2012年12月26日水曜日

神話症候群


1.

 私は約束どおりの時間に依頼人の家を訪れた。
 だが、家の主には先客があって、私は応接間で待たされることになった。
 応対したのは白衣を着た若い女の看護師だった。
 依頼人の名は奥津深一、何か病気らしいとは聞いていた。
「本当は入院が必要なぐらいなんですけど、あの人、どうしても家を離れたくないとおっしゃって……」と白衣の女は説明した。
 なるほど、この家なら離れたくないと言うのもうなずける。世田谷区成城の庭付き一戸建て、趣味良くまとまったインテリアを眺めてそう思った。
 依頼人は中古車のブローカーということだったが、部屋の中には仕事に関連したものは見当たらなかった。
 壁には大きな絵が飾られていた。ダリかエルンストの亜流のようなシュルレアリスムの画風で、海底都市と思われる奇妙に歪んだ風景が青いトーンで描かれていた。
 しばらくすると、ドアが開いて大きな鞄を提げた医師らしい男が出てきた。
「どうぞ、奥津さんは起きられませんから」と、部屋に入るよう身振りで示した。
 私が立ち上がると、医師と看護師は会釈をして出て行った。


 奥津深一はベッドの上で上半身を起こして待っていた。
「すみませんね、こんな恰好で」と彼は言った。
 右の頬には大きなガーゼが貼られ、左の手首にも包帯が巻かれていた。
 その部屋にも壁に絵が飾られていた。応接間にあったものと同じ作者の手によるものらしいが、こちらは動物と植物が融合したような黒い怪物の絵だった。
「お待たせしてしまって、医者のやつが遅れたもので」奥津は言った。
 低く深みのある声だった。浅黒い皮膚の色で、黒目がちな眼に太い眉毛、艶のある黒い髪、年齢は五十代ぐらいにみえた。やや小太りで病身とはいえ、まだ働き盛りといった精悍さがあった。
 私はベッドの横に用意されていた椅子に腰掛けた。
「どうですか、体の具合は?」
「いや、悪いですな、悪くなる一方といった感じです」
「ご家族は?」
「ずっと独身で、家族はありません」
「そうでしたか……、お医者さんは何と言ってるんです?」
「医者も困ってます。こんな症状は初めてだと言ってね。原因不明の奇病らしい。始めは何となくだるい感じだったんです。そのうち内臓が悪くなりだして、今度は皮膚です。こうあちこち爛れてくるんですな。しかし、伝染性のものではないので御心配なく。そもそも私が思うには、これは病気ではないんです」
「というと?」
「呪いです」
「えっ、呪い……ですか?」
「そうです。では、探偵さん、そこの箱を取ってもらえますか」
 私はテーブルの上に置かれていた木箱を手に取った。持ち上げるとずっしり重い。
「中の物を出してください」
 蓋をあけると、そこに入っていたのは高さが40センチ位の彫像だった。材質は鮮やかなグリーンの石で、八角柱の台座の上に悪魔のようなものがしゃがみこんでいた。頭部は蛸を思わせる形状で触腕の部分が髭のように垂れ下がっている。背には翼手竜のような翼があり、長い尻尾が台座に巻き付けられていた。触腕や手足の先の鉤爪まで細かく彫刻されていた。
「これは……?」
「一年ほど前、ある骨董商からなかば無理矢理に買い取ったものです。私はこの歳まで女性に縁がないのですが、そのぶん絵や彫刻には愛着が湧くんですな。と言ってべつに美術や骨董にそう興味があるほうではないんだが、ある種の絵や彫刻には、運命的とでもいうような出会いを感じることがあるのです。そうなるともう、いくら金をつぎ込んででも手に入れたくなってしまうんです。この部屋の絵もそうです。その彫像も」
 奥津は彫像を手に取ると、指先でそっと撫でまわした。
「たまたま立ち寄った骨董品店でひと目見ただけで、もう欲しくて堪らなくなりました。ですが店主は、その彫像はすでに別の客に売約済みで、どうしても私には売れないと言うのです。私は何倍の金額でも出すといったのですが、先に契約をした人は長い付き合いの常連客でとても裏切れないということでした。しかし私もあきらめることができません。それで、私は昔この店で買った絵のことを思い出したのです。それはある有名な画家の作品ということでしたが、後で調べてみると贋作であることが判明したのです。その時は、絵と引き換えに金も返してもらったので穏便に済ませていましたが、私はその件を持ち出し、この店は贋作を売り捌いているという噂を流すと言って店主を脅しました。すると店主は目に見えて狼狽しはじめました。どうやらこの男、あの絵を偽物とわかっていながら別の人物に転売したらしいのです。そんなことが明るみに出ればもう商売をつづけることはできないでしょう。それで泣く泣く像は私に譲ってくれることになったのです。もちろん代金は払いました。私はこの像を部屋に飾れることが嬉しくてたまらなかった……」
 不意に言葉を途切れさせ、彫像をこちらへ手渡した。
「それからです。私の体が不調になったのは。一週間も経つともう仕事もつづけられなくなりました。夜には恐ろしい悪夢を見ます。私にはわかるのです、その彫像から何か呪いの念のようなものが放射されているのが」
 私は彫像をテーブルの上に静かに置いた。
「一条寺さん、お願いします。私を助けてください」
「助けると言っても、どうすれば……?」
「その彫像を元の持ち主に返して欲しいのです。最初は例の骨董商に取りに来させようと電話をかけたんだが、あの男、何のかんのと理由をつけて近寄ろうとしないのです」
「では、その骨董商へ持って行けばいいのですね」
「ええ、そして、その彫像をあの店に売ったのは誰なのか聞き出して欲しいのです。できれば、その人物に会って彫像の由来を尋ねてもらいたい。さらに前の持ち主がわかれば、その人物にも……、そうしてできる限り所有者を遡って、その彫像が、いつ、誰の手で作られたものなのか、それになぜ呪いが生じることになったのか、それを確かめて欲しいのです」
「わかりました。で、その骨董商というのは?」
「自由が丘にある千夜堂です。店主の名は添田仁郎」


