛び散っていた。その中に細い鎖のついた小さな金のプレートが落ちていた。手にとって見るとそこには、正三角形の中に人の目のような図が刻印されていた。
 宝箱の中の宝石は失くなっていた。

 タウロンはギーガの死体をかついで地上へ出た。
 死体は砂に埋めて葬った。
 井戸の近くに繋いであった馬は、胴体が爆発したかのように内臓を飛び散らせて死んでいた。飲み水も砂に吸われていた。あの妖術使いの仕業だろう。
 大男は地下室へ引き返し日が暮れるのを待った。
 夜になれば気温は下がる。だが、いかに屈強な戦士といえど、馬も水もなしに砂漠を渡るのは不可能だった。ここは人のいるザタスクの町からもギファ・オアシスからも等しく離れた場所だった。
 それでも彼は、夜空の星を見て方向を確かめると砂の上を歩き出した。
 夜中歩きとおしても景色は変わらなかった。どちらを見ても地上にあるのは砂だけだった。
 朝が近づき、空が色づいてきた。
 朝日が昇ると、その位置で自分が正しい方向へ歩いてきたことを確認した。
 すでに喉はからからに渇いていた。間もなく気温も上り始める。
 立ち止まることは出来なかった。日差しを避ける影もない。
 やがて戦士はふらつき、倒れた。しばらくすると立ち上がり前へ進んだが、すぐにまた倒れた。そんなことを何度かくりかえしながら、そのうち倒れたまま動かなくなった。
 彼は気絶した。

 バケツいっぱいの水を浴びせられてタウロンの意識は戻った。
 体が動かなかった。自分の置かれた状況を把握できずにいると、口の中に水が注ぎ込まれた。
 渇ききった喉が癒され、全身に水が滲みわたっていくようだった。
 目を開くと陽射しがまぶしい。
 背に伝わる振動から、荷車のようなもので運ばれているらしいと感じた。
 腕を動かそうとすると重い鎖で繋がれているのがわかった。さらに彼の体は鳥かごのような鉄格子で囲われていた。
「イヒヒヒッ、どうやら気がついたようじゃの」甲高い男の声がした。
 同じ荷台の上にクッション付きの椅子に座った太った男がいた。白髪に赤ら顔で体のあちこちに宝石をつけていて、格子越しに水を飲ませるのに使った柄の長いひしゃくを手にしていた。
「誰だ、お前は?」タウロンは首だけを男のほうへ向けて言った。
「私は砂漠の商人。名をモイという」
「この鎖は何だ? おれをどうする気だ?」
「ヒヒヒ、いい拾い物だ。西方のコロッセ辺りへ行けば、奴隷戦士が高く売れる。お前の体ならいい値段がつくだろう」
「ふん、グラジエーターか。まあいい。それより腹がへった。何か食わしてくれないか」
「もうすぐ町に着く。しばらく水だけで我慢せい」
 すぐ町か、どうやらおれは狙いどおり場所で倒れることができたらしい、とタウロンは思った。彼は町へもオアシスへも歩いて横断するのは不可能とみて、その二点の中間地点を目指したのだった。その辺りならばザタスク‐ギファ間を行き来する隊商が日に何組も通りかかるはずだった。それでも危険な賭けではあったが、うまくいった。奴隷商人に拾われたのは計算違いだったが。
 駱駝に引かれた荷車がザタスクの町へ入ると、タウロンはモイを呼んだ。
「コロッセでおれはいくらで売れそうなんだ?」
「まあ、50ギレといったところだろうな」
「ずいぶん安いな」
「砂漠で行き倒れてるような奴じゃそんなものだ」
「いいだろう。では、その額をおれが払おう」
「何だと、お前は文無しではないか」
「この町におれの知り合いがいる。金はそいつに借りられるだろう」
「ふむ、それは何者かね?」
「占い師のアグノという男だ」
「よかろう。探してやる」
 商人のモイは使いの者にアグノを探しに行かせた。
 しばらくすると、茶色のローブを着た卵のような禿頭の長身の男がやってきた。
「タウロンよ、久しぶりに呼ばれて来てみれば、何だその様は」
「おおアグノ。早速で悪いが、その男に50ギレほど払ってくれないか」
「50ギレだと、ふうむ、どうしたものか……」
「すぐに返すよ」
「返せる当てはあるんだろうな」
「ああ」
 アグノは疑わしそうに目を細め、檻の中の戦士を見た。
 タウロンは格子に顔を寄せて囁いた。「ジリーヌの青い石」
「見つけたのか!?」アグノが囁きかえした。
 檻の中の男は目だけで肯いた。
「ふむ、わかった」
 アグノはモイに代金を支払おうとした。
「この男を自由にしたければ100ギレ払ってもらおう」モイは言った。
「ん、100だと、50ではないのか?」
「100だ」
「どういうことだ。モイよ。先刻は50と言ったはずだぞ」タウロンが鎖を鳴らしながら言った。
「代金を決めるのは私だ。お前の値段は100ギレと決めたのだ」
「おい、おれを怒らせないほうがいいぞ!」とタウロンは腕に力を込めた。
「100だ」
 タウロンはさらに力を込めた。するとバキッと荷台の板が割れる音が響き、鎖が留め金ごと外れた。戦士が自由になった腕を振るうと、鎖が格子の間を抜け奴隷商人の首に巻きついた。
「ふざけるなよ、この人買野郎!」タウロンは格子越しにモイの首を締め上げた。「お前を殺さずにおいたのは町まで運んでもらうためだけだったのだぞ」
 モイの顔が窒息して赤くなってきたのを見てタウロンは力をわずかに緩めた。
「うっ、ぐふっ、わ、わかった、言うとおりにする」
「鍵を渡せ」
 モイはベルトに下げた鍵を外すと震える手でタウロンに差し出した。
 タウロンは手枷を解き檻を開けると地面に降り立った。荷車に積まれていた自分の剣を取り返し、彼は言った。
「行こうアグノ。とりあえず飯だ」

 町の中で適当な飯屋に入るとタウロンはたっぷりと料理を頼んだ。
「飯代もないんだろうな」アグノは言った。
「ああ、貸しといてくれ」
「飯代ぐらいはいいが、じつをいうとこのところ懐が乏しいのだ」
「占い屋は儲かってないのか?」
「いや商売はまあまあだがな、最近ちょっとした買い物で奮発してな」
「何を買った?」
「古い巻物だ」
「巻物?」
「ああ、『シフの洞窟』という太古の叙事詩なんだ」
「ふん、そんな物が役に立つのか?」
「じつに興味深い内容だよ。それはそうと、ギーガはどうした?」
 タウロンは料理をかきこむ手を止めた。
「あいつは死んだよ。妖術使いの毒矢にやられた」
「妖術使い……何者だ?」
「わからん。それをお前に調べて欲しいのだ。ジリーヌの青い石もそいつに奪われた」
「そうか、ギーガは死んだか。いい奴だったがな……」
 食事を終えると二人はアグノが占いを商っている町外れの小屋へ行った。
 泥棒よけの結界を解いて中へ入るとアグノは古びた巻物を手にとってタウロンに見せた。
「ほらこれが世にも珍しい叙事詩だよ」
 タウロンが興味を示さないとアグノは残念そうにそれをしまいこんだ。
「占いだったな。そこに座ってくれ」
 絨緞を敷いた床にタウロンを座らせた。
 アグノは水の入った鉢を用意して対面に座った。
「その妖術使いの姿は見たんだろうな?」
「ああ、見たとも」
「では、気を楽にして、その姿を思い浮かべてくれ」
 タウロンが目を閉じて記憶を呼び起こすと、アグノは鉢の水面に手をかざし、小声で呪文を唱えた。
「難しいな……。何かそいつの持ち物があるといいんだが」
「ある」タウロンはベルトにつけた皮袋から金属の小さなプレートを取り出した。「おれが斬りつけた際に落としていった物だ」
「おお、それはいい」
 アグノは受け取ったプレートを水の中へ静かに沈めた。
 ふたたび手をかざし呪文をつぶやく。
 すると水面にさざ波が立ちはじめた。光がきらめいて揺れ動いた。
「おお、見える、見えるぞ」目を閉じたアグノが苦しげに言った。「妖術使い……名は、フランジス!…………恐るべき男だ……恐ろしい企みを抱いておる…………」
「企みとは何だ?」
「わからない……、だが居場所は、居場所はわかるぞ……」
「どこだ?」
「南東の方角…………カリエンの森を抜け……目指すは……ダライの谷!」
 そう言うとアグノはかっと目を見開き、止めていた息を吐き、激しく肩を上下させた。
「大丈夫か?」
「ああ、お前の敵の名はフランジス。ダライの谷に向かっている」
「ダライの谷……」
「“魔の谷”と呼ばれている所だ。普通の人間が踏み込んで生きて帰った者はないと言われている」
「そうか、礼を言うぞ。石を取り戻したらお前にくれてやる。ラーノス王家が賞金をかけている宝玉だ。いい金になるだろう。おれは奴の命をもらう」
 タウロンは、町で頑丈な馬を手に入れるとすぐに旅立った。南東へ、魔の谷を目指して。

 大木の生い茂った広大なカリエンの森は昼でも薄暗い。
 タウロンは森の中を馬を飛ばして駆け通した。
 そのうちに彼は道に迷っている気がしてきた。いくら走っても景色が変わらない。同じところをぐるぐると回りつづけているよう思えた。
 タウロンは人一倍鋭敏な方向感覚を持っていた。普通なら進むべき方向を見失うなどということは、まずないはずだった。
 彼は目印を見定めながら慎重に馬を進めた。しかしやはりしばらく行くといつの間にか同じ場所に戻ってしまうのだった。
「誰だ……?」戦士は周囲を見渡し気配を探った。
 森の中は小鳥の声ひとつ聞こえず静まり返っていた。
 おれが進むのを邪魔している奴がいる、そうとしか考えられなかった。
「誰だ! 姿を見せろ!」
 タウロンがそう叫ぶと、森の中を一陣の突風が吹きぬけた。
 彼の目の前で舞い上がった木の葉が渦を巻いた。
 風が静まるとそこに一人の女が立っていた。裾の長い黒衣をまとった、長い黒髪で肌の白い女だった。
「何者だ?」タウロンは問いかけた。
「妾はメルドロスの魔女、イリューミラ」
 一見して大人の女と思ったが、声を聞くと少女のようでもあった。
「魔女か。なぜおれの邪魔をする?」
「この先へ進むのは危険だ。魔の谷では恐ろしいことが起ころうとしている」
「危険は承知だ。どけ」
「魔の谷におるのは妖術使いのフランジスだ。お前の剣では太刀打できまい」
「やってみなければわからんだろう」
「無駄だ。犬死するのがおちだ」
「お前の知ったことか?」
「フランジスは魔の谷の環状列石で魔界の扉を開こうとしている。ジリーヌの青い石がその鍵なのだ」
「魔界の扉だと……、それが開いたらどうなる?」
「恐るべき怪物ニョグタがあらわれる。そうなれば地上の王国はつぎつぎにフランジスの支配に屈することとなろう。それを阻止するために妾はメルドロスより参ったのだ」
「お前に奴を止められるのか? イリューミラよ」
「妾一人では無理だ。それでお前の力を借りたいのだ」
「二人で協力すれば奴を倒せるということか?」
「そうだ」
「ふむ、で、何をする?」
「剣を出せ。柄をこちらへ」
 タウロンは剣を鞘ごとベルトから外し、柄の方を向けてイリューミラへ突き出した。
 魔女イリューミラは自分の手首に巻いていた赤と黄の組紐を解くと、それを剣の柄に結びつけた。
「不死鳥の羽で作った組紐だ。これが切れるまでの間この剣は魔を討つ刃となる」
「これであの妖術使いを倒せるのか?」
「ああ、斬れる距離まで近づければだが」
「それは何とかする」
「ジリーヌの青い石が奴の魔力を高めている。用心してかかることだ」
「わかった」
 イリューミラは仕上げにタウロンに魔除けの呪文をかけた。
 タウロンは魔女に別れを告げ、カリエンの森をあとにした。

 森を抜けるともう陽は暮れかけていた。空は暗紫色で、彼が進む方向には燃えているように赤く大きな満月が昇っていた。
 荒れ地を渡り、魔の谷へ踏み込むと無数の黄色い蝶たちが、これから起こる凶事を予知したかのように飛び去っていった。
 魔の谷ことダライの谷は切り立った灰色の岩盤が左右に連なり、青緑色の奇怪な植物が点々と根をのばしていた。
 谷底の小径を進んでいくと麝香に似た奇妙な匂いが漂ってきた。そして地鳴りが低く轟き、時おり落雷のような青白い閃光があたりを照らした。
 さらに何度か閃光が走った頃、谷の最奥へと辿り着いた。そこは両側の崖が左右に広がり円形の広場になってつながっていた。中央部は一段低い窪地をなしていた。
 タウロンは窪地の手前で静かに馬の歩みを止め、地面に降り立った。
 馬は怯えて、手綱を放した途端にもと来た方向へ駆け去ってしまった。
 戦士は窪地の淵に身を伏せ、下の様子をうかがった。
 そこには巨大な石が環状に配置された遺跡があった。その中心部では黒い泥のようなものが泡立ちながら蠢いていた。
 そして黒いマントに身を包んだ妖術使いフランジスがテーブル状の石の上に立って、青い宝石を握りしめた手を沸き立つ泥の方へとかざしながら、呪文のような言葉を叫んでいた。

  聞けや、ニャルラトテップよ!
  ありえざるものを我に与えよ!
  闇に棲むもの、我が言葉に従え! 
  ニョグタ! ニョグタ! ニョグタ!

 蠢く黒い泥はじょじょに大きくなってきていた。
 タウロンは妖術使いの立つ石までの距離を目測すると、立ち上がり数歩後方へさがった。剣を抜くと、助走をつけ窪地の淵から一気にジャンプした。
「覚悟しろフランジス!」
 空中で叫び、妖術使いのすぐ後ろに着地した。
「き、貴様っ!」
 フランジスは驚いて振り返った。手の中の宝石から閃光を発した。
 光を浴びたタウロンの全身は焼け付くような痛みを感じたが、かまわず剣を振るい妖術使いの肩口から脇腹へとなで斬りにした。
 赤黒い血を吹きながらフランジスは倒れた。倒れながら青い宝石を蠢く泥に向かって投げつけた。
「ニョグタ! ニョグタよ……目覚めよ……世界を呑みつくせ!」
 タウロンはフランジスの首に斬りつけとどめを刺した。
 地面を転がった宝石は泥の手前で止まった。
 すると泥の一部が触手のように細長く延びて宝石をつかみ上げた。
 その途端、宝石から青い稲妻状の光が八方に飛び散った。
 黒い泥は虹色に発光しながら爆発的に増殖しはじめた。あっという間に遺跡全体を覆うほどに成長した。
 泥状の怪物ニョグタはフランジスの屍体を呑みこんだ。
 タウロンは転げるように遺跡の外へ逃れていた。
「お前がニョグタか!?」
 怪物は無数の触手をタウロンへ向けて延ばしてきた。
 タウロンは魔を討つ刃を腰だめに構えると、蠢く泥の中心めがけて突きかかっていった。
「うおぉぉぉぉぉぉーっ!!」

2014年5月18日日曜日

地底の饗宴

 〈夢見〉は瞑想用のアイソレーション・タンクから這い出すと、本部直通の通話器を手に取った。
「はい、こちら本部」と〈風水〉が応答した。
「夢を見ました……予知夢です……大変なことに、早く対応を……」〈夢見〉は言った。
 長時間の瞑想により精神力を消耗して息もたえだえだった。
「しっかりするんだ〈夢見〉。何を見たのか報告しろ」
「都内……四ヶ所で、無差別殺人が……」
「無差別殺人だって! で、場所は?」
「よく聞いて……新宿歌舞伎町、女が刃物をふりまわす……東京ドーム付近、金属バットをもった男……お台場海浜公園、猟銃の乱射……それから、江東区南砂では木造アパートの密集地で放火……早く、時間がない……」
 やっとの思いでそれだけ告げると〈夢見〉は気絶した。
 国際組織オリオンは、ただちに所轄の各警察署に緊急警戒を要請した。

 だが、その時すでに事件は動き始めていた。
 午後三時三十分。文京区の東京ドーム前には、ナイターの観客が集まり始めていた。
 そこへ、阪神タイガースの応援ハッピを着て、手に金属バットを持った目つきの怪しい男があらわれた。男はわけの判らない叫び声を上げると、金属バットを振り上げ、入場を待つ人々の列に殴りかかった。
 しかしそこにいたのはジャイアンツ・ファンのグループで、すぐに連携して男を取り押さえたため大事には至らず、数名が軽い打撲傷を負っただけで済んだ。
 午後三時四十四分。新宿歌舞伎町では、いっけん地味で真面目そうなOLがうつろな目をしてとぼとぼと歩いていた。土曜の午後とあって人通りは多い。流れに逆らうように歩く彼女を、歩行者は邪魔そうによけていく。
 やがて彼女は立ち止まった。そしてハンドバッグから出刃包丁をとりだすと、いきなり目の前にいたアベックの女を刺した。
 さらに一緒にいた男や周囲の通行人につぎつぎに斬りかかった。
 警官が駆けつけるまでに五人が重軽傷を負った。最初に刺された女は重体だった。
 午後三時五十一分。お台場海浜公園の植え込みに潜んでいた男が猟銃を発砲し始めた。行楽客でにぎわっていた現場はたちまちパニックに陥った。
 すでに警戒を始めていた警官隊との間で激しい銃撃戦が展開された。ライフル魔が制圧されるまでに、警官一人を含め四人が重傷を負い、犯人も右肩を撃ち抜かれた。
 午後四時。江東区南砂の住宅街でパトロール中の警官が、放火未遂の男を現行犯で逮捕した。
 男は近くに住む大学生で、木造アパートの周囲に灯油を撒き、チャッカマンで火を点ける直前で警官に発見されたのだった。

 こうして〈夢見〉が予言した四つの事件の犯人は逮捕された。
 そのうちの一人、お台場で猟銃を乱射した男は、銀行強盗として指名手配されていたことが判明した。ライトバンで寝起きしながら各地を転々としていたらしい。
 だが、南砂の放火未遂犯は大学生、歌舞伎町と東京ドームの二人は勤め人で、犯罪と関わりのなさそうな真面目な人物だった。
 四つの事件の犯人はいずれも逮捕の際、錯乱状態にあり激しく抵抗した。しかし十分ほど経つと、不意に魂が抜けたように大人しくなり、自分が起こした事件について全く憶えていなかった。
 さらにこの四人に共通しているのは、事件前日の夕方から夜にかけて現場近くの路上で、不思議な光を放つ小さな六角柱形の結晶のようなものを拾ったと主張していることだった。四人ともこの光る結晶を手にしてからの先の記憶が失われているのだった。
 そして捜査官が四人の事件までの足取りを調べに行ったところ、それぞれが前夜過した部屋や車の中は、床一面を無数の光る六角柱形の結晶に覆われているのが発見された。
 この光る結晶に関する調査はオリオンの科学分析班が担当することになった。
 翌朝、分析結果が届けられた作戦司令室にはオリオン特別捜査班のメンバーが集合していた。
 オリオン(O.R.I.O.N.)、それはOutside Reactive Intercept Organization Network の略称で、異界よりの侵略から人類を防衛するための国際組織である。
 その日本支部は品川区天王洲に設立されている。
 いま、作戦司令室に集まっているのは指揮官の〈団長〉と〈護符〉〈電卓〉〈薬局〉〈風水〉〈司書〉の五人の隊員だった。あとは瞑想室にこもっている〈夢見〉を含めれば精鋭チームである特別捜査班の全員が揃うことになる。
 〈団長〉が言った。「歌舞伎町で刺された女性、それにお台場の銃撃事件の被害者も皆、一命は取り留めたようだ。つまり幸いにも昨日の事件で死者は出なかったわけだが、しかし、次にいつ同じような事件が繰り返されないとも限らない。そうなればどれだけ被害が出ることか。それを考えれば一刻も早く、われわれは原因を究明しなければならない。目下、その原因と見られているのが例の結晶だが、それについての報告を〈薬局〉から」
 化学の専門家である〈薬局〉がディスプレイのスイッチを入れると、結晶の立体映像が浮かび上がった。
「これが事件を起こした四人が前日に路上で拾ったと証言している結晶です」
 それは、先の尖った六角柱型で青く輝いていた。光は不定のリズムで明滅しながら様々に色を変えていた。
「おおよその大きさは直径一センチ、長さ三センチほどで、まあちびた鉛筆ぐらいのものですが、これが徐々に大きくなっていて一時間ほどで二倍の大きさに成長します」
「一時間で倍といったらかなりのスピードだな」と〈護符〉が言った。。
「ええ、通常の鉱物では考えられませんね。最大で直径五センチ、長さ十五センチぐらいまで成長するのですが、そうなると小さな破片に分裂して、それぞれがまた成長をはじめます」
「それで部屋中が結晶で覆われてたってわけか」と〈護符〉。
「これがその部屋の映像です」
 〈薬局〉の操作で、三つの部屋とお台場の犯人の車の中の様子が映し出された。どれも異様な光に包まれている。
「謎の発狂石か……」と〈電卓〉がつぶやいた。
「まるでバラードの『結晶世界』ね」と〈司書〉が言った。
「次に事件の現場について〈風水〉が報告する」
「はい」地理学の専門家〈風水〉が立ち上がると、スクリーンを平面表示に切り替え、東京二十三区の地図を表示した。
「まず、事件のあった四ヶ所を表示します。東京ドーム前、新宿歌舞伎町、お台場海浜公園、そして江東区南砂。すると御覧のように東京の中心部を北西から南東にかけていびつな四角形で囲う形になります」
「ふむ、東京ドーム、歌舞伎町、お台場、この三つは人の集まる行楽地と言えるが、南砂だけ異質だな。ただの住宅街だろう」と〈薬局〉が訊ねた。
「そうですね。この四つの現場の関連についてですが、四人が結晶を拾った場所を見てください。東京ドームの男性は小石川の植物園付近。歌舞伎町の女性は中野区弥生町。お台場の逃亡犯はテレコムセンター付近。南砂の大学生は荒川の河口付近で問題の結晶を拾ったと証言しています」
 それぞれの場所が地図に表示されると、その四点を結ぶ線は、ほぼ正確に長方形を描いた。
「このような形になるということは、誰かが意図的に配置した可能性が高くなるわけですが……」
「しかし、一体なにが目的で?」と〈薬局〉は考えを口にした。
「何か、呪術と関係があるのか、どう思う〈護符〉さん?」〈風水〉は呪術の専門家〈護符〉に訊ねた。
「いや、これだけじゃなんとも言えんね。正方形じゃないのが気になるところだが。魔道書に何か書いてないかね〈司書〉?」と〈護符〉は書誌学の専門家〈司書〉に訊ねた。
「ううん……魔道書じゃないけど四角形の殺人現場といえばボルヘスの「死とコンパス」って短編があるわね。あと、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』でもボヘミア領を囲う矩形の四地点で死体の発光現象が起こったという事件に触れられているけど、どちらも今回の件とは結びつきそうもないわね。長方形ということは縦横の比に何かあるんじゃないかしら。〈電卓〉の専門ね」
 数秘学の専門家〈電卓〉が答えた。「縦横の比かあ。この感じだと1対1.6か1.7ぐらいかな。1.6なら黄金比に近いけど……、計算してみると1.73ぐらいだな……三平方の定理に関係があるのか、いや、待てよ……ということは……」〈電卓〉は手元のキーボードを操作しはじめた。「見てください。四つの事件現場を結ぶ長方形は、縦横の比が1対√3だったんです。だとすると上下に一つづつ点を足せば正六角形を描くことができます」地図上に新たな点が書き加えられた。「すると、まず北東の点ですが、これが墨田区の東京スカイツリーにぴったり重なります」
「スカイツリーか。あそこも人の集まる行楽地だな」と〈薬局〉感想を述べた。
「だが、事件があったという報告はないな」と〈風水〉。「これから起こるのか……で、六角形のもう一点は?」
「南西側ですね。これは目黒区と品川区の境界で、〈林試の森〉という公園の近く。この辺は住宅街ですね。この公園もほとんど森で人の集まる場所ではないようですが」
「この図形……六芒星ではないのか?」と〈護符〉は疑義を呈した。
「そりゃ、頂点の位置は同じだから……」と〈司書〉が応じた。
「ああ今、地図を拡大して正確な位置を調べたんですが、するとちょうど南西側の頂点に当たるところに妙な建物が」
「何だ?」
「イシオカ・フリーエネルギー研究所……私設の研究所のようですね」
「フリーエネルギーだって!? それは怪しげだな」と〈薬局〉。
「データがありました。所有者は石岡常宙、四十一歳……この男、五年ほど前にフリーエネルギー詐欺で逮捕されてますね」
「詐欺で挙げられたやつが何で堂々と研究所なんか構えてるんだ?」と〈護符〉。
「まあ、他人に出資をさせなければ、何を研究しようと自由ですからね。現在はフリーエネルギーに関する解説本を書いて、これがけっこう売れてるようです」
「ううん、ますます怪しい」
「ふむ」それまで黙って隊員たちの議論を聞いていた〈団長〉が口を開いた。「昨夜事件を起こした四人の人物が謎の結晶を拾った地点を結ぶと長方形となり、その四点を正六角形の中の四点と考えると、新たに二点が導き出せる。その一方は東京スカイツリーに位置し、もう一方の位置には怪しげな研究所があったというわけか。これは調べてみる必要がありそうだな……。よし、〈風水〉と〈司書〉は東京スカイツリーへ、〈護符〉と〈薬局〉はフリーエネルギー研究所へそれぞれ調査に行ってくれ。〈電卓〉はバックアップのため本部で待機だ」
「了解!」と隊員たちは口をそろえた。

 調査を命じられた四人はエレベーターから地下駐車場へ出た。二組に別れそれぞれの車に向かう。いずれもプリウスをベースにした特別改造車である。
 乗り込む直前、〈司書〉が言った。「よく気をつけてよ、罠かもしれないから」
「罠?」〈薬局〉が聞き返した。
「六角形か六芒星か知らないけど、まだ事件の起こってない二点は、私たちをおびき寄せるためかもしれないってこと」
「んんメトロン星人みたいなやつが待ち構えてるのか」
「何なの、それは?」
「いや、まあ、そっちも気をつけて」
 二台の改造プリウスはハイブリット車特有の静けさで地上へ出ると、南北へと分かれた。
 南へ向かった〈護符〉と〈薬局〉のチームは、すぐに山手通りに沿って西へと方向を変えた。イシオカ・フリーエネルギー研究所の所在地である目黒区下目黒は、天王洲からはちょうど品川区を横断した反対側に位置した。
 運転しながら〈護符〉が言った。「石岡ってやつ、おれたちが着いたころには殺されてるかも知れんな」
「どうしてです?」
「犯人の狙いは、はじめから石岡を殺害することなんだ。だが、被害者が一人では動機の面からすぐに犯人が特定されてしまう。そこで同時多発的に大量殺人を起こして真の動機をカモフラージュしようとした」
「でも他の現場で死者は出なかったんですよ」
「ああ、他の現場の犯人は、あの光る結晶で操られていただけだからな。明確な殺意を持っていたわけじゃない。だからもし石岡が殺されていれば、それが犯人の本当の目的だったとわかるわけだ」
「で、その動機というのは?」
「それはまあ、あれだ、そうフリーエネルギー詐欺で大金を失ったとか」
「光る結晶はどうやって手に入れたんです?」
「それはそっちの専門じゃないか〈薬局〉。あれは一体何なんだ?」
「そうですね、ある種の薬物によって人を凶暴化させることはできるかもしれない。問題はあの結晶が増殖する速度ですよ。あんな勢いで増殖する結晶なんて科学的には考えられない」
「じゃあ?」
「宇宙から飛来した未知の物質か、さもなくば魔術ですよ」
「魔術か……、魔術だとしたら、被害はまだ増えるかもしれんぞ」
「ええ、そんな気がします」
 イシオカ・フリーエネルギー研究所は円柱形の二階建で、閑静な住宅街の中にあった。外壁はガラス張りで内部には緑の植物で覆われているのが見えた。
 入り口でインターフォンを押すと男がドアを開けた。
 それは四十前後と思われる外見で、髪は几帳面にきっちり七三に分けていて銀縁の眼鏡をかけていた。服装は薄いグレーのスーツに白いシャツでネクタイだけがいやに鮮やかなグリーンだった。
「何か?」
「われわれは国際調査機関オリオンの者ですが、こちらで行なわれているの研究について伺いたいことがあります」〈護符〉が身分証を示しながら言った。
「はあ、とりあえず、中へどうぞ」
 〈護符〉と〈薬局〉は研究所の中へ入った。
 そこはまるで植物園のようにさまざまな草木が生い茂っていて、環境音楽が低く流れていた。天井からはプロペラ型の扇風機が垂れ下がってゆっくり回転していた。
「あなたが石岡常宙さんですか?」〈薬局〉が尋ねた。
「そうです」
「ここではどんな研究を」
「フリーエネルギー――つまり完全にクリーンで無限に使えるエネルギーのことです。これが実現すれば、われわれは地球環境の破壊を気にせずに、今の文明を維持し、さらに発展させることができるようになるでしょう」
「それは……永久機関のようなものですか?」
「そう言うこともできます。ですが正統的な科学者は皆、永久機関は存在しないと言いますね」
「ええ、そうですね」
「しかし、永久機関の“永久”とは何を意味するのでしょうか? この宇宙もいつかは終わります。宇宙そのものが消滅した後も作動し続ける装置を想像することなどナンセンスでしかないでしょう。宇宙にも寿命がある。私は《宇宙の死》を認めます。ですが同時にそれは、死へ向かう《宇宙の生》を認めることにもなるでしょう。生とはエネルギーのことです。この宇宙の生がつづく限り持続するエネルギー、それを取り出すことが可能なら……それこそがフリーエネルギーと呼ばれることになるでしょう。永久機関と呼ぶならそれでもいい。この宇宙が存続するかぎり永久という意味で」
「ふむ、なるほど」
「研究所の中を一通り見せてもらっていいですか?」〈護符〉が聞いた。
「ええ、どうぞ。ではまず屋上へご案内しましょう。太陽電池が設置されています。これを改良して将来は宇宙線をエネルギーに変換する計画なのです」
 石岡は二人のオリオン隊員を案内して階段を昇って行った。
 屋上は一面に太陽電池、二階は研究施設と住居スペースだった。石岡には家族もなく、助手もおかずに一人で生活し研究をつづけているのだった。とは言え、見たところ犯罪に関わっている様子はなかった。
 二人は研究所をあとにし車に戻った。〈護符〉が本部に連絡を入れた。
「こちら〈護符〉。石岡の研究所を一通り見せてもらいましたが、怪しげなところはありませんね」
 〈団長〉が応えた。「ではいったん戻ってくれ。スカイツリーのほうでは異変があった」
「殺人ですか?」
「いや、例の結晶が発見されたんだが、その場所が何しろスカイツリーの最上部のアンテナの上だからな、人的被害はなかった」
「そうですか。じゃあ、帰投します」

 〈護符〉と〈薬局〉が本部に戻ったとき、〈風水〉と〈司書〉はまだスカイツリーにいた。頭頂部で発見された結晶は増殖しながら飛び散っていて、小さな結晶がスカイツリー全体を覆うように付着していた。その除去作業を監督する必要があったのだ。作業員が精神に異常をきたす可能性も考慮したためである。
「スカイツリーでも結晶が発見されたとなると〈電卓〉の発案した六角形説は信憑性が増したな」〈団長〉が言った。
「しかしすると石岡の研究所で異常がないのはどういうことなのか」と〈電卓〉。
「どうなんだ〈護符〉〈薬局〉本当に何もなかったのか?」
 〈薬局〉と顔を見合わせてから〈護符〉が口を開いた。「ええ、とくに怪しい所は……」
 つづけて〈薬局〉が言った。「やっていることといえば太陽電池で扇風機なんかを動かしてるぐらいで、あれがフリーエネルギーと言うならまあそうも言えるでしょうけど」
「ふむ、しばらく監視をつづけるしかないか……」と〈団長〉。
 その時、スカイツリーにいる〈司書〉から連絡が入った。司令室のモニターに〈司書〉の顔が映し出される。
「石岡の研究所では異常がなかったってことですけど、私こっちの現場を見て思いついたことがあるんです」
「何だ、言ってみろ」〈団長〉が応答した。
「ここで結晶が見つかったのはツリーの最上部、地上634メートルの場所です」
「うむ、それで」
「結晶が最初に現われたのは六角形の中の四点で、第五の地点でも発見された。そして結晶自体の断面も六角形……、これはプリゴジンの言う散逸構造と関係があるのでは」
「何だそれは?」
「つまり配置が対称的ってことです。そしてこの対称性を垂直方向にも適用して考えるならば、第五の地点が地上634メートルに位置するわけですから、第六の地点は反対に地下634メートルを探さなければならないのではないでしょうか」
「なるほど地下か」
「しかし634メートルとなると相当だな」〈電卓〉が言った。
「石岡のところに地下室はあったか?」〈団長〉が〈護符〉に尋ねた。
「いや、地下へ行く階段などはありませんでしたが、しかし秘密の通路なんかがないとは言いきれませんね」
「よし、もう一度行って、その点を確認してくれ」

 〈護符〉と〈薬局〉は再度、改造プリウスに乗り込み下目黒の研究所を目指した。
「しかし、ありますかねえ、秘密の地下室なんか」〈薬局〉が言った。
「さあな、六角形説が正しいなら何かしらあるんだろうが」と〈護符〉。
「それも六百何メートルかの地下だってんでしょう」
「634メートルだ。スカイツリーは東京周辺の昔の地名“武蔵”にちなんで高さ634メートルに設計されてる」
「へえ」
 研究所に着いた。
 二人は地下での活動も考慮して特殊戦用のヘルメットを手にして車を降りた。このヘルメットにはライトやガスマスク、無線機などが内蔵されている高機能装備である。
 インターフォンを押すが、いつまで待っても応答がない。
「出かけたのかなあ」と〈薬局〉はドアに手をかけたが、鍵がかかっていて開かなかった。
 ガラスの壁越しに中を覗いて見ても、緑の植え込みの上でプロペラ型の扇風機がゆっくり回転しているだけで人の気配はなかった。
「本部に連絡しておこう」〈護符〉がスマートフォンの回線をつないだ。「こちら〈護符〉です。石岡の研究所に来ましたが、留守のようなんですが?」
 〈団長〉が応えた。「緊急事態だ。ドアを破ってでも侵入しろ」
「何かありましたか?」
「ああ、スカイツリーの方な。結晶の増殖が思ったよりも早くて、このままだと数時間後にはツリー全体が結晶で覆われてしまう勢いだ。そっちの地下で何かコントロールしている可能性もある。よく調べてくれ」
「了解」
「スカイツリーが結晶で覆われるって……」〈薬局〉が言った。
「そうなったら、あの光を何万もの人間が目にすることになるな」
「まさかそれが全部、殺人狂に!?」
「とにかく中を調べなければ。レーザーで焼き切ろう」
 〈護符〉はホルスターからオリオン・ガンを抜くと、円錐型の銃身の先をドアのロック部分に向けた。ヘルメットの遮光バイザーを下ろしてトリガーを引いた。
 閃光とともに火花が上りすぐにドア内部の閂は切断された。ドアが開いた。
「行こう」
 〈護符〉と〈薬局〉は研究所の内部へ踏み込んだ。
「床を調べるんだ」
 二人は手分けして床面を見て回った。
 一階の内部は植物の植え込みが迷路のように配置されていた。
「来てください」〈薬局〉が声を上げた。
 〈護符〉が近づいて行くと、〈薬局〉は植物に囲われた一角を指差していた。その床面には点検口のような取っ手の着いたプレートがあった。
「開けてみよう」二つある取っ手をそれぞれ持ってプレートを開いた。
 地下の暗闇へとつづく隧道が口を開けた。コンクリートの壁面にはコの字型の金具が埋め込まれ梯子のようになっている。
「やっぱり地下があったんだ」
 ヘルメットのライトを点けて二人は梯子を降りた。数メートル下ると地下室に着いた。そこはポンプなどの置かれた普通の機械室のようだった。だが、よく見ると奥の壁にドアがあった。
 ドアを開けると別の部屋に通じていた。
「これは……!?」
 ライトに照らされた壁面は本棚になっていて、古びた厚みのある書物が並べられていた。大半は外国語のタイトルが記されていた。
 部屋の中央にはガラスのショーケースが置かれていた。
 〈護符〉がスイッチを見つけ照明を点けた。
 〈薬局〉がショーケースに歩み寄った。そこに収められているのは『ウイアード・テールズ』や『アメイジング・ストーリーズ』といったパルプ・マガジンのコレクションだった。中にはページがばらばらになった雑誌もあり、短編一作分が一ページづつ展示されていた。タイトルを見ると「魔の谷にて」という小説で作者名はデレク・ダークランドとなっていた。
 本棚の方を見ていた〈護符〉が声を上げた。「おい、ここの本を見てみろ」
「何です?」〈薬局〉がそちらへ近づいた。
 そこに並べられていたのは、アブドゥル・アルハザードによって記された『ネクロノミコン』、フォン・ユンツト著『無名祭祀書』、ダレット伯爵の手による『屍食教典儀』、ルドウィク・プリンが書いた『妖蛆の秘密』、作者不詳の『水神クタアト』……といった魔道書の数々だった。
「これは本格的なアレですな」
「ああ、例のタイプの蔵書だ。本部に連絡しておこう」
 〈護符〉は無線機を作動させた。「こちら〈護符〉。石岡の研究所の地下でコード・セラエノ発生、レベル2です。対応をお願いします」
「こちら本部」〈団長〉が返信した。「了解した。処理班を向かわせる。石岡は見つかったか?」
「まだです。捜索を続行します」
「敵は只者じゃないぞ。気をつけてくれ」
「了解」
 本棚を調べると、一部が動かせるようになっていることがわかった。その後ろにはエレベーターの入り口があった。
 ボタンを押すとドアが開いた。二人が乗り込むとゴンドラは降下をはじめた。
「ずいぶん下りますね」
「こりゃ、本当に地下634メートルまで行くのかもしれんぞ」
「まずいな、無線が通じなくなる」
 しばらくするとゴンドラは停止しドアが開いた。
 前方は土が剥き出しの洞窟だった。洞窟の中の通路は緩やかにカーブしながら、さらに地下深くへと降っていた。
 二人はオリオン・ガンを手に、ヘルメットのライトで周囲を照らしながら慎重に歩みを進めていった。
 道は一本だが、壁のところどころに小さな抜け穴が穿たれていた。
「あぁっ!」後ろを歩いていた〈薬局〉が声を上げた。
「どうした?」〈護符〉が振り返って訊いた。
「い、い、今、そ、そこの穴から、何かが、こっちを見ていました……」
「何だ、蝙蝠じゃないのか?」
「いや、もっと大きな、狼のような顔でした」
「狼のような……?」
 その時、通路の前方からひたひたという足音のようなものが聞こえてきた。
「何かが近づいて来る!?」
「シッ、後ろからも来るぞ」
「は、挟まれた……」
 二人が首を振るのにあわせてヘルメットから照らされる光の輪が土の壁の上を動き回った。
 一瞬、奇怪なシルエットが浮かび上がった。それは人間に似ているが、背は曲がり、長い両手を地面に垂らしながら走る、狼のような頭部をもつ怪物の姿だった。
「あっ、あれは!」
「グールだ! 食屍鬼だ!」
 前後から同時に二体づつのグールが襲いかかってきた。
 二人はオリオン・ガンを発射した。ビビビと音を立てて稲妻状の閃光が走る。
 グールの一体が倒れ、他の三体は逃げ去った。
 オリオン・ガンは非殺傷のスタン・モードに設定されていた。本部の許可がなければ隊員は殺傷兵器を使えないことになっているためだ。もっとも、下級のアンデット・モンスターである食屍鬼にスタン・ガンがどんな効果を与えているのか、よくわからなかったが。
 ともかく〈護符〉と〈薬局〉は前方へ進むことにした。つまりさらに地下深くへと。
 逃げ去った三体のグールは一定の距離を置きながら彼らを追尾しているようで、時おりハイエナのような陰湿な忍び笑いが聞こえてきた。
 それでも気にせずしばらく進むと前方に奇妙な光が見えてきた。
「何でしょう、あれは?」
 それは異様な光だった。まるでオーロラのように波打ちながら様々に色を変えていた。
「あの輝き……、例の結晶の光じゃないか!?」
「そ、そう言えばそうですね」
 二人は乱舞する光の中へ慎重に歩みを進めていった。
 やがて広い空間へ出た。そこは周囲の壁一面が、大小さまざまな先の尖った六角柱型の光る結晶で覆われていた。
 結晶の光を背に一人の男が立っていた。
「よくここまで来たな、オリオン隊員のお二人」そう言ったのは、石岡常宙だった。
「これは一体何だ?」〈護符〉が問い質した。
「ふふ、これが何か知りたいか。よかろう。これはちょっとした、まあ儀式といったものでね」
「儀式だと……。貴様、何を企んでいる!?」
「この儀式が完成した暁には、私は旧支配者の従者に加わることになるのだ」
「き、旧……支配者……」
「その通り、あれを見たまえ」石岡は右手で壁を示した。
 そこはよく見ると、結晶で覆われた壁の一部に窪みがあって、その奥に何か巨大な物体が横たわっているのだった。それは体長十メートルはあろうかというナメクジのような怪物だった。口と思われるあたりからは無数の触手が生えていた。
「あれは……!?」
「あっ、あっ、あれは、ク、ク、クトーニアンですよ」と〈薬局〉がどもりながら怪物の名を告げた。
「そう、さすがはオリオンの隊員よくご存知だ。クトーニアン。こいつを成長させるために、大量の生贄の血が必要でね」
「生贄の血……、それでスカイツリーをあの結晶で……、すべて貴様が仕組んだことか?」
「その通り、この場所から正六角形を描いて結晶生成のエネルギーを送っていたのだ。途中、六角形の四つの頂点にあたる場所でも、小さな結晶が生じ、それが原因で先に小規模な無差別殺傷事件が発生したのは、ちょっとした誤算だったがな。だが大勢に影響があるわけでもない」
「いや、それがお前の命取りだ。その四つの事件がわれわれをここへ招き寄せたのだからな」
「ふん、無駄だ。お前たちには何もできまい。もう間もなくスカイツリーは完全に結晶で覆われ、強力な光を発することになるのだからな。そうなれば、地上は何万という殺人狂であふれかえることになるのだ!」
「そうはいくか!」
 二つのオリオン・ガンが同時に光を発した。閃光が狂った科学者の胸に命中した。
 だが、石岡は平然としていた。「ハッハッハッ、無駄だ無駄だ。私の身体は魔術により強化されている。スタン・ガンなど無力に等しいのだ。お前たちはグールのエサになるがいい」
 いつの間にか彼らの周囲は十数体のよだれを垂らした食屍鬼によって取り囲まれていた。
「くそっ……」
 その時、〈護符〉と〈薬局〉二人の頭の中に澄んだ声が響き渡った。
「〈護符〉さん、〈薬局〉さん、こちら〈夢見〉です……」
 それは〈夢見〉からのテレパシーによる通信だった。「ダブルオー・クライシスが発令されました。殺傷兵器の使用を許可します。くりかえします。ダブルオー・クライシス発令、殺傷兵器の使用を許可します」
 《ダブルオー・クライシス》とは、"Old One Crisis"の略称で、即ち旧支配者復活に関わる危機を意味した。これが発令されるとオリオン隊員は、あらゆる障害を排して当該危機の解消を最優先に行動しなければならなかった。それは事実上、殺人許可証の発行をも意味した。
 〈護符〉と〈薬局〉は顔を見合わせると黙って肯きあった。そしてオリオン・ガンのレバーを操作しリーサル・モードにあわせると、銃身を石岡へ向けた。
「無駄だ、銃でこの私は倒せんぞ!」
 二条の閃光が石岡の胸を貫いた。
「う、ぐぐ、莫迦な……」石岡はもがきながら倒れた。オリオンの超科学が石岡の魔術に勝ったのだ。
 グールたちは首領が倒されたのを見ると、あっという間に逃げ去った。
 倒れた石岡の身体は炎を上げ燃えはじめた。
 絶命する寸前、石岡は最後の力で叫んだ。「クトーニアンよ……、目覚めよ。地上へ……地上へ行け……」
 その声にナメクジ型の怪物が反応した。巨大な身体を震わせながら触手を蠢かしはじめた。
「ま、まずい……」
 クトーニアンは頭部を土の天井に向けると、無数の触手をものすごいスピードで動かしはじめた。地を穿つ魔が地表を目指し上昇していった。
 洞窟は地震のように揺れだした。
「うわっ、崩れるぞっ」
 二人のオリオン隊員は、大量に降り注ぐ土の下でなすすべもなく頭を抱えた。