 私は彫像を納めた木箱を助手席に乗せ、スカイラインGTを出発させた。
 成城から世田谷通りを北へ行って、環八を東へ。
 東急線自由が丘駅は世田谷区を抜けてわずかに目黒区に入ったところにあった。
 小綺麗なレストランやブティックの並んだ商店街も外れの方に骨董店千夜堂を見つけた。
 小さな店だ。壺やら仏像やらが床から棚の上まで積み重ねるように押し込められていた。
 薄暗い店の奥に店主はいた。猫背で痩せていて、白髪だが顔つきは若くも見える年齢不詳の男だった。日本人離れした鋭角の高い鼻の上に丸いレンズの眼鏡をのせていた。手にはボロ布をもって銀の燭台を磨いていた。
 私はレジスターをのせてデスク代わりになっているショーケースの上へ木箱を置いた。
「何だね。買い取りかい?」店主は言った。
「いえ、代金は要らないそうです。あなたが添田仁郎さん?」
「ああ、そうだが」
「これは奥津深一氏から、あなたに返すように頼まれたものです」
「え、奥津から……ま、まさかあの邪神像じゃ……」
「なるほど、邪神像というのですか、これは」
 私は木箱を開きパッキンに埋もれた彫像を見せた。
「や、やめてくれ」添田は何かを押し留めようとするかのように両手を前へ突き出した。
「なぜ恐れるんです。もともとこの店で売っていたものでしょう」
「いいから、その箱を閉じてくれ」
 私は箱を閉じた。
「な、何者なんだ、あんたは?」
「一条寺蓮、私立探偵です」
 添田はため息を吐くと、眼鏡を外してボロでレンズを拭きはじめた。
「あの時は知らなかったのだ、この像の恐ろしさを」
「では、今は知っているというわけですか?」
「あ、ああ」
「一体何なのです、この像は?」
 眼鏡をかけなおして添田は言った。「チュールーの神というやつでね」
「チュールー……?」
「ああ、高木彬光先生が「邪教の神」という小説の中で書いている。もっともあの小説の中では木彫りの像ということになってるんだが、そのモデルになったのがこれで。外国の小説ではクリュリューとか何かそんな名で呼ばれているらしいが。ともかく、この邪神の像を手にした者は恐ろしい呪いによって皆つぎつぎに死んでいるんだ」
「あなたは生きてるじゃないですか」
「ここには短期間置いていただけだし、第一、売り物として持っているのと、欲しいという欲望があって持っているのではわけが違うんだろう」
「じっさい死んだのは何人ぐらいですか?」
「さあ、詳しいことは……。そもそも骨董なんかを趣味にするのは老人が多いので、所有者がじきに死んだとしても、べつに珍しいことでもないし……」
「何だ。じゃあやっぱり呪いなんて迷信なんですね」
「いや、そうは言っても、奥津の病気はどうなるんだね。医者も原因がわからないそうじゃないか」
「ううむ、それはそうだが、しかし呪いの所為と決めてかかることもできないでしょう」
「まあ、呪いに関しては私も半信半疑といったところだが、恐ろしいことは他にもある」
「何ですか?」
「これはあくまで噂だがね、この件の背後にはある宗教団体が絡んでいるという説があって、この像の所有者の中にはナイフでメッタ刺しにされて殺された人もいるとか、いないとか……まあ、そんなわけでここには置きたくないんでね。持って帰ってくれ」
「ふむ、仕方がないな。じゃあ、代わりに教えてください。この店にこの彫像を持ち込んだのは誰なんですか?」
「誰と言われてもねえ、名前は知らないよ。何しろ浮浪者のようなやつで、それ一つを新聞紙に包んで持ってきて金に換えてくれと言うんだ。ああいうのはゴミ捨て場から拾ってくるんだろうね。それでも時には、こういう意外な掘り出し物もあるんで相手をしてやっているんだが。その男ははじめて見る顔だったな。ひどい顔色で、今にも倒れそうな様子だったのを憶えてるが……」
「そうですか。それからもうひとつ。この像を奥津氏に売るときに、先に売る約束をしていた人がいたそうですね、それは誰ですか?」
「寺岡さんて人ですよ。この像の正体もその人に聞いたんだがね」
「今でも欲しがってるんですかね、この像」
「さあねえ、そいつを奥津に売ってしまってから、私は寺岡さんに謝りに行ったんだが、あの人は笑って許してくれましたよ。おかげで死なずに済んだと言ってね。やっぱりあの人も呪いを恐れてたんだ。それでも欲しいという気持ちもある。コレクターだからねえ」
「コレクターというと?」
「寺岡さんは、これぐらいの小型の偶像のコレクターなんですよ。彫像でも、粘土像でも何でもね」