「〈護符〉さん、〈薬局〉さん、聞こえますか?」
 揺れが治まってしばらくすると、二人の頭の中にふたたび〈夢見〉のテレパシーが届いた。
 〈護符〉は全身に土をかぶって地下の通路に倒れていたが、どうやら生き埋めになるのは免れたようだ。〈薬局〉も身体を起こし始めたのを確認して彼はテレパシーに応えた。
「ああ、二人とも無事だ。地上の様子は?」
「クトーニアンは地表に出る寸前で、《オリオンの盾》の力で制圧されました。これから封印にはいるところです。スカイツリーのほうも、結晶で覆われはしたものの光は発していません」
「じゃあ、どうやら事件は片付いたようですね」
「ああ、まったく寿命が縮んだぜ」
 二人はおたがいの背を叩いて、笑いながらその場に倒れた。

2014年5月14日水曜日

星への階段

 魔術研究家の天谷由一は、古書店で貴重な資料を受け取った帰り道、道端で倒れている男を見かけた。浮浪者が寝ているだけならいちいちかまいはしないのだが、その男は妙に天谷の気にかかった。
 第一に身体が大きかった。痩せてはいるが二メートル近い身長があるようだ。服装は、浮浪者らしくぼろぼろの布をまとっていたが、首に巻いているスカーフは目にも鮮やかなブルーで、それはたしかにブルーなのだが、今までに見たこともないような不思議なブルーだった。さらに目を引いたのは髪で、多少長めのぼさぼさの銀髪、磨いた金属のような輝く銀色だった。
 青ざめた肌の色をしている。白人には見えないが、日本人らしくもないエキゾチックな顔立ちだった。
 天谷がその顔を覗き込んでいると、男は不意に目を開けた。灰色の目だ。
 男は、はじめ何か外国語らしい言葉を二言三言つぶやいてから、天谷を見て言った。
「何か、食べ物……、食べ物をくれないか……」
 天谷は黙ってその場を立ち去った。
 しばらく歩くとコンビニがあった。そこで彼はおにぎりとお茶を買った。
 もとの場所へ戻ると、男はまだそこで倒れていた。
「おにぎりでいいか?」と、天谷はビニール袋を差し出した。
「おお、ありがたい」受け取った男はその場で食べ始めようとしていた。
「近くに公園がある。そこで食べたらいい」
 天谷は大男が立ち上がるのを助けてやり、公園まで案内して行った。
 ベンチに座っておにぎりを取り出す。開け方がわからないようなので天谷が剥いてやった。
「あんた、名前は?」天谷は尋ねた。
「ハイレイ」
「ハイレイ……、どんな字を書くんだ?」
「お前の知らない文字だ」
「どこから来たんだ?」
「遠くだ、とても遠く」
「そうか」
「お前の名は?」
「天谷……。天谷由一」
「ユーイチ、か」
「そうだ」
 おにぎりを食べ終えると、ハイレイは身にまとっていたボロ布の下から何かを取り出した。
「ユーイチよ、礼だ。受け取ってくれ」
「礼なんかいらないよ」
「物乞いをしたわけじゃない。正当な代価だ」
「では、受け取ろう」
 ハイレイから手渡されたのは、透明な黄土色のごつごつした小石で首からかけられるような革紐が結び付けてあった。
「綺麗だな。ありがとう」
 天谷が立ち去ろうとすると、その背へハイレイが声をかけた。
「ユーイチ、そんな本をいくら読んでも魔術師にはなれないぞ」
 天谷は、小脇に抱えていた古書店から受け取った稀覯本の包みにちらりと目を落したが、そのまま振り向きもせず歩いていった。

 その夜、おそくまで天谷は新たに手に入れた資料に目を通していた。
 眠りについたのは深夜だ。
 彼は夢を見た。それは異様な夢だった。とてつもなく異様な夢、言葉では言い表せないほどの。
 目を覚ましたのは明け方、まだ暗い時間だった。
 彼は今見た夢が、正常な人間にはあり得ないほど異常なものであったことにすぐ気づいた。魔術研究家の天谷にとって、夢もまた重要な研究課題だった。
 彼は本棚に手を伸ばした。そこには、夢判断や、夢占いに関する資料が揃っていた。だが、彼はどの本も手に取ることはなかった。言葉で言い表せない夢を、書物で調べることはできないのだ。
 その時、彼は薄暗い部屋の中で、何かが光を放っていることに気づいた。
 机の上の小石が、おぼろに黄色く輝いていた。明るくなったり暗くなったり、不規則なリズムで明滅をくりかえしていた。

 朝食を終えた後、天谷は歩いて公園へ行った。
 ハイレイは昨日と同じベンチに座っておにぎりを食べていた。
「どうやって手に入れた、そのおにぎり?」天谷は聞いた。
「買ったのさ。体力さえ回復すれば、小銭を作るぐらいわけはない」
「何者なんだ、あんた?」
「見ての通り……、ま、放浪者ってとこだな。昨日は本当に危ないところだったんだ。無茶な長距離ジャンプで、つい体力を使い果たしてしまってな。お前には感謝している、ユーイチ」
「昨日あんたにもらった石、あれは何だ?」
「あれか、あれは《ハリ湖の石》というものだ」
「ハリ湖の……石?」
「そう、あれのおかげでいい夢が見られただろう」
「やはり、あの石のせいか。普通の人間があんな夢を見つづければ気が狂ってしまう」
「ふん、普通の人間ならな。だがユーイチ、お前は普通の人間ではないだろう」
「ぼくは普通の人間だ」
「ほう、そうかね。では教えてやる。正三角形を上下に重ねて星型にした図形、ヘキサグラムというのを知っているな?」
「ああ」
「それを紙に書いて、あの石の下に敷いておけば、力を封じることができる。さらに図形を書き換えることで夢をコントロールすることもできる」
「そ、それは、どういうふうに?」
「お前は魔術の研究をしているんだろう?」
「ああ」
「なら、知ってる図形でいろいろ試してみればいい」
「そんなことをして危険ではないのか?」
 ハイレイは黙って首を振った。
「な、なあ、あんた……あんたは魔術師なのか?」
「いや、まだ修行中の身だ。お前と同じさ」
「い、いや、ぼくは……」
「どうしたユーイチ、お前も魔術師になりたいのだろう」
「そりゃあ、たしかにぼくは魔術の研究をしている。だ、だけど、信じられないんだ。本当に魔術師が存在するなんて」
「まあ、無理に信じてくれとは言わんが」
「いや、しかしその……何か証拠を見せてくれれば……」
「あの石をやったじゃないか」
「あ、ああ、あの石はたいしたものだ。でも、こう現実に、今、目の前で何か見せてくれないかな」
「何かと言われてもな、おれも使える術は限られているし……。ふむ、そうだユーイチよ、ひとつ仕事を頼まれてくれんかな。そうすれば、いくらでも技を見せてやれるんだが」
「ああ、いいよ、出来ることなら」
「べつにそう難しいことではないはずだ」
「うん、何だい?」
「ツノマ・カツロウという人物を知らないか?」
「いや、知らないな」
「彫刻家でな、1年ほど前に自殺したらしい」
「まあ、調べればわかると思う」
「で、そのツノマという男がな、自殺する直前に何か本を読んでいたはずなんだが、できればその本を手に入れてもらいたい」
「本を……、タイトルがわかればいいのかい? 同じ本が買えると思うけど」
「いや、ツノマの持っていた現物が欲しい。どのみちそこらの書店で買える本ではないはずだ」
「ふうむ、それは難しいかもしれないな。まあ、やってみるよ」

 天谷は一度自宅へ帰り、画廊経営者に電話をかけた。
 天谷は以前、魔術と夢の理論の応用で絵を描いたことがあり、その時に知り合った男だった。ツノマ・カツロウについて尋ねるとすぐに反応があった。若き天才彫刻家として将来を嘱望されていた人物だったという。角馬克郎と書く。享年二十六歳。今は克郎の妻だった耀子という女性がアトリエを管理しているらしい。
 角馬耀子へ電話をかけ、アトリエを見学する許可をもらった。
 ガレージからミニ・クーパーを出し、アトリエのある角馬家へ向かった。
 大学時代、天谷は物理学を学んでいた。それが伯父の遺産を相続したのを機に、大学も辞めてしまい一人で好きな研究をすることにした。はじめは異端科学と呼ばれる領域だった。やがて魔術の研究に没頭するようになった。以来、友人も恋人も作らずに一人で研究を重ねてきた。いつの間にか三十をすぎて、自分にはもっと他にやるべきことがあるのではないかと思うこともないではなかった。
 しかし、あの男……ハイレイ。あの男は本当に魔術が使えるのだろうか。
 昨夜は確かに異様な夢を見た。それがあの《ハリ湖の石》と称するもののせいだとしても、夢はしょせん夢にすぎない。
 だが、現実に、本物の魔術を目の当たりにできるとしたら……。

 角馬家は高級住宅街を見下ろす丘の上にあった。緑豊かな庭に囲まれて建てられていたのは、一見、立方体を積み重ねただけのようで、よく見ると芸術家の住居らしく細部まで凝った造りの建築だった。
 角馬克郎の未亡人耀子は黒いワンピースに銀のネックレス、黒い髪は腰まで届くほど長く、前髪が片目を隠していた。年齢は二十代の半ばに見える。化粧も薄く悲しげな目つきをしていて、未だに喪に服しているようだが、あるいはもとからそんな女性なのかもしれない。
「どうぞ、こちらへ」とかすれた小声で言って、アトリエへ案内してくれた。
 そこは南向きの壁と天井の半分がガラス張りの明るい広間で、黒い木の床の上に大きな白や黒の大理石の彫像がいくつも並べられていた。人狼や人魚、ハーピィやミノタウロスといった半獣半人のモチーフを角馬は好んでいた。それらは一見、重量感のあるリアルな造形だが、よく見るとどの彫刻もどこかしら大胆に歪んでいて、まるで異次元に迷いこんだような気分にさせられた。
 夭折した若き天才という評価は決して過大なものではなかった。これらの作品を見ろことができただけでも来た甲斐はあったと天谷は思った。
 ゆっくりと彫像を観賞した後、天谷は尋ねた。
「あの、つかぬことをうかがいますが……」
「はい?」
「角馬克郎さんですが、その、亡くなる直前に、何か本を読んでいませんでしたか?」
「ええ……」それだけ言うと、耀子はアトリエの隅へ歩いていった。
 観葉植物の鉢が置かれたテーブルから何かを手にとって戻ってきた。
「これですわ」
 彼女が天谷に手渡したのは白い表紙の薄い本だった。
 タイトルは「地底の饗宴」で、九頭川竜之介というのが作者名らしい。ぱらぱらとめくってみたところ短編小説を同人誌にしたもののようだ。
「それが目当てなら持って行ってください」冷たい声で耀子は言った。
「いいんですか?」
「ええ、その本、何だか気味が悪くて。いつ、どこで手に入れたのかは知りませんけど、克郎さんは、それを読んでからどこか様子がおかしくなって、終いには自殺を……」
「そうですか、それは……」
「まるで『黄衣の王』のよう……」独り言のように耀子はつぶやいた。
「え、チェンバースの?」
「そう、その名をご存知なら、お解りでしょう。そんなものは読まずに捨ててしまった方が身のためだということが」

 天谷は礼を言って角馬邸を出た。
 目的の本は思いのほか簡単に手に入った。あらためて見ても、やはり素人が作った同人誌のようである。ハイレイは「書店で買える本ではない」と言っていたので、どんな魔道書かと思っていたが、同人誌ならたしかに「そこらの書店」では買えない。それにしてもこれが『黄衣の王』とは。『黄衣の王』というのはロバート・W・チェンバースの怪奇小説の連作に登場する忌まわしい戯曲のことである。
 帰る途中、レストランを見つけてミニを止めた。そこで昼食を摂ることにした。料理が来るのを待っている間に『地底の饗宴』を読み始めた。まさか読んだだけで呪われるようなことはないはずだと魔術研究者は判断した。
 短編が一編だけなので、食事の間に読み終えてしまった。とくにどうと言うこともない小説だ。九頭、竜という文字を含む作者名を見たときから想像していたが、やはりこれはいわゆるクトゥルー神話に属する作品で、それらしい用語が頻出していた。H・P・ラヴクラフトやC・A・スミスの小説なら天谷も好んで読んでいた時期があった。だがこの「地底の饗宴」はそんな雰囲気でもなく、テレビの特撮ドラマをパロディにしたような、言わば怪奇アクション小説だった。
 この小説が原因で角馬克郎が自殺したとはとても思えなかった。耀子が知らないだけで自殺の原因は他にあったのではないか。しかし、だとすれば、なぜハイレイはこの本を手に入れるよう求めたのか、それが疑問だった。
 その後、例の公園に寄ってみた。若い母親が子供を遊ばせているだけで、ハイレイの姿はなかった。別にここで落ち合うと決めていたわけではないが、他に探すあてもない。
 天谷は自宅へ帰った。午後は資料の整理などで過した。
 夕暮れ時、ふたたび公園へ行った。
 やはりハイレイはいなかった。そこには浮浪者が三人たむろしていた。一人は腕枕をして地面で寝ていた。他の二人はベンチでおにぎりをかじりながら缶ビールをちびちびと飲んでいた。浮浪者のわりにはやたらと大量のおにぎりを持っているのが気になって声をかけてみた。
「あの、ここで銀の髪の、背の高い男を見かけませんでしたか?」
 二人の浮浪者は顔を見合わせ、一人が答えた。「ああ、見たよ」前歯の欠けた男だ。
「気前のいいあんちゃんだ。ビールとおにぎりおごってくれてよ」もう一人の髭面のほうが言った。
「で、その人はどこに?」
 二人はまた顔を見合わせた。
「連れて行かれたよ」と歯の欠けた男。
「ああ、おれらと一緒に飲んでたんだがな」と髭面。
「えっ、連れて行かれたって、誰にです?」
「ありゃ、市役所のやつらだろ。おれらを施設に入れて働かせようとしてるんだ」歯のかけた男が言った。
「いや、ちがうね。あれは製薬会社だよ。あのあんちゃんは人体実験に使われてたんだ。だから、髪の色とかおかしかっただろ」髭面が言った。
「無理矢理連れて行かれたということでしょうか?」
「いんや、はじめは無理に引っぱって行こうとしてたけどな。二人組の男がな。あんちゃんが抵抗して、しばらくぼそぼそ何か話し合ってから、最後にはあんちゃん自分から車に乗っていった感じだったな」と歯の欠けた男。
「うん」と髭面はうなずいた。
「車と言うのは、どんな車でした?」
「黒いバンだったな」
「ああ、真っ黒だった」
「何かマークとか書かれていませんでした?」
「いいや、何も」
「だから真っ黒だったって」
 その時、寝ていたもう一人の男がかすれた声で口をはさんだ。「あれは市役所でも、製薬会社でもねえぞ」
「何かご存知なんですか?」天谷は尋ねた。
「あれは宗教だよ」
「えっ、宗教!?」
「ああ、おれは見たんだ。車の後ろに、小さなステッカーが貼ってあった。黒地に金の線だからあまり目立たなかったが、あれは何かそういう団体のマークだった気がする」
「それは、どういう?」
「人間の目みたいな図形の周りをS字の三角形が囲んでいるマークだった」

 天谷は自宅に帰って資料を調べた。
 魔術研究家である彼の部屋には宗教関連の資料も揃っていた。
「目の周りにS字の三角形」天谷自身もそのマークには見憶えがある気がした。
 資料のページをめくっていくと、そのマークを見つけた。
《黄金波動教》という団体のものだった。その教団に関する説明によると、荒波金太郎なる人物を教祖に1988年に設立。1995年頃には、過激な洗脳や、強引な献金要求が問題になるも証拠不十分で不起訴に。その後も違法すれすれの黒い噂が絶えないとある。本拠地とされる住所は天谷の住居と同じ市内だった。
 ハイレイは危険な団体と知って付いて行ったのだろうか。
 天谷はガレージからミニ・クーパーを出して、教団の本拠地へ向かった。
 やたらと広い駐車場の奥にその建物はあった。
 日没直後の暗紫色の空の下、とげのある角ばった茸のような建築物が照明の中に浮かび上がっていた。いわゆる帝冠様式というのか、洋風のビルに日本の城のような屋根が載せられていた。屋根だけが不釣合いに巨大だった。
 駐車場には自由に出入りできた。乗用車が数台まばらに停められていて、奥の片隅には黒いバンが見えた。その近くに天谷はミニを止めた。
 車の中から周囲の様子をうかがった。監視カメラがあちこちにある。
 ダークグレイのスーツを着た男が近づいてきた。天谷はドアを開け車から降りた。
「あなたは、うちの信者ではありませんね?」男が言った。スーツの襟には金色の三角形のバッヂをつけていた。黄金波動教のマークが彫刻されている。
「ええ、知り合いがこちらに来ているんじゃないかと聞いたものでね」
「知り合い、と言いますと?」
「ハイレイという名です」
 その名を聞いた途端、男の顔に緊張が走った。
「少々お待ちください」
 男は建物の方へ駆けて行くと、出入り口の横のインターフォンで会話し始めた。やり取りがしばらくつづいた後、こちらに戻ってきた。
「失礼しました。どうぞお入りください」
「ハイレイはここにいるんですか?」
「ま、とにかく中へどうぞ」男は、まるで天谷が逃げ出すのを心配しているかのように、体を近づけ背中を押すようにして建物の中へと導いていった。
 赤い絨緞の敷かれた廊下を進んで、奥にある一室へと案内された。
 その部屋も真っ赤な絨緞が敷き詰められていた。壁は白い。窓はなく、部屋の奥には鳥居が設置され、その向こうには台座に載せられた金色の球体があった。
 応接用の向かい合わせのソファーの一方に、艶のある紺色の背広を着た男が腰かけていた。肩幅が広く、大きな顎の男だった。オールバックにした黒い髪は油で光っていた。
 案内の男は「お連れしました」と言って深々おじぎをすると、そそくさと出て行った。
 ソファーの男が天谷を見た。眼光は鋭く、眉毛も太い。
 この男の顔は、玄関に飾られた肖像画で見た。同じ肖像画がこの部屋の壁にも掛けられていた。
「まっ、掛けたまえ」
 天谷は勧められたソファーに腰を下ろした。
「私が、荒波金太郎だ。君は?」
「天谷由一といいます」
「何をやってる?」
「魔術の研究を」
「ほう、で、少しは使えるのかね?」
「いや……、ただ研究しているだけで……」
「ふん、そりゃそうだろうな。だが、なぜお前はあのハイレイのことを知っている?」
「それは、ただ道端に倒れていたところを助けただけで」
「何だ、そんなことか」そう言うと、荒波は天谷の思考を読み取ろうとするかのように鋭い目を向けた。「ふむ、お前、ハイレイから何かをもらったな?」
「えっ、あ、ああ……」
「隠そうとしても無駄だ。嘘をつけば私にはわかる」
「いや、その……」
「そうか、石か、石をもらったんだな……。《ハリ湖の石》……そうだな?」
「えっ、え、ええ」
「《ハリ湖の石》とはな。あれはお前のような者が持っていても使いこなせんだろう。私に譲りなさい」
「い、いや、そういう訳には」
「君は事の重大さがわかってないのだろう。あれには日本の未来がかかっていると言っても言い過ぎではない」
「あの石がそんなに……」
「そうだ。あの石をこの荒波金太郎に譲ると、今すぐそう言いたまえ」
「いや、断る」強力な暗示に逆らうように天谷は言った。
「ふん、私に逆らいつづけることができるかな。何なら金を払ってもいいぞ。いや、お前の望みは金ではないな。……そうか、魔術か。ならば、私の弟子にしてやってもいい。そうすれば、他人を思い通りに操れるようになる。どうだ」
「いらない……そんな力……」
「馬鹿なやつめ。抵抗しても無駄だということがわからんのか」
「う……ううっ」天谷の精神は絶望的な徒労感に侵されていった。
「さあ、あの石を譲ると言いなさい。そうすればすぐ楽にしてやる」
 もう、だめだ。天谷がそう思った時、急に重石が取りのけられたように気分が軽くなった。
「うわっ、な、何だこれは!?」荒波が叫び声をあげた。驚愕に目を見開き、両手で頭を抱えた。「ぐっ、うぐ……」
 教祖は白目を剥き、口から泡を吹いて、ソファーの上にうなだれた。
「な、何が起こったんだ?」天谷は呟いた。
 しばらく、静まり返った部屋で茫然としていると、廊下のほうから人が争うような物音が聞こえてきた。そして叫び声。
 ドアが開いた。
「よう、迎えに来てくれたんだな」そういって姿を見せたのはハイレイだった。「いやすまなかったな、帰ろうと思えばいつでも帰れたんだが、ここらの宗教団体を見学するのもいいかと思ってな。さあ、帰ろうぜ」
 廊下には黄金波動教の信者らしい男たちが何人も倒れていた。

 助手席にハイレイを乗せて天谷はミニを走らせた。
 真夜中の公園に到着した。中には誰もいない。
「ところで、例の本は手に入ったか?」ハイレイが聞いた。
「ああ」天谷はグローブボックスから同人誌『地底の饗宴』を取り出した。「これでいいのか?」
「うん、それでいい。魔術を見せる約束だったな。時間もちょうどいい。今見せてやるよ」
 ハイレイは植え込みのところへ歩いていって、昼のうちに隠してあったらしい何かを取り出してきた。そして天谷が手渡されたのは四つの小物で、電子部品、赤いプラスティックの欠片、割れた鏡、木の根の切れ端、そんなものだった。
「ライターを持ってるか?」ハイレイが聞いた。
「ああ」
「じゃあ、それを持ってあの滑り台に昇ってくれ」
「滑り台に……」
 天谷は滑り台の階段を昇った。
「よし、そこの真ん中に本を置いて、周囲にさっき渡した物を並べるんだ」
 指示どうりに天谷は『地底の饗宴』を中央に置き、その周囲に四つの小物を適当に配置した。
「じゃあ、ライターで本に火をつけるんだ」
「え、燃やしてしまうのか!?」
「そうだ。火がついたらすぐに降りてきてくれ」
 天谷は本を手にとって火をつけた。炎が燃え広がるのを確認すると、その場に置いて階段を降りた。
 ハイレイの横に立って滑り台を見上げると、オレンジ色の炎が明るく輝いている。
 ハイレイが手をかざし、小声でつぶやくように呪文を唱えた。
 すると、炎は眩しいほどの光を放った。
 天谷は思わず目を背けた。目蓋を閉じていても光の激しさが感じられた。
 しばらくしてハイレイが言った。「見ろ、ユーイチ」
 目を開くと夜空の眺望が一変していた。巨大な惑星が浮かんでいる。木星に似た縞模様があるが、色は鮮やかな紫だった。その手前をライトグリーンの衛星がゆっくりと横ぎっていく。さらに遠方にも見たこともない赤や黄の惑星が見えた。
 そんな星々の中へ、一筋の階段が伸びていた。地上の滑り台の階段が延長され、行き先がかすんで見えないほどの彼方までつづいていた。
「こ、これが……」
「そう、これが魔術だ。では、おれは魔術の世界へ帰るが」
 ハイレイは星へとつづく階段に足をかけた。数段昇った所で振り返り、天谷を見た。
「ユーイチ……お前も一緒に来るか?」
 行きたいと天谷は思った。だが彼の全身は底知れぬ畏怖の念に打たれて震えていた。とても足を踏み出すことはできなかった。
「だめだ、とても無理だ。あんたについては行けない」
「そうか。お前には世話になった。じゃあな、また会おう」
 魔術師は階段を昇って行った。見る見るうちにその後姿は遠ざかり、小さくなっていった。それとともに異様な星々もかすみ、やがて消えていった。
 天谷は深夜の公園で一人、いつまでも暗黒の夜空を見上げていた。

2014年5月11日日曜日

アシュメラ

「ねえ、この辺に喫茶店なかったっけ?」と、川原未知佳は尋ねた。
 高校からの帰り道、駅までつづく商店街を未知佳は、よくいっしょに帰る仲のいい友人の泉田日夏と歩いていた。
「あるんじゃないの。何で?」
「うん、今日の朝ね、お母さんが突然、千円くれたんだ。お友だちとケーキでも食べたらって」
「えっ、未知佳のお母さんいきなり千円もくれるの。何ていいお母さんなのかしら」
「ううん、いつもはそんなことないんだよ。ほんと、今日だけ突然。よっぽどいいことでもあったのかなって」
「ふうん。で、喫茶店?」
「うん、何か古うい喫茶店に入ってみたいんだよね。そんな気分」
「いいよ、いいよ。スポンサーは未知佳だもんね。探しましょう古くてボロい喫茶店を」
「ボロくなくてもいいんだよ」
 そして二人は、商店街から裏道へ少し入ったところで、望みどおりの喫茶店を見つけた。オレンジ色の庇テントに白抜きで〈喫茶リオ〉と店名が記されていた。古びてはいるが、まあ小奇麗な店だった。入り口の脇にイーゼルに乗せた小型の黒板があってメニューが書かれていた。
「チーズケーキセットが六百円だって」
「ここにしよっか」
「うん」
 二人は中へ入った。白熱灯の照明で、薄暗い店内に客の姿はなく、カウンターの奥で白いあごひげを生やしたマスターが、駒をならべたチェス盤を前に一人で考えこんでいた。
「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」
 どこに座るか迷っている未知佳を日夏が奥のテーブルへと押して行った。
 入り口からはカウンターの陰にあたる奥まった壁には大きな絵が飾られていた。
 その絵を目にした途端、未知佳は足を止めた。
 熱帯のジャングルにあるような奇妙な植物が左右に配され、中央には赤い悪魔の石像らしきものが描かれた絵だった。後方にはレンガ造りの花壇のようなものも描き込まれていて、背景は夕暮れを思わせる紫がかったグリーンの空だった。
 未知佳は絵に目を奪われているようだった。
「アシュメラ……」不意に、未知佳の口からそんな言葉が漏れた。
 お冷を持ってきたマスターが背後から声をかけた。
「ん、お嬢さん、今何と言ったのかな?」
「えっ、私、今……?」未知佳は自分でも何をつぶやいたのかわからず戸惑っていた。
「ちょっと、早く座んなさいよ。ごめんなさい。この子ときどきおかしなことを口走るもので、気にしないでください」とりなすように日夏が言った。
 二人がともにチーズケーキ・セットを注文してマスターが去ると未知佳は小声で聞いた。「私、何て言ってた?」
「んん、アシュメラとか、そんなこと言ってたね」
「アシュメラ、って何?」
「私が知るわけないでしょ、お嬢さん」
「なんか自然と口から出ちゃったんだよね、この絵を見たら」
「この絵ねえ。知ってんの?」
「ううん、知らないけど……、でも、なんか見憶えはある気がするんだよね」
「ふうん、不思議な絵ね」
 日夏は携帯電話を取り出すと、その絵を写真に撮った。
「だめよ、勝手に撮っちゃ」
 未知佳が注意すると日夏は舌を出してとぼけた。
 チーズケーキが来ると、二人はいつもの調子でくだらないおしゃべりをはじめた。その店には一時間ほどいたが、未知佳はずっと絵のことが気になっていた。

 夕食の時、未知佳は母親に尋ねた。
「ねえ、お母さん、駅前の商店街の近くにある〈リオ〉って喫茶店知ってる?」
「知らない」未知佳の母、万理絵は言った。
「今日、帰りにそこで日夏とチーズケーキ食べたんだ」
「そう、よかったじゃない」
「で、そのお店の中にね、絵が飾ってあったんだけど」
「絵?」
「うん、絵。その絵がさ、なんか昔、見たことがある気がするんだよね」
「どんな絵なの?」
「真ん中に赤い悪魔みたいなやつが描いてあるの」
「そう、じゃあ、未知佳さんあなた悪魔に会ったことがあるっていうの?」
「そういうことじゃないよ。悪魔って言っても石の像みたいなやつだし……、ううん、そうじゃなくて、その絵を見たことがあるんじゃないかってこと」そう言いながらも未知佳は、自分はじつはあの絵の元になった風景を見たことがあるんじゃないかという気もしてきた。
「そういうのは、デジャヴって言うのよ。じっさいは見たことがなくても、見たことがあるような気がするって、よくあることなのよ」
「デジャヴは知ってるけどさあ、そういう感じでもないんだよね」
「そんなにその絵が気に入ったの?」
「気に入ったわけじゃないんだよ。どこで見たのか気になるだけ」
「ふうん、おかしな子」とくに関心もなさそうに万理絵は言った。
 しばらく黙って食事をつづけてから、未知佳は聞いた。
「ねえ、お父さんて、絵を描く人だった?」
「ううん、お父さんはどちらかと言えばスポーツマンだし、絵なんて描かないわ」
「そう」
 母がまともに答えてくれたので、未知佳は内心ほっとしていた。父の話題が出たのはずいぶん久しぶりのことだった。以前は、父のことを尋ねると母はヒステリックなまでに怒り出すのが常だったからだ。
 未知佳の父は十年ほど前、交通事故で亡くなっていた。それ以来、万理絵はインテリア・デザインの仕事をしながら一人で未知佳を育ててきたのだ。

 翌日、未知佳は校内の図書室で画集を開いていた。
 あの絵のことが気になって仕方がないのだ。
 図書室には美術関係の本は多くはなかったので、すぐに一通り目を通してしまった。その中ではゴーギャンの熱帯の絵と雰囲気が似ていた。と言っても、タッチや色の感じが多少似ている程度で、同じ作者のものとは思えなかった。何となく未知佳は、あの絵を描いたのは日本人ではないか、と思っていた。
 その日も、未知佳は泉田日夏と一緒に帰った。駅まで歩き、そこで別れた。未知佳の家は学校から徒歩で帰れる距離だった。のんびり歩いて二十分ほどである。
 高校は丘の上にあり、家へ帰るには長い階段を下って行くのが近い。この階段の上から町を眺めるのが未知佳は好きだった。
 今日も天気がいい。未知佳は立ち止まってしばらく町を見下ろしていた。
 それから急に気が変わって、坂道を下るルートで帰ることにした。公園になっている森を迂回した下り坂で、すこし遠回りになるが、時々気分を変えてこの道で帰ることもあった。
 坂を下ると、その辺はいつの間にか、古い建物が取り壊されて広い範囲が更地になっていた。新しくマンションでもできるのだろうか。
 そんな中、一軒だけ三階建ての茶色いビルがぽつんと取り残されていた。そこの住人だけが最後まで立ち退きに反対していたという感じだ。たしか以前は産婦人科の病院だったはずだ。だが今では看板もはずされ、窓はベニヤ板でふさがれていた。もう誰も住んでいないようだ。
 未知佳がその建物の前を通りかかったその時、急に強い風が吹いてきた。
 はじめは後ろから、そして前からも。風はすぐにやんだ。今のは何?
 ふと、頭上を見上げると、小さな影がふわふわと左右に揺れていた。どうやら、ビルの屋上から吹き飛ばされてきた落ち葉らしい。未知佳がさっと手を出すと、落ち葉はふわりとその上に着地した。
 その葉はまるで鋏で切ったような正六角形をしていた。枝の側のオレンジから葉の縁の黄色へと緩やかに色が変っていた。その色と形には見憶えがあった。
「この葉は……」
 すぐに記憶が甦ってきた。そう、あの絵だ。あの赤い悪魔像が描かれた絵。悪魔像の左右にそれぞれ奇妙な形の木が描かれていた。右には柳のようなしなった黒い枝に緑の果実がなっている木。そして左には鹿の角のように枝分かれした白い木に六角形のオレンジ色の葉が描かれていたのだ。
 この葉は、その絵に描かれていた葉にそっくりだった。虫に食われたような小さな穴まで同じように思えた。
 ビルの屋上を見上げると、一瞬だけ何か不思議な光が輝いて見えたような気がした。が、あらためて目を凝らしても、何の変哲もない廃ビルにしか見えない。気のせいだったのだろうか。
 未知佳は鞄からノートを取り出すと、落ち葉を挟んでそっとしまった。そして坂道をもと来た方へと上って行った。

 未知佳は、喫茶リオのドアを開けた。
 昨日とまったく同じ姿勢でマスターは、チェス盤上の駒を睨んでいた。
 未知佳は店の奥のあの絵の前の席についた。今日も客はいない。
 お冷を持ってきたマスターが言った。「今日は一人だね」
「ええ」と彼女はとりあえずコーヒーを注文した。
 コーヒーが来るまでの間、彼女はただじっと絵を眺めていた。
「その絵が気になるかね?」
 マスターはコーヒーと一緒にサービスだよと言ってクッキーを一皿持ってきてくれた。
「あの……」未知佳は鞄から落ち葉を取り出し、絵の前にかざして見せた。
 その葉はやはり絵に描かれたものとそっくりだった。絵の中の葉の一つとは虫食いの穴の位置まで同じだった。
「おや、よく似た葉だね」
「さっき、拾ったんです」
「ほう、それは面白い偶然だね」
「偶然……、これが偶然でしょうか?」
「そりゃあそうさ。他に考えようはないね」
「あの、この絵のこと、何かわかれば教えてもらえませんか?」
「ふむ」マスターは少し考えてから言った。「お嬢さんはこの絵のことを知っているんじゃないかね?」
「いいえ、何も。でも、どこかで見たことがある気はするんですけど、どうしても思い出せなくて」
「昨日、この絵を見た時、何かつぶやいていたね?」
「“アシュメラ”って……」
「それはこの絵のタイトルなんだよ。この真ん中に描かれている悪魔の名前らしいんだが」
「私、どうしてあんな言葉が出てきたのか、自分でもわからないんです」
「それは不思議だねえ」
「この絵を描いた人をご存知ですか?」
「うん、この店ができたばかりのころ、よく来てくれたお客さんでね。私がこの壁に飾る絵を探してると言ったら、自分で描いたものでよければ、と言って譲ってくれたんだ」
「その人、画家だったんですか?」
「いや、絵が専門というわけでもなくて、本業は魔術の研究だと言っていたな」
「魔術の……」
「そう、いろいろ多才な人らしくてね。魔術に関する本も書いているらしいけど、難しくてとても素人には理解できないだろうって。あと短編小説が一度文芸誌に載ったこともある。たしか「星への階段」というタイトルだったな。もう、七、八年ぐらい前に病気で亡くなってしまったけどね。遠山光人という名前だよ」