 私は車に戻り、依頼人に電話をかけた。添田の話の内容を伝えると、彫像はそのコレクターだという男に譲ってもいいとのことだった。
 添田から聞いた寺岡の住所は柿の木坂という所だった。東横線の都立大学駅近くというから自由が丘からはすぐ隣だった。その辺りもけっこうな高級住宅街である。
 寺岡の家を見つけた。ドアには〈オリオン警備保障〉と記されたステッカーが貼られ、建物の周囲には防犯カメラが設置されているのが見えた。
 私はインターフォンを押した。添田のところから電話で来訪の意図は伝えてある。
 ドアが開き姿を見せたのは、太った大きな体をした丸顔の男だった。歳は四十ぐらいだろうか。ニコニコと嬉しそうな表情を浮かべていた。
「どうぞ、お待ちしておりました」
 私は応接間へと案内された。その部屋には寺岡のコレクションである偶像の数々が展示されていた。すべて20から40センチほどの大きさで、キリスト教関連の天使や聖者、日本の土偶、エジプトの猫や鳥の頭をした神像、アフリカや南米産と思われるものなど、ほとんどは人物像だが、中には動物や鳥あるいは怪物を象った像もあった。素材も木、金属、粘土や陶器と様々だ。それらがマントルピースの上やガラスケースの中にぎっしりと並べられ、部屋の壁沿いに四方を取り囲んでいた。
「コレクターとは聞いていましたが、すごい数ですね」
「いえいえ、ここにあるものは蒐集品のごく一部に過ぎません。まあどうぞ」
 椅子を勧められ、私は腰をおろした。
「一応、これを」と寺岡は名刺を差し出した。
 そこには〈寺岡久遠〉と記されていた。肩書きには〈輸入品販売業〉とある。
 私も自分の名刺を相手に渡した。
「私は一年の大半は海外を旅しているものでして。おもに家具や雑貨の買い付けが目的ですが、そのついでにこうした偶像を見かける度に買い集めているのです。いや、今日は日本にいて本当に運がよかった。あの邪神像が転がり込んでくるとは」
「では、どうぞ」私は抱えていた木箱を手渡した。 
 寺岡は目を輝かせながら箱を開くと、パッキンが飛び散るのもかまわず彫像をつかみ出した。
「これは、確かにあの時の像だ」
 まるで像に魅入られたようにじっと見つめていた。
「あなたは呪いを恐れていたのではないのですか?」私は尋ねた。
 ふと我に返ったように寺岡は彫像をテーブルへ置いた。
「そう、呪いが恐ろしいのも確かです。あなたから電話をいたただいた時は断るべきだという気持ちもありました。だが、こうして現物を見てしまうと、もう、これはとても手放す気にはなれません」
「この像の由来について何かご存知ですか」
「ええ、もとは南太平洋のポナペ島だとかで信仰されていたもので、この像のような邪神が海の底で眠りながら復活の時を待っていると信じられているそうです。そして今ではその信仰は秘密結社のように世界中に広まっていて、時には人身御供のようなことも行なわれているとか。そんなことから呪いという噂も生まれたのかもしれません。いや、たんなる噂なのか、本当の呪いなのか私にはわかりませんが」
「そうですか」
「気になるなら、まだ資料がありますが」
「資料というと?」
「いろいろと調査するうちに知り合いになった大学教授がいましてね。その人は病気で亡くなったんだが、大学に保管されていた資料を私が譲り受けたのです。内容がオカルトじみているんで大学側じゃ早く処分したかったのでしょう。論文の草稿と新聞記事の切り抜き、それに精神病院で自殺した患者の遺書などをファイルしたものです」
「見せてもらえますか」
「ええ、見せるのはいいんですが、ろくに読みもせずどこかに放り込んでしまって探さないと……、仕事もあるので今すぐというわけには……」
「お時間のある時でいいのですが」
「明日までには見つけられると思います」
「お手数をおかけします」
「いやいや、この像をゆずっていただいたのですから、まだまだ感謝したりません。奥津さんにもいずれお礼にうかがうとお伝えください」