 それから未知佳は二十分ほど、ぼんやりと絵を眺めてから店を出た。マスターは「また絵が見たくなったらいつでもおいで」と言ってくれた。
 未知佳は、ふたたび坂道を下り、あの廃ビルの前にやってきた。
 このビルの屋上から、あの六角形の葉は風に吹かれて落ちてきたのだ。あの「アシュメラ」という悪魔像の絵に描かれたのと同じ葉が。未知佳にはそれが偶然とは思えなかった。だとすれば、このビルの屋上にはいったい何があるのか。屋上へ上ってそれを確かめたかった。
 未知佳はビルの側面にある非常階段の出入り口へ行ってみた。格子状の扉に鎖が巻きつけられて封鎖されている。よく見ると階段側の格子は溶接跡が錆びてぐらついているようだ。彼女が手を触れるとそれはぽろりと外れてしまった。格子が一本外れると、身体を通せるだけの隙間ができた。彼女は左右を見渡し、人がいないことを確かめてから、その空間へ身体を滑り込ませた。あたりはそろそろ夕闇に包まれようとしていた。
 足音を忍ばせながら階段を昇った。屋上に出るドアには鍵はかかっていなかった。未知佳は、屋上へ出た。
 何もない。ただコンクリートで固められた床面が広がっているだけだ。いや、一方の端にレンガ造りの花壇がのようなものがあった。左右二つに分かれていて、中には灰色のアロエが枯れもせずに絡み合うように繁殖していた。
 反対の端に立って花壇を見る。このレンガの花壇と灰色のアロエ、それはたしかあの絵の背景に描き込まれていたのではなかったか。ちょうどこの位置から見て、中央に悪魔像を置いて左右に木を配せば、あの絵とまったく同じ構図になるような気がした。それに花壇のデザインも、レンガの間に小さな白い石のレリーフが埋め込まれているところまでそっくりであるような気がした。
 何とかもう一度、あの絵を見て、この花壇があの絵に描かれたものと同じであることを確かめたかった。だが今からリオへ引き返していたのでは日が暮れてしまうだろう。何とか今すぐに。今ここで、何かが起ころうとしている。そんな予感に彼女は捕らわれていた。
「そうだ。日夏の携帯!」
 彼女は昨日、日夏が携帯のカメラであの絵を写真に撮っていたことを思い出した。未知佳は自分の携帯で泉田日夏を呼び出した。
「もしもし、未知佳?」日夏が出た。
「日夏、きのう喫茶店であの絵、写真に撮ったよね?」
「あんた、まだあの絵にこだわってんの?」
「いいから、その写真、私の携帯に送ってよ」
「いいよ、待ってな」
 携帯を切って十秒も経たないうちにメールが着信した。メールの早打ちが日夏の特技なのだ。
 添付された画像を開くと、液晶画面いっぱいに「アシュメラ」の絵が映し出された。
 やはり背景には、レンガの花壇とアロエが描かれている。絵の中のアロエは抽象化され等間隔にならべられていたが、花壇の形やレンガに埋め込まれたレリーフの位置はまったく同じだった。
 ということは魔術研究家・遠山光人はこの花壇をモデルにして「アシュメラ」を描いたのだろうか。
 画像を見つめていると、携帯の画面では確認できないような細部の記憶が甦ってきた。彼女の座った位置からは絵の右側がよく見えたので、白い石のレリーフは右の二つが魚とクラゲの浮き彫りだったのを思い出した。
 だが、実際の花壇では、右から魚、エイ、珊瑚、ヒトデ、クラゲ、貝という順で配置されていた。彼女の記憶では右から二番目はクラゲのはずなのだが。携帯の画面では浮き彫りの形までは見分けられなかった。
 未知佳はレンガの隙間に指を入れエイのレリーフを掴んだ。そっと引いてみると
抜き取ることができた。レリーフには意外と厚みがあり、立方体の石の上に彫刻されているのだった。他の石を調べてみたところ、固定されて動かないのがほとんどだが、左から二番目のクラゲのレリーフは抜き取ることができた。クラゲとエイ、この二つを入れ換えれば絵と同じ配置になる、そんな気がした。
 彼女は右から二番目にクラゲを、左から二番目にエイを押し込んだ。
 だが、それでどうなるというのか。何も起こるはずはない、彼女はそう思った。
 その時、ふと空を見て彼女は戦慄した。
「空が……、空の色が変わっている!」
 それは見たこともないような色の空だった。グリーンと紫が混じりあったような空。それはあの絵「アシュメラ」に描かれた独特な空の色だった。
 そして、彼女の目の前におぼろな赤い光があらわれた。光はじょじょにある形をとり始め、やがて半透明な悪魔像の姿が見えてきた。左右には六角形の葉をもつ白い木と緑の果実をつけた柳のような黒い木もあった。
 同時に、未知佳の脳裏にはあるイメージが流れ込んできた。車の中でくちづけを交す男女。これはいったい何?
 女は微笑を浮かべ男に声をかけた。その顔を見て未知佳は気づいた、これは若いころの母、万理絵だ。相手の男が誰かはわからない。
 万理絵が降りると男は車を出した。男は厳しい顔つきでハンドルを握り、どんどんスピードを上げていった。
 やがて前方に人影が見えた。それが誰かはすぐにわかった。未知佳の父だ。父は催眠術にでもかかっているかのようにふらふらと路上を歩いていた。
――お父さん、危ない!
 車は未知佳の父を跳ね飛ばしそのまま走り去った。
――この人が、お父さんを殺した……。
 そして、場面が変わった。見知らぬ部屋。ベッドの上で万理絵が男と抱き合っていた。父を車で跳ねたあの男だ。二人の背後の壁には絵が飾られていた。「アシュメラ」の絵だ。
 未知佳にも事情がわかってきた。この男が魔術研究家の遠山光人なのだ。万理絵と遠山は愛人関係だった。万理絵には夫があり娘も生まれていた。嫉妬深い夫、つまり未知佳の父から逃れるために二人は共謀し、殺したのだ。魔術研究家である遠山には催眠術により、ひき逃げのしやすい目撃者のない場所へ被害者を誘い出すのは簡単なことだった。
 未知佳はそれまでまったく知らなかった母の姿を目にした。万理絵は遠山の魔術研究に協力していたのだ。
 次の場面では、遠山は病院のベッドに臥せていた。間もなく死ぬだろうことが自分でもわかっていた。黒魔術の使用が祟ったのだと信じていた。
 見舞いに訪れた万理絵に遠山は告げた「私の死から七年七ヶ月と七日後、アシュメラの祭壇にお前の娘を捧げよ。そうすれば私は復活できるだろう」と。
 遠山光人の死から七年七ヶ月と七日後とは、今日この日ことだった。アシュメラの祭壇とは正しくこの場所だった。
 未知佳が喫茶リオで「アシュメラ」の絵を目にし、今日この場所にたどり着いたのは、彼女が眠っている間に万理絵が囁いた暗示に操られてのことだったのだ。
 はじめ石造として姿を現わした赤い悪魔アシュメラは、今や爬虫類の胴と獣の手足を持つなまなましい実体として動き出していた。
 熱い息が未知佳の顔にかかった。鉤爪のある手が彼女の腕をつかんだ。
 もう逃げられない!

2014年5月7日水曜日

暗闇を歩け

 田島は眠りかけたところを捜査一課長からの電話で起こされた。
 その日は夜勤明けで、いつもなら昼から寝てしまうところなのだが、日中は隣のビルが解体工事をはじめて騒音で眠れなかった。夜には静かになるだろうと思い、部屋の片付けや買い物で一日を過した。次の勤務は朝からなので、夜にぐっすり眠ったほうが体調はいいと思っていたが、夜の十時に課長からの電話だ。
「本町四丁目の中央公園で殺人事件だ」課長は言った。
 田島はあくびをしていた。
「おい、聞いてるのか」
「すみません、寝不足なもので」
「こっちは連続強盗の件で人手が足りないんだ。頼むよ」
「わかってます。行きますよ」
 彼は着替えて部屋を出た。途中コンビニで缶コーヒーと眠気に効くというガムを買ってからタクシーを拾った。
 現場はすでに鑑識が作業を始めていて、野次馬も集まりつつあった。田島は制服警官に手を振って封鎖線をくぐった。同じ一課の捜査官、相原が先に来ていた。小柄で丸顔、いつも愛想がよくあまり刑事らしくは見えない男だ。
「どんな様子だ?」
「被害者は女子高生のようですね。心臓を一突きにされてます」
 死体は周囲より一段高くなったコンクリートの壇上のベンチに囲まれた場所に、水銀灯の青白い光に照らされ横たわっていた。高校の制服らしい紺のブレザーを着ていて、左胸の下のほうにかすかに血がにじんでいた。長めの髪がかかった白い顔は静かに眠っているように見えた。
「凶器は?」
「近くには見当たりませんでした。で、そこに妙なものが」
「何だ?」
 相原が指差したのは死体から少し離れたコンクリートの壇の上で、そこには小型のノートのようなものが、ほとんど灰になった状態で置かれていた。
「どうやら日記帳のようですよ。ほらベルトが付いていて鍵がかけられるようになってるでしょう」
 田島が顔を近づけてみると、確かに日記帳のようで、元は赤い皮の表紙だったらしいことが燃え滓からわかった。
「彼女の持ち物かな?」
「まあ、多分」
「これじゃ、中は読めんだろうな」
「ええ」
「身元は?」
「ポケットに学生証があって、いま川口さんが確認しています」
 と相原は公園の外に止められた警察車に目を向けた。
 見るとちょうど川口が車から顔を出し、田島を手招きした。
 川口は五十過ぎのベテランで、日に焼けない体質なのか生白い肌で痩せていたが、眼光は鋭く叩き上げの刑事らしい風貌だった。
「おお田島、休みのところ悪いな」
 近づくと川口は体臭と入り混じったアルコールの匂い発散させていた。
「それはいいですけど。川口さん酒くさいな」
「あ、そうか。この時間に呼び出されちゃ仕方ないだろう」
「まあ、そうですけど」
「煙草でごまかすか」とポケットをあちこち探り出す。
「いや、煙草じゃむりですよ」
「じゃ、ガムか、ガムはなかったかな」
「捜査中にガムはまずいでしょ」
「そうか。そんなに匂うか?」
「いやまあ、それより被害者の身元はわかりましたか?」
「おお、そうだ。学生証によるとだ、ああ、被害者の名は浅倉那月。華成学園の二年生だな。いま母親に連絡をとって佐野と松岡を向かわせた」
「で、おれは何を?」
「久我山と一緒に周辺の聞き込みをやってくれ。それと不審者のチェックもな。まあ、こんな時間だが、帰宅途中に何か見た者がいるかもしれんからな。灯りの点いてる部屋を選んで手早く回って、せいぜい一時間が限度だろうな」
「久我山も来てるんですか。見かけなかったな」
「そこらにいるだろう」
「わかりました」
 立ち去ろうとする田島を川口が呼び止めた。
「ああ、田島。それからな、久我山のやつここんとこ様子がおかしいから、よく注意しとけ」
「様子がおかしいって、どういうことです?」
「ううん、まあ、見てりゃわかるよ」

 田島は鑑識課員と一緒に公園の周囲の植え込みをかき分けていた久我山を見つけた。凶器などが投げ込まれていないかチェックしていたのだ。久我山は刑事になって二年目の若者で、学生時代はテニス部だったという二枚目の好青年だ。田島は川口からの指示を伝え、ともに聞き込みに回った。
 周辺の住民は殺人があったと聞いて驚く者ばかりで、手掛りは得られなかった。川口は久我山の様子がおかしいと言っていたが、田島にはいつもとそう変わらないように思えた。少し元気がないように見えたが、時にはそんなこともあるだろう。
 深夜、署へつくと死体との対面を済ませた被害者の母親を、松岡が付き添って送り帰すところだった。
 捜査会議は明朝ということになり、田島は休憩室で休むことにした。長椅子に横になってしばらくすると廊下で誰かの話している声が聞こえてきた。大きな声というわけではないが、ひどく腹を立てているような口調なのが気になった。
 田島はドアを開けて廊下に顔を出した。そこには久我山が立っていて、スマートフォンを耳に当て、ちょうど「テメェ、やれるもんならやってみろ!」と言っているところだった。久我山は田島に気づくと、軽く頭を下げてから廊下の角のほうへ足早に去っていった。
 十分ほどたって久我山が休憩室に入ってきた。田島が起きていることに気づくと彼は言った。「すみません。うるさかったですか?」
「いや、うるさいってほどでもないけど、こんな時間に何だと思ってね」
「すみません」
「何か揉めてるのか?」
「大したことじゃないんです……友達とちょっと」
「そうか。川口さんも気にしてたぞ」
「川口さんが……?」
「ああ、お前の様子がおかしいって」
「いや、本当に大したことじゃないんで」
「そうか、まあいいけどな」そう言って田島は寝返りをうち背を向けた。
 久我山はしばらく空いた椅子に腰かけていたが、やがて出て行った。

 翌朝九時から捜査会議が始まった。
 相原が現場の状況を一通り説明した。
「鑑識の報告によると死亡推定時刻はおよそ午後九時半頃、死因は心臓を刺されたことによる失血死とみられますが、凶器は現場から発見されませんでした。この凶器は少し変わっていて、普通のナイフや包丁などではなく両刃の短剣のようなものということです」
「短剣だと」と川口が声を上げた。「今時、そんなもん持ち歩いてる奴いるかねぇ」
 捜査一課長は連続宝石店強盗の合同捜査にかかりきりで、この件は川口が指揮することになっていた。
「ええ、傷は心臓を突き抜けて背中まで達していたということで、刃渡りは三十センチ以上だろうと。それと現場に残されていた焼かれた日記帳のようなものですが、母親がそれらしい物を娘が持っているのを見たと言っていますので、これは被害者の持ち物だったと考えられます。とは言え、紙の部分は完全に灰になっていて文字などを読み取ることはできませんでした。他に、手掛りや目撃情報などはありません」
「その日記だがな、その場で燃やした理由は何だ?」と川口が言った。
「犯人が読まれたくない情報が書かれていたとか」田島が答えた。
「それなら持ち去って、人目につかないところで処分したほうが確実だろう」
「確かに死体が転がってる場所にとどまって火をつけるというのはおかしな話ですね」
「凶器の短剣といい、燃やされた日記といい、どうも妙な事件だな」
「ええ」
「それから佐野。昨夜被害者の家へ行ったときな、父親はどうしてたんだ?」
 佐野が答えた。「仕事で静岡に出張中と言ってました。まだ本人とは連絡が取れてないのですが」
「この時間で連絡が取れないというのはおかしいだろ」
「寝るときに携帯の電源を切ってそのままになってるんじゃないでしょうか」
「もう九時すぎだぞ。番号はわかってるのか?」
「はい。控えてあります」
「じゃあ、今かけてみろ」
 佐野は手帳を開きながら机の電話のボタンを押した。しばらく受話器を耳に当てて言った。「だめです、繋がりません」
「電源切ってるのか?」
「そのようです」
「仕方がないな。そっちはしばらく待つか。じゃあ佐野と松岡はもう一度母親の所に行って詳しく事情を聞いてくれ。とくに当日の被害者の足どりなんかをな。田島と久我山は被害者の通っていた高校、華成学園だな、そこへ行って事情聴取だ。もう教頭には連絡してあるから準備はしてあるだろう。相原はおれと現場周辺の聞き込みだ」

 田島は久我山の運転する警察車のセドリックで華成学園へ向かった。
 昨夜のことがあったからか久我山はどこか不貞腐れたような態度で無言で運転していた。田島も後輩の個人的な問題にまであえて踏み込むまいと思って声はかけなかった。
 華成学園はレンガ色のタイルに覆われた四階建てで、アーチ型に校舎をくり抜いた通路をくぐって車を駐車スペースに入れた。痩せた白髪の男が彼らを出迎えた。不安げな面持ちで何度も頭を下げているその男が教頭の村中だった。
 二人の刑事は校長室へ案内された。校長は五十代ぐらいの落ち着いた雰囲気の女性だった。
「どうか、生徒たちを動揺させないようにお願いします」彼女は言った。
「わかっています」
 会議室で浅倉那月の担任だった松江という若い女の先生と、被害者ととくに仲が良かったという女子生徒三人が待機していた。
 教師らからの事情聴取は久我山に任せ、田島は生徒の話を聞くことにした。
 相談室という小さな部屋を借りて一人づつ入ってもらう。
 最初の生徒は中浦里美という名の痩せて小柄な少女で、外見からは中学生ぐらいに見えた。大きな瞳を潤ませて今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「中浦さんね。君は浅倉さんとは仲が良かったんだね?」
「ええ、仲が良かったというか……」消え入りそうな声で彼女は言った。
「ん、そうでもなかったの?」
「いえ、仲は良かったですけど、私よりも藤崎さんが仲良かったので」
「ああ、なるほど藤崎さんがとくに仲良しだったと」
「はい。私は……人見知りで、なかなか友達ができなかったんですけど……、浅倉さんはよく話しかけてくれて、それで……」
「それで、友達になったんだね」
「はい」
「その浅倉さんだけど、最近何か変わった様子とかはなかった?」
「……いえ、とくに……」
「どんなことでもいいんだよ。何か気づいたことはないかな?」
「あの……」
「ん?」
「小林先生っていう、国語の先生……」
「うん、先生が?」
「授業でわからないところがあったって、浅倉さんが。私もわからなかったので先生に質問しに行くって聞いたんです。そうしたら浅倉さんが別にいいやって……」
「そう、つまり浅倉さんは小林先生に会いたくなかったってことかな?」
「さあ、それはわからないですけど……」
「ふむ、とにかくそのことが気になったというわけだね?」
「気になったというか、何となく思い出したので」
「それはいつごろのこと?」
「三日ぐらい前でした」
「そう、それともう一つ聞きたいんだけど、浅倉さん、何か日記のようなもの書いてなかったかな?」
「さあ、でも日記帳を持ってるのは見ました」
「どんな日記帳だっだかな、表紙の色とか?」
「赤い……」
「大きさは?」
「このくらい」と彼女は手でA5判ぐらいの大きさを示した。
「そう、わかりました。他に何か言っておきたいこととかあるかな?」
 里美は黙って首を振った。
 田島は少女の背中を力づけるように押してやり、部屋から出した。
 彼女はなぜ小林という教師の名を出したのか、それが気になった。彼は手帳に〈コバヤシ、国語〉と書きつけクエスチョン・マークをつけた。
 二番目の生徒は肩を震わせて泣きじゃくりながら部屋に入ってきた。だが椅子に座ると、背筋を伸ばし泣くのをこらえて田島へ目を向けた。
 ずいぶんと気の強い娘だなと彼は思った。 
 藤崎倫子と彼女は名を告げた。
「君は浅倉さんとは仲が良かったんだね?」
「はい」
「最近何か変わった様子とかなかったかな?」
「いいえ、とくに気づきませんでした」
「そう、浅倉さん日記をつけていたかどうか知らない?」
「つけてないって言ってました」
「それはいつ聞いたの?」
「一ヶ月くらい前です」
「どういうきっかけでそういう話題になったの?」
「私たち、二人で原宿に遊びに行ったんですけど、そこで小さな雑貨屋さんに入ったんです。するとそのお店をやってる女の人が占いもやるというので、二人で見てもらって、その時にその女の人が私たちに日記帳をくれたんです。手作りのものでちょうど二冊売れ残ってたからと言って……、それでその時に二人とも日記なんて書いたことないって」
「それはどんな日記帳なのかな?」
「赤い皮の表紙で鍵がついてる物です」
「でもそれじゃあ、もらってから日記をつけ始めたんじゃないかな?」
「いいえ、だって那月はあの日記帳に小説を書いてたんです」
「えっ、小説を、日記帳に?」
「はい」
「それは、どんな小説だろう?」
「クトゥルー神話だって言ってました」
「ええっ、クッ、クク……!?」
「クトゥルー神話です」
「神話って、あのギリシャ神話とかそういう?」
「ええ、その神話ですけど、クトゥルー神話というのは、アメリカにラヴクラフトっていう作家がいて、その人が考えた設定を使って書かれた怪奇小説です」
「怪奇小説……というと吸血鬼なんかが出てくる?」
「いえ、吸血鬼は出ませんけど、大体そんなようなものです」
「そう、小説を書いてたと……、ふむ、すると、そのことで先生に相談したりはしなかったかな。国語の先生とか?」
「そういうことはないと思いますけど」
「国語の先生は何ていう人?」
「古文が東風谷先生で、現国が小林先生です」
「ああ、そうそう古文と現国があるんだよね」
「そう言えば……」
「ん、何かな?」
「いえ、事件とは関係ないと思うんですけど……」
「何でも言っていいんだよ」
「一週間ぐらい前ですけど、那月、小林先生の秘密を知ったって、そう言ってました」
「秘密を、それはどういう?」
「私も聞いたんですけど、教えてくれませんでした」
「そう、他に何か気づいたこととかある?」
「いえ、ありません」
「そう、じゃあこれで、ありがとう」
 彼女は席を立ちながら言った。「あの……もし良かったらですけど」
「ん、何だい?」
「携帯の番号教えてもらえませんか?」
「いいけど、何故?」
「那月を殺した犯人、どうしても捕まえて欲しいんです。それで、私も何か役に立てればと思って……」
 田島は電話番号の記された名刺を差し出した。
「何かあったらいつでも連絡していいけど、無茶なことをしちゃだめだぞ」
「はい、別に危険なことはしません。ただ何か噂とか聞くことがあるかもしれないし」
 田島は藤崎倫子を送り出すと、手帳を開きコバヤシという名の下に〈秘密?〉と書き込んだ。
 三人目の生徒を迎え入れた。
 その生徒は大柄で太り気味の体格で、きょろきょろと視線をさ迷わせながら、口元には冷笑とも思えるような表情を浮かべていた。
 彼女は渡辺瑞紀と名乗った。
「君は浅倉さんと仲が良かったんだね?」
「ええ、はい、わりと……」
「最近何か変わった様子とかなかった?」
「変わった様子と言われても……、ううん、とくになかったかな」
「どんなことでもいいんだけど」
「ううん、べつにないなあ」
「浅倉さんって何か趣味とかあったのかな?」
「さあ……、あ、最近は小説を書いてたみたいですね」
「小説を書くってことは国語とか得意だったかな?」
「そうね、成績は良かったみたい。とくに現国のほうは」
「現国は小林先生でしょう」
「そうですけど」
「じゃあ、小林先生に何か相談したりとか、そういうことはあったのかな?」
「ええっ、それはないでしょう。あの先生評判悪いし」
「評判悪いって、どういう風に?」
「いや、それはちょっと私の口からは……」
「教えてくれないかな。事件と関係なくても、いちおう一通り聞いておかないと」
「じゃあ、私から聞いたって言わないでくださいよ」
「それは、もちろん」
「小林先生……、私たちが入学する前の年、ですから二年前のことですけど、女子生徒にセクハラして泣かせたことがあるらしいんですよ。でも学校は評判に傷が付くと困るからって、その生徒の両親に大金を払って表沙汰にならないようにしたんですって」
「ふうん、それは秘密にされてることなの?」
「秘密といっても、生徒はみんな知ってます」
「他に何か気づいたこととかある?」
「んん、いえ、べつに」
「そう、じゃあ、どうもありがとう」
 と田島が生徒を相談室から送り出すと、ちょうど一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。手帳には〈セクハラ、2年前〉と書き足した。
 会議室で聴取を終えた久我山が待っていた。
「何か出たか?」
「いえ、どの先生も真面目ないい子だったと口をそろえて言うばかりで」
「現国の小林って教師に会ったか?」
「いいえ、授業中の先生は休み時間になってからということで」
「じゃあこれからだな。その小林って教師に会ったら昨夜九時から十時までどこにいたかを聞いてくれ」
「アリバイですか?」と久我山は声をひそめた。
「ああ、さりげなく聞くんだぞ」
「わかりました」
 教頭が、授業から戻った教師たちを久我山に引き合わせた。
 田島は車へ戻った。二時限目の始業チャイムが鳴ってしばらくすると久我山が姿を見せた。
「どうだった?」
「小林は婚約者がいて、別の高校で教師をやっている尾方奈々子という女性だそうですが、昨夜九時から十時、小林はその女性の部屋で食事をしていたということです」
 田島はこれまでの経過を川口に報告した。小林のアリバイ確認には松岡と佐野が向かうことになり、田島と久我山は現場周辺の聞き込みに合流するよう指示を受けた。
「あの先生がセクハラですか?」報告を聞いて久我山が言った。「そうは見えなかったけどな」
「ま、そんなもんさ」

 田島と久我山は再度現場周辺の聞き込みにかかった。昨夜すでに寝静まっていると見て飛ばした所を主に当たるのがかれらの役割だった。
 その辺りは小型のマンションやアパートが密集した地域だった。日中とあって単身者用の住宅などは留守の場合も多かったが、田島は電気メーターの回転などをたよりに人のいる部屋を見つけていった。そうして一時間ほども聞き込みをつづけたところ、事件を見たという人物に行き当たった。
 小奇麗な三階建ての賃貸住宅の一室で、ドアに〈氷室〉と表札を出していた。呼び鈴を鳴らすと、しばらくして出てきたのは紺のスウェットの上下を着た若い男だった。背中まで垂れるほどの長髪で、眉毛が濃く、口の周りは無精髭で覆われていた。
「……殺人ですか」眠そうに目をこすりながらその青年は言った。「ああ……そう言えば昨日の夜、変な男を見たんだよなあ、あの公園で」
「えっ、それはどういう!?」
「うん、何か、燃やしてたんだよね。こう、火をつけて」
「何時ごろ?」
「ええと、十時ちょっと前……いや、九時三十五分か、四十分かそのくらい」
「どんな感じだったのかな。詳しくお願いします」田島は手早くメモを取りながら質問した。
「ううん、その時は早く帰りたかったし、頭のおかしい奴じゃないかと思って、なるべく見ないようにして通り過ぎたんだよね」
「服装は?」
「黒っぽい、こう、フードの付いた、パーカーかジャケットか……」
「フードね。それを頭に被ってた?」
「うん」
「ズボンとか、靴とかはわかりませんか?」
「そこまでは憶えてないなあ」
「顔は見えました?」
「いや」
「そう、それは男だったんですね?」
「うん、いや……そうあらためて言われると、多少骨ばった女かもしれないし……」
「骨ばった、というのは?」
「男と女じゃ体つきがちがうでしょう」
「じゃあ体型からすると男だったと?」
「ええ、まあそうですね」
「痩せていた?」
「ええ、痩せてた気がします」
「身長は?」
「高めな気がしたけど、遠目なのではっきりはわかりませんがね」
「あなたが見たのはその一人だけ?」
「そうです一人でした。ああ、それと何かね、人形が……こう、地面に横たわってるのが見えたような気がしたんだけど……、あれは死体だったのか」
「人形のように見えましたか?」
「ええ、肌が青白かったし、第一まさかあんなところで殺人があるとは思いませんからねえ」
「その横たわってた人は服装は?」
「制服、女子高生の」
「胸に何か刺さってませんでしたか?」
「いや、それは……、ベンチや何かの影になってましたから」
「あと、何か燃やしてたということですけど、それが何かわかりますか?」
「いや、何か四角いものだったと思うんですけど」
「色とかわかりませんかね」
「いや」
「それは地面に置いた状態で?」
「いや、手に持ってましたね、ずっと」
「燃えてる状態で?」
「ええ、あんなに燃えてて手が熱くないのかって思いましたね」
「火を点けるところは見ました?」
「いや、何か光ってるなと思ってそっちを見たんですけど、その時はもう燃え出してましたね」
「じゃあライターとかそういったものは見てないわけですね?」
「見てません」
「他に何か気づいたことなどありますか?」
「いや、特にないです」
「何か雰囲気とか印象に残ったことでもいいんですが」
「印象ですか……そうですね、何か儀式でもやってるのかなって、そう思ったんですよね」
「儀式ですか?」
「ええ、何となくですけど」

 田島が車に戻ると、久我山はすでに運転席についていてスマートフォンで何かさかんに喋っていた。久我山は田島の姿を見るとあわてて通話を切り、端末の液晶画面を隠すようにポケットへ押し込んだ。
「何かあったか?」田島は訊ねた。
「いえ、何も」
「こっちは目撃者が出たぞ」
「え、出たんですか?」
「ああ、いま報告する」
 田島は自分の携帯電話から川口にかけた。相手が出ると彼は言った。
「目撃者がいました。近くに住む大学生です」
「おお、出たか。で?」
「昨夜、九時三十五分から四十分ごろ、長身で痩せた人物が何か四角いものを燃やしてるのを見たそうです」
「おお、そうか。詳しい報告は署で聞くからな、いったん戻れ。ああ、それからな、あの小林っていうセクハラ教師な。あいつのアリバイは嘘だったぞ」
「えっ、嘘なんですか?」
「ああ、佐野と松岡が尾方って婚約者に確認に行ったら、そう言ってくれって小林から頼まれたってバラしたんだ。いま、小林が任意で署に来るから、お前も取り調べに立ち会え」
「わかりました」田島は携帯を畳んで久我山に言った。「署に戻れって」
 久我山は車を出した。
「小林って痩せてたか?」
「いや、太ってはいないですけど、まあ、中肉中背、身長は少し低めなぐらいでしたね」
「そうか、じゃあ、目撃された人物とは別かな」
 車は殺人のあった公園の脇を通りかかった。封鎖はもう解かれていたが、遊んでいる子供の姿はなかった。
 署に戻り、刑事部屋の席に着くと相原が近づいてきた。紙コップのコーヒーを手に隣の椅子に座る。
「いやあ、やっと被害者の父親と連絡が取れましたよ」
「そうか」
「やはり寝るときに携帯を切ったまま電源を入れ忘れてたらしいですね」
「ま、出張中ならアリバイはあるわけだろ」
「いや、それがそうでもないんですよ!」相原は身を乗り出すようにしていった。「出張先は静岡でしょう。そこで予定されていた会合が先方の都合でキャンセルになったというんですよ。それで、浅倉氏は一人で一泊して、今こっちへ向かってるらしいんですがね。その夜に予定されていた会合のキャンセルが告げられたのが午後六時ごろと言ってましたから、その後こっそり東京に戻ったとして、午後九時半に娘を殺すことは、不可能とは言えないわけでしょう」
「しかし、会合のキャンセルは相手方が言い出したことなんだろう」
「そうなんですがね、でも、だからこそうまい具合にアリバイが確保できる絶好のチャンスだと考えたかもしれないじゃないですか」
「つまり父親には娘を殺さなければならない動機があったってことか?」
「そうです」
「で、その動機というのは?」
「それはこれから調べないと」
「じゃあ、よほどの動機が浮上したら、あらためて検討するってとこだろ」
「まあ、そうなりますかねえ」
「久我山のやつどこへ行ったんだろう?」田島は部屋を見渡して言った。
「飯じゃないすか」
「もう昼か。しかしあいつ何かあったのかな?」
「暇さえありゃ電話ばっかしてるんでしょう」
「ああ」
「昨日もそれで川口さんに怒られてましたよ」
「そうなのか」
「でも川口さんもまずいですよ。あの人酒飲みながら捜査してるんですから」
「昼間からか?」
「ええ、そうですよ。酒の匂いぷんぷんさせて聞き込みしてるんだから、そのうち問題になるんじゃないかなあ」
「お前からひとこと言ってやれよ」
「いやあ、ぼくはだめですよ。何かっつうとあの人に怒られてるんですから。この間だって歩くのが遅いってだけで蹴り入れられたし」
 ちょうどその時、刑事部屋に川口が姿を見せた。
 相原は口に運んだコーヒーでむせ返り胸を叩いていた。
「おう、田島。やっこさんがきたぞ」と川口が手招きをした。

 華成学園の国語教師小林は取調室でかしこまった様子で椅子に座っていた。
 髪はきれいに七三にセットされ、銀縁眼鏡をかけていた。服は明るいグレーのスーツに水色のネクタイを締めていた。
 川口が対面に座り、田島は壁際の椅子に腰掛けた。
「で、小林先生よお、あんたは先の事情聴取のときにだ、昨夜九時から十時の間は婚約者の尾方奈々子さんの部屋で食事をしていましたと、こう証言したんだよな」
「い、いやその証言といいますか、その……」眉をひそめて小林は言った。
「言ったんだろう」
「え、はい、言いました」
「それがだな、うちの刑事が、その尾方奈々子さんに確認に行ったところ、あんたから嘘の証言をするように頼まれたが、実際には来ていなかったと、こう言ってるわけだよ。こりゃどういうことかね」
「いや、それはその……」
「ま、あんたの婚約者も、殺人の片棒まで担がされたんじゃたまらんと、こう思ったんだろうな」
「さ、さ、殺人って、そんなことは決して」
「じゃあ、何で嘘の証言を頼んだりしたんだ」
「いや、その、それはつまり、私、その時間は自分の部屋に一人でいたものですから……それでそのアリバイが無いせいで無用な疑いをかけられても困るな、と思ったものですから、それで、つい」
 小林はハンカチを取り出して顔を拭きはじめた。
「はん、部屋に一人でね。その日はまっすぐ家に帰ったのか?」
「はい」
「あんた通勤は電車かね?」
「はい」
「あのスイカってカード使ってる?」
「はい」
「そのカードの履歴調べたら、どこで乗り降りしたかわかるからな」
「えっ、えっ、あの、いや、いつも使ってるわけでもないので……」
「持ってて使わないわけ無いだろう。それにな、駅の監視カメラの映像もいまチェックしてるところだからな。今度嘘がばれると、もう本当に大変なことになるぞ」
「いや、その、あの……」
「ん、どうした。そう言えば、殺人現場の近くであんたとよく似た人物を見たって証言もあるようだし、これで犯人確定かなあ」
「いや、いや、殺人とは本当に関係ないんですよ。本当に、アリバイだってあるし」
「ほう、あるの。今無いって言ってたじゃない」
「そ、それは、その、個人的な事情がありまして、なかなか……」
「何、あるなら言いなさいよ」
「ええ、その、このことは内密にしていただくと約束していただかないと」
「あんたねえ、人殺しておいて内密にと言われても困るんだよねえ」
「いやだから殺してはいないんですって」
「じゃあ、言ったらどうだ。正直に言えば、それなりのことは考えてやるから」
「はあ、あの……その時間は生徒の一人と……」
「何、生徒と、何をしてたんだ?」
「ええ、渋谷の方で……ちょっとぶらぶらと」
「生徒っていうのは、あれだな、女生徒だな、教え子か」
「ええ、はい」
「それでただぶらぶらってことはないだろう」
「いやその、べつに……」
「おい、調べればわかるんだぞっ!」
「あ、あのじつは、ホテルに……」
「はん、ホテル、教え子とホテルに行ってたのか?」
「はあ、はい」
「こりゃ完全に淫行だな」
「あ、あの、その、ホテルに入ったというだけで、やましい行為は無かったんですよ。いや、本当に」
 川口は田島の方を向いて言った。「おい、どうするよこれ?」
 わっと酔っ払い特有の匂いがした。小林はずっとこの匂いを浴びていたのかと田島は思った。
 その時、田島のスーツの中で携帯電話が震動した。開いて見ると発信者は見憶えのない携帯の番号だった。
「すみません、ちょっと」と言って田島は席を立った。
 廊下に出ると角のほうで久我山がスマートフォンで会話をしているのが目に入った。低く抑えた声で「殺すぞ、コノヤロウ」と言っているのが聞こえた。
 田島は廊下の反対の端に行って、携帯に出た。
 相手は藤崎倫子だった。華成学園で浅倉那月と一番仲がよかったという生徒だ。
「何かな?」
「あの、ちょっとおかしなことがあって」
「うん、どうした?」
「ええと、電話では説明しづらいんです。会って話せませんか?」
「まあ、いいけど」
 倫子が自分の居場所を伝えた。
 田島は電話を切って、取調室のドアを開けた。
「川口さんちょっと」
「おお、どうした」川口が廊下に出てきた。
「生徒の一人が何か情報があるらしいんで、ちょっと出てきていいですか?」
「ああ、一人で行けるな」
「はい。あ、それと川口さん」
「何だ?」
「息、酒くさいですよ」
「ん、そうか、これはあれだ、昨日の酒がだな……」
「昼間から飲んでるんじゃないでしょうね?」田島が手の甲で川口の胸を叩くと、内ポケットのスキットルに当たってちゃぷんと液体の跳ねる音が聞こえた。
 川口は気まずそうに口元を歪めた。
 田島は結局噛む機会のなかった眠気覚ましのガム差し出した。「これで何とかしてください」
 嫌そうな顔をしながらも川口はガムを手に取った。

 田島はセドリックで華成学園へ向かった。
 藤崎倫子は、正門を出て左へまっすぐ行ったところにある神社で待っていると言っていた。神社はすぐに見つかった。参道の左右が小さな公園のようになっていて、そこのベンチに制服姿の女生徒が座っていた。
 田島が近づくと彼女は立ち上がった。
「すみません。お忙しいんでしょう」
「いや、これも仕事のうちだからね」
 倫子は手に赤い表紙の日記帳を持っていた。
「あの、これなんですけど……」
「うん、例の日記帳だね」
「私と那月と一冊づつ持ってるって言ったでしょう」
「うん」
「それでその、さっき開いてみたら、これ那月のなんです」
「えっ、どういうことだい?」
「つまり、いつの間にか入れ替わってたんです」
「じゃあ、昨夜浅倉さんが持ってたのは君の日記帳だったってこと?」
「いえ……、それがおかしいんです。今日の朝見たときは、確かに自分のだったんです。私はこれにスケジュールや買い物のメモなんかを書き込んでるんですけど。それで家を出るときに確認したので間違いありません。それで、さっき昼休みにまた書くことがあって開いてみたら内容が、那月の書いたものに……」
「ん、じゃあ、今日の午前中のうちに入れ替わったってこと?」
「そうです。学校にいる間はずっと鞄に入れてたんですけど、私が鞄から離れたのは刑事さんと話をしに行った時と、体育の授業の時だけです。刑事さんと話してたときは教室に皆がいて勝手に他人の鞄を開けることなんてできなかったはずですけど、体育の授業の時は教室に誰もいなくなるので、すり換えられたとしたらその時しか考えられないんですけど……」
 いや、それにしてもおかしい、と田島は思った。日記の一冊は殺人現場で燃やされているのだ。倫子が言うように、朝は自分の日記で、今は浅倉那月の日記になっているのであれば、日記帳は三冊存在したことになる。占いもやっている雑貨屋で売れ残りの二冊をもらったと倫子は言っていたはずだが……。
「浅倉さんは小説を書いてたんだよね」
「ええ」
「今持ってるその日記には、その小説が?」
「そうです」
「中を見ていいかな?」
 倫子は日記帳を差し出した。
 赤い皮の表紙で、鍵付きのベルトは今は外されていた。
 田島は表紙を開いた。最初のページには「アシュメラ」という小説のタイトルらしい文字が読めた。だがその途端、日記の白いページが青い炎を上げ始めた。
 手の上で日記が燃えていた。なぜ火がついたのか、まったくわからない。田島は動顛し、炎を上げる日記を体から離すのがやっとだった。
 倫子が強い力で田島の腕をつかんだ。そして叫んだ。
「これは魔術よ、魔術だわ!」

2013年3月10日日曜日

アストラル・ライト


  1.