 寺岡の家を出ると、空は夕焼けに染まっていた。風が冷たくなってきた。
 先週までは夏日がつづいていたが10月に入って気温が不安定になってきた。
 私は直接報告するために成城の奥津の家へと戻った。
 この数時間のうちにも病は着実に進行しているようだった。奥津深一の顔には左の頬から首にかけて痣のようなものが浮かんでいるのが見えた。
 私は彫像は寺岡久遠が受け取ったこと。それにあの像に関連した資料が寺岡のところにあるらしいことなどを伝えた。奥津は明日以降も像についての調査をつづけて欲しいと言った。
 奥津のもとを辞去してから、しばらく適当に車を走らせ小さな洋食屋を見つけた。食事を終えて店を出ると、もうすっかり日が暮れていた。
 車に戻ると、携帯電話が鳴り出した。
 相手は寺岡久遠だった。だいぶ慌てているような話し方だった。
「い、一条寺さん、すまないが、うちへ来てもらえないでしょうか?」
「どうかしましたか?」
「それが……、さっきから防犯カメラに奇妙な人影が……」
「どういうことです?」
「あ、あの彫像が、奴らを呼び寄せてしまったのかもしれない」
「彫像が……?」
「と、とにかく、早く来……あっ、あれは!?」
「どうしました?」
「……東京ダゴン教会……まさか、実在していたとは……」
「えっ、何です?」
「あぁっ、窓に! 窓に!」電話には雑音しか入らなくなった。
 私はスカイラインGTのエンジンを始動させた。


2.