 冷えこんだ二月のある朝、黒坂真理子が目覚めとともに天啓のように感じ取ったのは「戦士が転生した」という思いだった。
 だが、彼女がそのメッセージを発信した相手を突き止めようとすると、思念は急速に遠ざかるように弱まり、間もなく消えてしまった。まるで一時の気の迷いであるかのように。
 あるいはそれはたんに彼女の願望が外部に反映されただけだったのかもしれない。じっさい彼女は今、切実に《戦士》を必要としていた。この国、日本を邪霊の脅威から守るために戦うことのできる《戦士》を。
 日本は霊的危機に見舞われている。その兆候を彼女はあらゆるところに感じ取っていた。
 今マスコミを賑わせている《首狩族事件》などもその一つだ。
 この事件は、昨年十月から関東一円で立てつづけに起こった殺人事件で、いずれも被害者は鋭利な刃物で首を切断され頭部を持ち去られていた。犯行はほぼ週に一度のペースで東京で四人、神奈川で三人、埼玉で二人、山梨で一人が同じ方法で殺害されていた。十人の被害者は男性が五人と女性が五人で、皆二十代の若者であること以外はとくに共通点はなく、通り魔的な犯行と見られていた。
 だが、真理子が独自に調査したところ、この十人はじつはいずれも潜在的に高度な霊能力を有するものばかりであったことが判明していた。たとえば、その内の一人は、飯野敬二という音楽家志望の青年で、自覚もないままにその作曲能力を通して強い霊力を発揮していた。
 今のところ、この事件は十件目の犯行以降は何事もなく、すでに三週間が過ぎようとしており、一応終息したのではないかと目されているが、警察は犯人に関する何らの手掛りも得ておらず、通称《首狩族》はいつまた活動を再開するかもわからない状態であった。
 しかし、これすらもより大きな災厄への前兆に過ぎない、というのが真理子の予測だった。
 未来の危機を予知することは、《根黒野の巫女》黒坂真理子に与えられた能力だった。古代中国から口承によって伝えられてきたものを彼女が受け継いだのだ。そしてその能力を生かし、危機と戦うべき《戦士》を見つけ出すこと、それが彼女の使命なのだ。
 かつて、ライブクラフト社が巨大コンピュータを用いて邪神クトゥルーの召喚を計画した際には、三島由紀夫の転生者、三浦与志希に率いられた自衛官ら決起によってこれを未然に防ぐことができた。その三浦も今は亡い。あれは世間が信じているような自決ではなかった。召喚を途中で邪魔されたクトゥルーの怒りに触れ呪いを受けたのだ。だからこそ自衛隊は回収した遺体をあわてたようにすぐさま火葬しなければならなかったのである。
 《戦士》といっても必ずしも戦闘能力に優れた者であるとはかぎらない。状況によっては市井の一般人が事態の解決に役立つ場合もあった。ある高校の《幻想文学研究会》が宇宙神ヨグ=ソトースの召喚を試みた際には、彼女は一介の高校生である遠野守に事情を告げ、儀式の首謀者と対決させた。
 だが今度の危機は、そのような急場しのぎの方法で乗り切れるものではないと思われた。転生を繰り返している力強い魂をもった《戦士》がどうしても必要だった。
 しかし、それが見つからないのだった。もう、この国からは強い戦士の魂は失われてしまったのだろうか。それともあるいは、自分の巫女としての能力が衰えているのかもしれない。
 いずれにせよ、残された時間はあとわずか、真理子はそう予感していた。
 だとすれば、この危機と戦うべき人間はもう自分自身しかないのではないか。《最後の戦士》として。


 午前九時すぎ、真理子の部屋へ一本の電話があった。郷田という男からで、見せたいものがあるので来てほしいということだった。
 彼女は白金のマンションから黒いセリカを出した。
 郷田というのは彼女への情報提供者の一人で、由緒ある寺の住職の息子だった。いずれは寺を継ぐことになっていたが、父親がまだ元気なので三十過ぎでも遊びまわっている道楽者だった。それでもコンピュータ関連の情報には詳しく人脈も豊富なので、首狩族事件に関してマスコミに出ないような情報があったら知らせてほしいと依頼してあったのだ。
 郷田の住居は神田のマンションの一室だった。
「相変わらず、ひどい所だな」部屋に入るなり真理子は言った。
 その部屋は、壁じゅうにアニメ絵の少女キャラのポスターが貼られ、床から天井まで箱入りのPCゲームソフトが積み上げられていた。本棚の中はマンガとフィギュアでいっぱいだった。
「いやいや、お茶でも出しましょうかね。と言っても〈午後の紅茶〉しかありませんけど、えへっへっへっ」太った体に水色のトレーナーを着た郷田は、眼鏡の奥の目を細めて甲高い声を上げた。
「いらん、とにかく情報を出せ」
「へぇへ」と郷田は机の上のパソコンを操作し始めた。「黒坂さん、まだパソコン使ってないんですよね、せめてスマホぐらい持てばいいのに」
「アメリカの文化侵略に加担する気はない」
 机の上のアニメキャラのフィギュアをつまみ上げ、郷田は言った。「これが文化侵略ねえ。最近じゃあ、日本があっちを侵略してるんじゃないっすか?」
「そんな話はいいから、情報を出せ」
「はいはい、出ましたよっと」郷田は椅子をずらしてパソコンのモニターを真理子の方へ向けた。
「なんだこれは?」
「マジック・ランタンって動画サイトでね、そこで話題になってる呪いの動画ってやつですよ」
「呪いの動画……?」
「いや、見たらすぐどうかなるって訳でもないらしいんですが、例の首狩族事件の被害者たちは皆この動画を見てたんじゃないかって噂がネット上で広まっていまして」
「どういうことだ?」
「ええ、僕が調べたところ、そうはっきりした根拠があるわけではないんですが、被害者のうちの一人の女性がウィスパーっていうミニブログでこの動画について囁いていたとか、被害者の友人だって人物が無名掲示板に被害者が殺される直前に繰り返しこの動画を見ていたという書き込みをしていたりとか、噂のもとになっているのはこの二件ようです。それもいくら探しても書き込みの現物は見つからず、あるのはコピペばかりでしたけどね。つまり一応根拠があるのは十人中二人、それもまた聞きの情報だけってわけですけど、しかし、事件以前はまったくこの動画の存在は知られていなかったにもかかわらず、今になって急に噂が出てきたってことは、やっぱり背後に何かあるのかなと」
「ふむ、とにかく動画を見てみるか」
 郷田がマウスを操作すると、動画の再生が開始された。
 それはサイレント時代のモノクロ映画のような映像だった。映し出されているのはどうやら宇宙空間らしい。凍りついた太陽のまわりを周回しつづける不毛の惑星、そんな映像だった。それに悍しくも不気味な音楽がついていた。
「こ、これは……」
「これがえんえん二十分ほどつづくだけなんすけどね」そう言いながら真理子の顔をうかがった郷田はにやけた表情を曇らせた。「どうしたんですか、黒坂さん顔が、青褪めてますよ」
 真理子の白い顔は、モニターの光を浴びていっそう青白く見えた。
「この動画、お前は何回ぐらい見ている?」
「なんやかんやで、五、六回ですかね」
「今後はもう見ないようにしろ」
「そ、そんなにやばいんですか、これ?」
「いや、よくわからないが……、事件に関係があるのは確かだ」
「やっぱり……」
「これを何人ぐらいが見ているんだ?」
「ええ、そうですね……ここだけでも七十万回以上再生されてますね。一人で何度も見る例があるとしても、ユー・チューブとか他のサイトにも拡散されてますから……軽く百万人ぐらいは見てるんじゃないですか」
「百万……、日本国内でか?」
「ええ、海外じゃ話題になってませんからね。見てるのはほとんど日本人でしょう」
 真理子は無言で画面に見入っていた。
「どうなるんでしょう……まさかいきなり死ぬとかないですよねえ」
「音楽が気になるな」
「ええ。最初に出回ったバージョンは音楽無しだったんですよ。ほんとサイレント映画みたいに。一週間ぐらい前からかな、音楽がついたのがアップされたのは」
「誰の作曲かわかるか?」
「さあ」
「被害者の中に音楽家志望の男がいたろ」
「ああ、飯野敬二とかいう……」
「多分、その男だ。曲に独特の特徴がある」
「そう言えば、飯野がネット上に公開していた曲と似てますかね」
「それで、この動画を最初に公開したのは誰だ?」
「いや、それもよくわからないんです。IDは英数字をランダムに並べただけのものだし」
「マジック・ランタン……か」
「ええ、最初に動画がアップされたのはこのサイトのようです」
「ということは運営しているのは……」
「そう、あのマジック・ランタン・ネットワーク社ですよ」


 外へ出ると、どんよりと曇った空から風に乗って粉雪が舞っていた。天気予報は午後から本格的な雪になると告げていた。
 黒坂真理子は車をお台場へ向けて走らせた。
 すでに日本からは撤退したライブクラフト社があったその跡地に、今はマジック・ランタン・ネットワーク社の巨大な黒いピラミッド型の社屋が建てられていた。
 マジック・ランタン・ネットワーク社は映像配信やオンライン・ゲームなどインターネット関連のサービスを始め、ファミリー・レストラン・チェーンや映画制作まで手がけている新進企業で、この不況下でも株価を上げつづけていた。
 経営者は日本人だか、それほどの手腕のある人物とは思われず、背後で別のものが操っているのではないかというのが、もっぱら経済界での噂だった。
 経済的なからくりに真理子の興味はない。だが、今般の霊的危機の中心にこの企業があるというかすかな予感はもとよりあった。それが今では確信に高まっていた。
 あの映像、古いモノクロ映画のような画面に映し出された呪われた宇宙……。
 あの映像には何かが仕込まれていた。精神に作用する何かが。 
 彼女自身はそのようなものから自分を守る術を身につけていた。だが普通の人々は一体どうなることか。
 彼女の予知能力はこの時、危機の中心はマジック・ランタン・ネットワーク社にありと、はっきり知覚していた。
 セリカを駐車場へ入れ、彼女は黒いピラミッドへと向かった。
 社屋といっても地下と一階から三階まではアミューズメント施設になっていて一般人が自由に出入りできた。中には大きなショッピングモールに加え、映画館や美術館それに水族館まで併設されていた。
 彼女はそれとなく気配を探りながら各店舗を見て回った。平日で、しかも予報は雪とあって客の数は少なかった。地下の映画館では『這いよれ! ニャル子さん』とかいうアニメ映画が上映されていて、その予告編が中央広場の大型モニターで繰り返し流されていた。
 そこは一階から三階まで吹き抜けになったイベント・スペースで、〈スフィンクス広場〉と呼ばれていた。中心に黄金色のスフィンクス像が設置されているためだ。見る角度によって虹のように輝きを変える不思議な金属でできていた。外形はエジプトはギザの大スフィンクスよりも、古代ギリシャ風のデザインで、ハイエナの体に乳房のある女性の上半身がついていて、両腕はハゲタカの翼だった。だが首から上は砕かれたようになっていて、頭部が存在しなかった。
「ふん、顔の無いスフィンクスか」そう呟いて真理子はその場をあとにした。


 外へ出ると、大粒の雪が降り出していた。
 真理子は駐車場からセリカを出し、しばらく周辺を走らせた。レインボー・ブリッジ近くの道路脇に空間を見つけ車を停めた。そこからだと黒いピラミッドの全体がよく見渡せた。彼女は小型の双眼鏡を取り出すと、サイド・ウィンドウを下ろし社屋へ向けた。修行を積んでいるので寒さに震えるようなことはなかった。
 商業スペースを見て回った限りでは、とくに怪しげな策動は感知されなかった。だが、四階から上の企業スペースとの間には魔術的な結界のようなものがあって、精神による探査も不可能な状態だった。マジック・ランタン・ネットワーク社で何が行なわれているかを調べるためには、やはり内部に潜入するしかないというのが彼女の考えだった。
 双眼鏡による観察をひとしきり終えると、真理子はウィンドウを上げシートを倒しそこに身体を横たえた。腹の上で指を組み精神統一をはじめた。
 やがてどこからともなく一羽の大きな鴉が近くの街灯の支柱へ舞い降りてきた。大鴉はセリカの運転席を黙って見下ろしていたが、すぐにふたたび飛びたった。降りしきる雪の中、黒い翼がピラミッドの周囲を旋回しつづけた。
 この大鴉は真理子の使い魔で、鴉の目を通して彼女は社を出入りする人物の一人一人の精神を調査することができた。
 その結果わかったのは、社員の大半は、自分が勤めているのは健全なIT企業と信じきっているということで、とくに犯罪が行われているという兆候は発見できなかった。しかし霊的な謀略ならば一部の社員のみでも実行可能だ。今はとにかく潜入に役立つ人物を探す計画だった。
 マジック・ランタン・ネットワーク社はネットサービスの関係もあって24時間一定数の社員が勤務をつづけていた。そのためシフト制になっているらしく、出勤退社の時間は社員それぞれでばらばらなようだった。それでも事務系の社員などはやはり九時から五時までという勤務のものが多かった。
 午後五時をすぎると多くの社員が退社し〈ゆりかもめ〉の駅へ向かった。その中に真理子は目的に適った人物を見つけた。26歳の秘書課のOLで、名は岡部亜沙美といった。秘書課の中ではまだ下っ端の雑用係で一日中社内を飛び回っている。その上おしゃべりでゴシップ好きだった。身長は真理子とほぼ同じ、痩せ型の真理子と比べると岡部のほうが肉付きがよく胸も大きかった。
 大鴉が岡部亜沙美のあとを尾けた。
 彼女は退社後まっすぐ家に帰ることはめったになく、同じ社の友人と深夜まで遊んでいることのほうが多かった。だがこの日は雪のためすぐ帰宅することにしたようだ。日本橋人形町の小さなマンションに彼女は住んでいた。新橋から地下鉄一本で行ける。鴉は地下鉄駅の入り口で亜沙美の思考を読み取り真理子へと伝えた。
 先回りするために真理子はセリカを飛ばした。雪はまだ積もるほどではないが、何度かタイヤを派手にスリップさせた。
 岡部亜沙美はマンションのエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉じる寸前、真理子は身体を滑り込ませた。
 エレベーターの中で二人きり、亜沙美は横目でもう一人の女を観察した。長い黒髪の女、肌は白く服は黒のワンピース一枚。真冬にこんな恰好で寒くないのだろうかと彼女は思った。その女のほうでも彼女のことを猫のような黒い瞳でじっと見つめているのが不気味だった。
 亜沙美の部屋のある四階に着く直前、女が不意に彼女のほうへ手を伸ばしてきた。首に指先が触れた。
「なに!?」と思った途端、亜沙美の意識は遠のいていった。


 黒坂真理子は根黒野秘法の一つ《皮膚乃巣の術》により岡部亜沙美を瞬時に催眠状態に陥れた。そして酔った娘を介抱するふりをしながら亜沙美にドアの鍵を開けさせ部屋へと入った。
 亜沙美をベッドへ寝かせると、真理子は早速、亜沙美の記憶への侵入を試みた。だが、彼女の深層記憶を目の当たりにすると、思わずたじろいでしまう。この女の精神の深層は、大半が何層にも重なった強烈なセックスの記憶で占められていた。それも妻子あるかなり年上の男との不倫関係ばかり、相手を変えながら何度も結んでいるのだった。
 これではとても社内の謀略に関する情報など探り出せそうもなかった。
「まあいいわ、必要なのはあなたの身体だけ……」
 真理子は建物内部の構造に関する記憶だけを読みとると、その場で精神統一を始めた。
 根黒野秘法の奥義の一つ、《異巣の術》を使うためだ。
 この術により真理子は他人の身体と、精神を入れ替えることができるのだ。
 やがて真理子は気絶したように亜沙美の胸の上へ頭を落した。同時に亜沙美が目を開き身体を起こした。
 真理子の精神は亜沙美の眼を通して、うなだれた自分の身体を見ていた。
「どうやら上手くいったようね」
 亜沙美の手が真理子の身体を丁寧に床へ横たえた。
 岡部亜沙美は部屋を出ると、ふたたびマジック・ランタン・ネットワーク社へ足を向けた。
 夜の街には音もなく雪が降りつづけていた。


  2.

 亜沙美は社員専用のゲートから黒いピラミッド型の社屋へと入った。時刻は午後十時すぎ。そんな時間だったが社員証を示すと警備員はとくに不審がることもなく通してくれた。企業フロアになる四階まで直通のエスカレーターで上がり、中央ロビーからエレベーターに乗った。
 どこを調べるべきか、あたりはついていた。最上階三十六階にある《無有研究室》である。真理子が社員の精神を探った際、何人かの記憶の中で、この研究室が禁忌のイメージをともなっていて、まるで、近づくことはおろか考えることすらを禁じられているかのようだった。《無有》という名称さえも「むゆう」なのか、「むう」なのか、誰も正式な読み方を知らないのだった。
 エレベーターが三十六階についた。
 床と天井は黒く、壁はブルーグレー、青白い蛍光灯の明りがぼんやり照らされていた。
 ピラミッドの最上階なのでさほど広さはない。正面の黒いドアに《無有研究室》と記されたプレートが掲げられていた。廊下は左の奥にもつづいていて他にも小さなオフィスなどがあるようだった。
 とても静かだ。下っていくエレベーターのモーター音だけがかすかに響いていた。
 亜沙美は研究室のドアに手をかけた。ノブを回すとすんなりと開いた。中は暗闇だった。
 その時、左側の廊下から一人の男が姿を見せた。
「おいっ、そこで何をしている!」
 紺色の背広を着た小柄な男だった。
 生白い皮膚に筋ばった首、薄い唇とつり上がった目をしていて、妙に爬虫類じみた印象があった。
「君は誰だ?」男は言った。
「秘書課の岡部といいます」
「ここだ何をしている?」
「CEOを探してるんです。ちょっと確認したいことがありまして」
「CEO……?」
「経営最高責任者のことですけど」
「そんなことはわかっとる。社長ならもう自宅に帰られただろ」
「そう、社長ならね」
「だいたい君はどうやってここへ入ってきたんだ?」
「どうやてって、普通にエレベーターで上ってきましたけど」
 すると男は忌々しそうにエレベーターを睨みつけた。
「あなたは誰なのでしょうか?」亜沙美は質問した。
「私はここの室長、外川だ」
「室長と言うと、このナイアル研究室の?」
 外川は驚き、亜沙美へ鋭く眼を向けた。
「お、お前、なぜその名を知っている!?」
「なぜって、無有という漢字を“ないある”と読むのがそんなに驚くほどのことかしら」
「それは……」
「そう、つまり、あなたがたは社員に心理的な抑圧をかけてこの研究室に関心を向けられないようにしていた。そういうことね」
「な、な、何だと。お前……ただの社員ではないな!」
 外川がそう言って気色ばんだ時、研究室の中の明りがついた。白熱灯の淡いオレンジ色の光だった。部屋の中から低く重みのある声がした。
「外川くん。その人はいいんだ。入ってもらいなさい」
「は、はいっ」
 急にかしこまった外川がドアを開け亜沙美を通した。
 部屋の奥はピラミッドの斜面そのままの黒いガラス窓だった。そこから望める湾岸の夜景を背に、長身の黒いスーツの男が立っていた。
 肩までかかる長い髪で、皮膚はよく日に焼けたように浅黒かった。
「岡部くんと言ったね。きみはここでの研究に興味があるようだね?」
「ええ、ぜひ教えていただきたいわ」
 平然と答える亜沙美の体を、背後から外川が殺気立った目で睨んでいるのを真理子の精神はありありと感じ取っていた。
「よかろう」黒い男は言った。「私の名は無有雷蔵。ここの特別顧問をしている。来たまえ」
 無有雷蔵――そう名乗った男は彼女を右手にある別室のドアへと導いた。
 その部屋の中央に大きな機械が据えられていた。
 直径三十センチ高さ五十センチほどの黒い金属製の円柱が十本、等間隔に円を描くように配置され、それが金属のフレームと無数の電気コードでつながれていた。そしてその中央には、金色の細長い鉱物の破片のようないびつな多面体が、まるでホログラムのように光を放ちながら宙に浮かんでゆっくりと回転していた。
 その機械を目にした途端、真理子の精神はそこにわだかまるただならぬ妖気を感じ取った。
「こ、これは……!?」
「ここで開発した新型のコンピューターだ」
「これがコンピューター……」
「そう、人脳コンピューター《トラペゾヘドロン》と呼んでいる」
「人脳……人の脳……、わかったわ、あの十本の円筒の中身は《首狩族事件》の被害者十人の脳というわけね」
「さすがに察しがいいな。《根黒野の巫女》黒坂真理子よ」
 正体を見抜かれた真理子は、動じることなく言葉を返した。
「ふん、こちらもお前の正体はわかっている。《這い寄る混沌》ナイアルラトホテップ」
「フフフ、精神交換とは味な真似をしたものだ」
 低く含み笑いをもらす無有雷蔵の浅黒かった相貌は、いつの間にか宇宙の深淵そのもののような暗黒につつまれ、そこに三つの眼のように赤い炎が燃えていた。
「《燃える三眼》……、言え、何を企んでいる!」
「フフ、知りたければ教えてやろう。お前も見ただろう。あの破壊の波に呑まれた宇宙の映像を」
「あの動画か」
「あれは古い映画なのだが、この《トラペゾヘドロン》により改良をくわえたものだ。あの映像を一度でも見た者は、脳の作用にある改変が加えられることになる」
「何だそれは?」
「あの映像を見た者は、その後、無意識の内部で呪文の詠唱をつづけることになるのだ」
「呪文の……詠唱だと……」
「フフフ、何の呪文か気になるかね。きみには言うまでもなかろう」
「く……、クトゥルー……か?」
「その通り。あの動画はすでに百万以上の日本人が見ている。つまり今この時も百万人の無意識がクトゥルー召喚の呪文を唱えつづけているのだ。精神寄生体としてクトゥルーを受け入れるためにな」
「おのれ……!」
「フフフフフ、どうする《根黒野の巫女》よ。またいつぞやのようにここを自衛隊に占拠させるかね。そんなことをしても無駄だ。召喚のための媒体は百万人の脳内にすでに分散している。一人一人の持つ情報はわずかでも、その全てをあわせればクトゥルー本体と同等の像を結ぶ。仮にその内の五万や十万を殺したとしても、残った者たちは情報を相互に参照し補完しあうことですぐに修復が可能だ」
「リゾーム・システムか……」
「その上、今後もあの動画を視聴する者の数は増えつづけるだろう。精神寄生体に侵された者の数が一定数を越えれば、あとはインターネットを介さずとも精神の同調作用によって自動的にすべての日本人がクトゥルーを受け入れることになろう。日本は一木一草までわれらの支配の下に入るのだ」
「きさま……なぜ日本を狙う?」
「フフッ、日本は手始めにすぎん。いずれ、全世界、いや全宇宙が復活した旧支配者の制するところとなるのだ。だがその第一歩が日本であることには理由がある。クトゥルーの眠る場所ルルイエの存する太平洋沿岸に位置し、インターネットの普及率が高いこと。そして欧米ほどには個人主義が確立していないが、そのくせ神への信仰心は希薄であること、などいろいろあるが、第一には日本人は元来、無意識的な同調作用による支配を受け入れやすい精神構造だったためなのだ。なぜそうなっているのかは知らんがね。フハハハハハッ」
「ゆ、許さん……。他の日本人がどうあろうと、この私は最後まで戦うぞ!」
「ハハハッ、そんなことはできないよ。なぜならば、お前の精神は、今ここで私がいただくからだっ!」
 その言葉と同時に、暗黒が彼女の身体を包み込んだ。瞬時に真理子は精神だけを離脱させた。その一瞬、真理子は《這い寄る混沌》の名状しがたき真の姿を目にした。見つづけていれば気が触れてしまっただろう。それでも何とか自分の身体が横たわる岡部亜沙美の部屋へ無事に帰りつくことができた。それというのも、ピラミッドの結界が外から内へ侵入するものを防御する目的で張られていたため、内側からの突破は比較的容易だったことに加えて、ナイアルラトホテップのような神格でも、真理子の用いる魔術が系統の異なる初めて対峙するものであったため、わずかながらの隙を突いて逃走することができたのだった。。
 真理子は亜沙美の精神をもとの身体へ返し、自分の精神を自分の身体へと戻した。突然、マジック・ランタン・ネットワーク社の最上階で目覚めることになる亜沙美は驚くことにはなろうが、《暗黒の男》も無力なOLには手出しをせず無事に帰すだろうと真理子は予測していた。彼らにしてみれば彼女もまた、いずれクトゥルーを受け入れる媒体の一つとなるはずなのだから。
 精神寄生体としてのクトゥルーによる侵略。それは何としても阻止しなければならない。だが、どうすればいいのか?
 その答を見つけられず、黒坂真理子は唇を噛んだ。


 翌朝、真理子が目覚めた時、前日の朝と同様の「戦士が転生した」というメッセージを受け取った。彼女はすぐさま発信者の正体を探ったが、それは間もなく遠ざかり消えてしまった。昨日は気のせいと思っていたものだが、今回はその存在をはっきりと触知することができた。その気配がすぐに消えてしまうのは、どうやら高速で移動しているためらしい。いったい何者なのだろうか?
 だが、その詮索はあとまわしだ。
 昨夜は、何とか自室に帰りついたものの、とても眠れる精神状態ではなかった。
それでも、部屋の結界を強化し、ヨガの呼吸法で気を鎮めることで眠りにつくことができたのだった。
 その朝、雪はもう止んでいた。空には明暗がまだら状になった灰色の雲が重く垂れこめていた。
 彼女は、まず冷水と熱湯のシャワーを交互に浴びて身を清めた。
 そして部屋の中央に寝転ぶと精神統一を開始した。結跏趺坐などの形にはこだわらないのが彼女のやりかただった。
 真理子はおよそ十時間にもおよぶ深い瞑想に入った。自分の取りえる選択を検討し、そのそれぞれの未来を予知するためである。
 瞑想から復帰したときにはもうすっかり日が暮れていた。予知された未来はどれも暗澹たるものだった。経済的には繁栄しているかに見えても、精神面ではクトゥルーの奴隷状態、どの道を選んでも行き着く先はそうなるのだった。
 彼女は簡素だが効果的な食事を済ますと、ふたたび精神統一に入った。今度は予知ではなくある呼びかけが目的だった。
 昨日と今日の朝方、彼女へ向けて「戦士が転生した」という思念を届けた何者かが存在する。その相手を探し出す必要があった。未知の存在と接触すること、それだけが未来を変えうる唯一の可能性だった。
「戦士よ……私を呼ぶ者よ……応えよ」
 彼女は空へと呼びかけていた。宇宙まで到達させるつもりだった。
 あの未知の声は宇宙から届いたものというのが彼女の考えだった。朝方のほんの一時のみ思念を伝え、急速に遠ざかってしまうということは、それは衛星軌道を周回しているのではないかと推測したのである。
「戦士よ……」何度目かにそう呼びかけたとき、ついに反応があった。


――やあ。やっと、話ができるね。
 と、はっきりとした思念が真理子の精神へと語りかけてきた。
「誰だ、お前は誰だ?」
――ぼくはネクロノミコンさ。
「何だと……、それは本の名ではないか」
――そっ、まあ本の精霊といったところかな。あるいは擬人化した魔道書。もっとも人の姿をしてるわけじゃないから人格化というべきかな。とにかく進化した魔道書ってことですよ。
「人間ではないのか?」
――うん、そう、魔術的で能動的な情報のホログラム化と思ってもらってもいい。
「さっぱりわからん」
――じゃっ、とりあえず外見のイメージを送ろうかな。
 すぐに真理子の脳内に一つの印象が伝わった。それは宇宙空間を漂う金属片と小型の隕石の集合体のようなものだった。
「何だこれは。ゴミにしか見えんぞ」
――ゴミとは心外な。これでも一応、人工衛星なんですから。
「人工衛星だと……、魔道書が進化して人工衛星になったというわけか」
――そそっ、ご理解いただけたようで。
「しかし、どうしてそんなことができたのだ?」
――ええ、ではそもそもの由来からお話します。ぼくは元はと言えばミスカトニック大学の図書館に所蔵されていた一冊の『ネクロノミコン』だったのです。それが、いつのころからか、自分の中に意識のようなものが生まれたのです。と言っても最初の頃はぼんやりしたもので、はっきりとした思考があったわけではないのですが。
「うむ、霊は万物に宿っている。書物の霊なら、時に高次の存在になりえる」
――ええ。それで少しづつ周囲の書物の中身を読みとったりしながら、ぼくもだんだんと成長していきました。周囲の書物っていうのは『エイボンの書』や『無名祭祀書』なんかですね。さらに大いなる一歩を踏み出すきっかけになった決定的な出来事は、わがミスカトニック大にコンピューターが導入されたことですね。まあ、その頃のぼくにも猫ぐらいの好奇心はありましたから、それへ侵入してみたわけなんです。
「ちょっと待て、それはいつの話だ」
――ええ、グレゴリオ暦でいいますと1960年代の終りごろでしたね。コンピューターといってもその頃のものですから、真空管と磁気テープの化け物ですよ。
「それじゃあ、容量が足らんだろ」
――ああいや、これはそういう電子工学的な話じゃないんですよ、ネクロノノミコさん。ぼくに必要だったのはコンピューターというものの構造と可能性だけでね、それさえわかれば、あとは道端の石ころの中にでも、もっと性能のいいものを霊的に再構成する能力がぼくにはあった。そしてそう、もちろんじっさいに試したんだ。大学構内の石ころを媒体にして、コンピューターの構造と『ネクロノミコン』やその他の魔道書のデータを再現したんですから、これぞまさしく錬金術師の夢、《賢者の石》ってとこです。
「ふむ、それで」
――それでですね、その頃は電子工学よりも、人間たちが関心を持っていたのは宇宙旅行でしょう。スプートニクとかアポロとか。だからぼくもただ道端に転がっていても仕方がない宇宙へ出ようと、そう決意したわけなんです。べつにむずかしいことでもありません。再度、霊的な投射を行なえばよかったんですから。そこでぼくは多段式ロケットの破片、いわゆるスペース・デブリね、それを見つけて乗り移ったわけです。そこでまた見聞を広めて、とくにアルベマスから語りかけてきた霊的存在からはいろいろ教わりましたね。
「アルベマスって何だ?」
――みなみのうお座の星です。で、その後も《星の精》たちから異星の様子を聞かせてもらったり、ひとりで思索を深めたりしながら地球の周りをぐるぐるまわっていたわけです。もちろん地上の出来事も観察していました。そんなこんなで長い時が経った頃、ぼくの片割れがどうやら困っているのを見つけた。それで、きみに話しかけた、とそんな次第です。
「片割れとはどういうことだ?」
――やだなあ、これは感動的な再会なんですよ。キリスト紀元八世紀、アラブの砂漠でアブドゥル・アルハザードの手によって記された『キタブ・アル=アジフ』、これがぼくたちの原型だ。ぼくはアラブからヨーロッパ各地を巡り、翻訳をくりかえされながら『ネクロノミコン』となってアメリカに渡った。その一方アラブからインド、中国とを経由するうちに書物の形を失い、口伝えの《根黒野秘法》として日本へ渡り、それを受け継いだのがきみだ。今、千三百年の時を越えて西回りと東回り、それぞれ地球を半周したふたつの《アル=アジフ》が今ここで出会ったんじゃないか。
「ふむ、で、お前が《戦士》なのか?」
――そう、戦士。きみの思考を読み取ってぼくは気づいたんだ。そもそも、ただの書物だったぼくが霊的存在として自我を持つことになったのは、戦士の魂がぼくの内部に転生したからだって。これは地球を覆う巨大な霊的システムが君を、というか人類を、助けるべく仕組んだことなんだよ。まあそれを運命といってもいいけど。それで名も知れぬ古代の戦士がぼくの中に転生した。きっとキンメリアのコナンみたいな奴だろうね。だから、戦うための情報ならぼくは持ってる。でもね地上で動くための身体が……。
「どうすればいい?」
――ええ、その、つまり、きみと融合したい。
「融合だと!?」
――そう、そうすればきみの仕事もずいぶんと捗るだろうし、ぼくもねえ、衛星軌道を周回しつづけるのにもいいかげん飽きてきてね。一日の長い仕事を終えて猫にえさをやる、そんな生活をしたいなんて思っていたところなんだ。ま、薔薇十字団ふうに言えば《化学の結婚》ってやつでしょうか。
「結婚か、それもいいだろう」
 真理子は答えた。彼女に迷いはなかった。彼女もまたこれは運命の導きなのだと直感していた。
――じゃっ、そういうことで。
 すると、その直後、真理子の内部に大量の情報が流れ込んできた。
 知識が猛烈な勢いで倍増した。そればかりかそれは世界の様相そのものを変えた。それまで二次元として認識していたものが、三次元として立ち現われてくる。そんな変化だった。
 彼女の精神は刹那のうちに、未知なるカダスへ、神秘のレン高原へ、輝けるハリ湖へ、禁断のカルコサへと旅していた。
 やがて彼女の肉体は分解された。そして霊的に再構築された。
 真理子は、《霊的進化》の階梯を上昇し、魔術的サイボーグとして生まれ変わったのだった。


――調子はどう?
 そう聞かれ、宇宙的驚異の流入に我を忘れていた黒坂真理子は答えた。
「ああ、大丈夫だ。いや、とてもいい」
 そこは相変わらずのマンションの一室。真理子の身体は普通の人間の外形に戻っていた。
 人工衛星は軌道上にあったが、それは今や彼女の第三の目のような新しい器官として存在していた。人格はそれぞれもとのままで、対話もできた。
――じゃあ、ニャルラトテップの野郎をとっちめに行こうか。
「ああ」
 彼女は床の間にあった剣を手に取った。それは真理子が先祖より受け継いだ刀で、湾曲のない直刀、つまり上古の時代に作られたものだった。魔を断つ剣《カラスキ》と呼ばれていた。
 鞘をベルトに取り付けると、彼女の身体は身に付けたものとともに分解された。一瞬後、彼女は宇宙空間を飛翔していた。
 球状の地平の向うに月と太陽がならんで見えた。
 日本は夜の闇につつまれながら、そこには人工の灯が無数の宝石をちりばめたように輝いていた。その一つ一つに人間の生の営みがあるのだ。
 人工衛星が軌道を変えた。
 上空から彼女はマジック・ランタン・ネットワーク社の黒いピラミッドを透視した。最上階の《無有研究室》の内部が見える。
 無有雷蔵が外川を呼んでいた。
「外川。計画の進行状況はどうだ?」
「はっ、すべて順調です」
「ん?」無有が不意に顔を上げた。「何だこの気配は!?」
「は?」
「何かが近づいてくる……。これは……ツアールとロイガーを滅ぼした《光の使者》か、いや、違う。まさかハスターが……いや、……あの女……何をした!」
 真理子はピラミッドの直上に静止すると、稲妻形の電光となって落下し、研究室の中で一気に実体化した。
「お、お前は……」無有雷蔵が声を上げた。
「シャーッ」と、外川が気味の悪い歯擦音を発して跳びかかってきた。
「キエイッ!」真理子の気合とともに魔剣《カラスキ》が一閃した。
 外川の顔は、霧の仮面が晴れるように朧にかすみ、蛇人間の本性があらわになった。蛇人間は頭を胴から分断され、赤黒い血をまき散らしながら絶命した。
「お、おのれ、魔女め……剣で私が倒せると思うのか!」無有雷蔵の相貌が闇に包まれていく。
「さあ、どうかな」
 真理子は《カラスキ》を大上段に構えながらじわじわと間合いを詰めた。
 そして彼女の口からは呪文が流れでた。
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐぁ ほまるはうと うがあ=ぐああ なふる たぐん! いあ! くとぅぐぁ!
「や、やめろ、その呪文は……!」《暗黒の男》はうろたえ後退った。
 真理子は呪文をくりかえした。
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐぁ ほまるはうと うがあ=ぐああ なふる たぐん! いあ! くとぅぐぁ!
男は、ふと何かに気づき顔に嘲笑を浮かべた。
「フハハッ、無駄だ、無駄だ、星の配置が違うのだからな!」
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐぁ ほまるはうと うがあ=ぐああ なふる たぐん! いあ! くとぅぐぁ!
三度目の詠唱のあと、彼女は言った。
「星の配置などというのは地上の論理にすぎん。今頃わが分身、衛星《ネクロノミコン》は、みなみのひとつ星アルベマスと交信しているのだからな」
「それが……」
「知らなければ教えてやろう。アルベマスとはフォマルハウトの別名だ」
「な、何!」
「ふっ、呪文は唱え終わったぞ。きさまの命運も尽きたな。ナイアルラトホテップ!」
「ええ・や・や・や!」
 《這い寄る混沌》は奇声を発しながら人間の姿を失うと、触腕状の付属器官を真理子の方へ伸ばしてきた。
 だがそれが真理子の身体に触れることはなかった。
 琥珀色の光が室内に満ちるとともに《闇に吼えるもの》の体が燃え上がった。
 クトゥグァの炎の精が襲来したのだ。
「いぐないい! いぐないい!」
 叫びながらのたうちまわるナイアルラトホテップの体は、たちまち灰と化すまでに燃え尽きた。
 真理子は同じ炎によって人脳コンピュータ《トラペゾヘドロン》も焼き尽くした。
 内部に人間の脳が組み込まれているとは言え、すでに機械と一体化し人格も失われている以上、他に方法はなかった。真理子は首狩族事件の被害者たちのために冥福を祈った。


 黒坂真理子は宇宙空間で衛星《ネクロノミコン》と合流した。
「ナイアルラトホテップはあれで死んだのか?」
――いや、霊体になって逃げて行ったよ。今ごろユゴス星あたりじゃないかな。人脳コンピューターのテクノロジーはあそこのものだったからね。
「そうか。それはいいが、精神寄生体のほうはどうする?」
――あれは要するにウイルスみたいなものだからねえ。ぼくがワクチンを組み立てて流せば何とかなるんじゃないかな。
 さっそく翌日には、精神に作用するワクチンが製造された。
 《ネクロノミコン》は、まず呪われた宇宙の動画を無害なものに書き換え、そしてマジック・ランタン・ネットワーク社が所有するレーベルからデビューしていたアイドル・グループの楽曲にワクチンを組み込んだ。この曲のプロモーション・ビデオは動画サイト〈マジック・ランタン〉にアクセスすると自動的に再生され、その上テレビCMや有線放送などでも頻繁にかかっていた。それを数秒耳にするだけでワクチンは効果を上げた。精神寄生体は、冒されたものの数が一定数より減少すれば、無意識の同調作用が失われあとは自然と消えていった。


「どうやらうまくいったな」マンションのベランダから、よく晴れた空を見上げて真理子は言った。
――そりゃそうさ。ぼくらはいいコンビだ。
 と、《ネクロノミコン》が語りかけた。
 陽射しが、屋根の上に残った雪に反射して、空気が輝いているようだった。
 彼女の予知能力に、危機の気配は感じられなかった。
「しばらくはゆっくり休めそうだな」
――それはそうと、きみ猫を飼ってくれないかな?
「うちはマンションだからだめだ」
――そこを何とか、こう……。
「だめ」
 そう真理子が言った時、部屋の中から一匹の黒猫が尻尾をふりながらあらわれ、彼女の足を舐めたのだった。


  クトゥルー神話に基づく連作短編集『根黒野ノ巫女』第六話