 制限速度を無視して寺岡久遠の家へ急行した。
 玄関は無視して裏へ廻った。
 庭に面したリビングの窓が割られ、ガラスが床に飛び散っていた。
 私は靴のまま部屋の中に入った。
 リビングにも無数の偶像が置かれていて、侵入者へ無言の視線を向けていた。
 壁に取り付けられた小さなスピーカーからは「防犯装置ガ作動シマシタ、せきゅりてぃせんたーヘ通報シマス」という自動音声が流れつづけていた。
 隣室に通じるドアが開いていた。何かが動き回っている気配があった。
 ドアの影から様子をうかがうと、見えたのはプロレスラーのような大男の背中だった。黒いレインコートを着て、頭までフードに被われていた。
 そこは書斎らしく大きな本棚に囲われた部屋だった。棚の中には書物も多かったが、それ以上にたくさんの偶像が並べられていた。
 大男が手を振り上げた。波型の刃のついたナイフが握られていた。
 机の上には寺岡の太った身体が横たえられていた。その胸へナイフが振り下ろされようとしていた。
「やめろ!」私は腕をつかんで止めようとした。
 だが、大男の怪力は留めようもなく、その腕は振り下ろされた。
 寺岡はすでに絶命していた。何度も刺された後で胸は血まみれだった。
 大男は造作なく腕をひと振りしただけで、私を跳ね飛ばした。
 私の背中は壁に激しく打ちけられた。息が詰まってその場に座り込んだ。
 さらに大男は何度かナイフを振り下ろすと、死体の傷口に手を突っ込んで何かを取り出そうとしていた。それは奇妙な手だった。手の甲には緑色の鱗のようなものが見えた。指の間には水かきのような鰭がついていた。そんな手袋があるのだろうか?
 奇怪な手はついに寺岡の体から心臓を取り出していた。動脈から滴る血を口で受けようと、大男は上を向いた。レインコートのフードがずり落ちて頭部があらわになった。
 それは半魚人の顔だった。はじめはパーティー用のマスクかと思った。だがそれにしては鱗が首まで密着している。映画のための特殊メイクだろうか?
 半魚人は牙をつきたてて心臓を食いちぎりはじめた。それはどう見ても本物のモンスターだった。
 心臓を食い終えると巨体の半魚人は、足元にあったポリタンクを取り上げ、中の液体を机の周囲に撒き散らした。灯油の匂いがした。
 床にはもとは机の上にあったらしい書類やファイルなどが散らばっていた。あの邪神像もそこに転がっているのが見えた。
 半魚人は書類を一枚手に取るとライターで火をつけ、床に放った。そして邪神像を拾い上げると、素早く部屋を出て行った。
 あっという間に火は燃え広がった。
 立ち上がろうとすると背中がひどく痛んだ。それでも何とか這うようにして私は部屋を出た。寺岡の言っていた資料を探す余裕はとてもなかった。もう書斎全体に火が回っていた。
 私はやっとの思いで車に乗り込んだ。そこへ警備会社のマークをつけたピックアップ・トラックがやってきた。トヨタのツンドラとかいうバカでかい車種だ。SWAT隊員のような制服のガードマンたちが四つのドアからそれぞれ飛び出して、寺岡邸の敷地へ駆け込んでいった。
 警察や消防への通報は彼らに任せることにしよう。私には警官相手に自分の見たものを上手く説明できる自信がなかった。私は静かに車を出し、その場を離れた。


 仕事場であり寝所でもある雑居ビルの一室にたどり着いてから、依頼人の安全を確かめる必要があることに気づいた。深夜だったが電話をかけると奥津深一はすぐに出た。
「一条寺さんですか、こちらからもかけようと思っていたところでした」
「何かあったのですか?」
「あの像が、戻ってきました」
「戻ってきたって、どういうことです?」
「私は眠っていたのですが、ガラスの割れる音で目が醒めました。見ると寝室の窓が割られ、そこにあの像が投げ込まれていたのです」
「あの邪神像がですか?」
「ええ」
「いったい誰が?」
「姿は見えませんでした。ベッドから出るのに時間がかかったものですから」
「奥津さんは無事なんですね?」
「ええ、無事は無事ですよ。病気は相変わらずですが」
 私は寺岡が殺されたことだけを伝え、一応気をつけるようにと言って電話を切った。
 あの邪神像は、寺岡の家から半魚人が持ち出すのを私は目撃した。その像が奥津のもとへ投げ込まれたということは、それを運んだのは半魚人ということだろう。あるいは共犯者がいるかもしれないが。奥津も殺す気ならばその時点で襲っていたはずで、とりあえず今夜は危険はないと推測はできる。だが像を投げ込んだ理由は何なのか。呪いのため? だとすれば寺岡は刺殺しておきながら奥津には呪いをかける理由は何だろう。わからない……。いつの間にか私は眠りについていた。


 翌朝、寺岡の殺害を伝えるニュースを見て驚いたらしく添田仁郎が電話をかけてきた。事情を知りたいと言うので、あとで店を訪ねる約束をした。
 簡単な朝食を腹に詰め込み、ガレージからスカイラインを出した。
 まだ立ち上がると背筋が痛んだ。だが昨夜と比べればだいぶ良くなっていた。骨までは異常はなかったのだろう。今日もいい天気だ。暑いのか寒いのか気温がよくわからない。
 私は成城へ向けて車を走らせた。
 奥津深一の顔には、目と鼻の間を区切るように包帯が巻かれていた。両手も包帯で包み込まれていた。
「やはり、この像に呪われているのは確かなようだ。昨日、あなたに像を持っていってもらってから、じょじょにではあるが快方に向かっているという気がしたのだ。だが昨夜、この像が戻ってからというもの、ぐんと体が重くなった感じがするのです。いっそ捨ててしまえばいいのかもしれないが、それではかえってひどいことになりそうな気もする。医者は頼りにならないし、霊能者のたぐいも私は信じていない。だから一条寺さん、この呪いを解くためには像を返すべき相手をあなたにつきとめてもらう以外にないのです」
 私は邪神像を受け取ってその家を出た。
 箱はなくなってしまったので、バスタオルでぐるぐるまきにしてトランクに入れた。
 昨日と同じルートで自由が丘へ向かった。
 千夜堂の店主、添田仁郎は店の奥で新聞を片手にテレビを見ていた。ちょうどワイドショーで寺岡久遠殺害事件について解説しているところだった。死体から心臓が抉り取られていたという猟奇性によって扱いが大きくなっているようだ。
 話題が変わると、添田はリモコンを手にして他のチャンネルをチェックしたが、事件について情報を流している局はもうなかった。
「新聞には載ってねえんだよな」新聞を畳みながら添田は言った。
「事件は深夜でしたからね、朝刊には間に合わなかったのでしょう」 
「まさかあの人が殺されてしまうなんてなあ……。やっぱり、あの邪神像のせいなのかねえ?」
「ええ、どうやらそのようですよ」
「あんた、何か知ってるのかい?」
「じつは昨夜、事件の直前に寺岡さんから電話があって、すぐに駆けつけたんですが、着いた時にはもう殺された後でした」
「じゃあ、犯人は……?」
「見ましたよ」
「警察には知らせたんだろうね」
「いや、それがねえ、警察が扱える相手じゃないんだ」
「何言ってるんだ。殺人事件なんだよ」
「そりゃわかってるが……、ところでねえ、添田さん。寺岡さんから何か聞いてませんか。その……半魚人のようなものについて」
「はぁ、半魚人。そんな話、聞いたことはないが。まさかそいつが犯人だって言う気じゃあなかろうね?」
 私は黙って添田の目を見、こくりとうなずいた。
「ばか言っちゃ困るよ。変装だったんだろう?」
「いや、確かに本物でした。心臓をむしゃむしゃやるところを間近で見たんだから」
「そんな、いくらなんでも……」
 私は自分の見たものを一通り添田に話した。「まあ、信じられないのも無理はないですが……。昨日、添田さんはあの邪神像は宗教団体と関係があると言ってましたね」
「ああ言ったよ」
「その団体の名前は?」
「何だったかな。それも寺岡さんから聞いたんだが……。忘れてしまったな。確か『旧約聖書』と関係があるとか……」
「東京ダゴン教会では?」
「そうそれだ、思い出した。ダゴンっていうのはペリシテ人の魚の神なんだとか」
「魚の神……ですか」
「だからって、半魚人が出てきたって言うのかい」
「さあ、その関連はわかりませんが。教会の名は昨夜の電話で寺岡さんが口走っていたのです。教会の所在地などについて何か聞いてませんか?」
「いやあ、具体的なことは何も……」
「ここにパソコンはありますか?」
「ああ、あるよ」
「宗教団体ならウェブに情報があるかもしれない」
「じゃあ、ググってみるかね」
「ええ」
 添田はノートパソコンを待ち出して、検索サイトを開いた。
「まず〈東京ダゴン教会〉で」
 キーワードを打ち込んで検索ボタンをクリックした。
 結果の一覧には、東京にあるキリスト教系の教会の情報と、映画や小説に登場したダゴンという怪物の解説ばかりが並んでいた。
「東京ダゴン教会ていうのは無いみたいだな」
「じゃあ〈ダゴン教〉だけにしてやってみましょう」
 今度は〈ダゴン教団〉や〈ダゴン秘密教団〉について書かれたサイトが数多くあった。だが、それらはすべて小説に登場する団体を扱ったものだった。
「ううん、何か他に手掛りは……、そうだ、じゃあ〈半魚人〉と〈目撃〉で。あんな化け物がうろついてるなら、どこか他でも目撃されてる筈ですよ」
 検索結果には世界のUMA目撃情報や怪奇映画についての記事が並んでいた。それらを順に見ていくと、あるブログの文章が目を引いた。
 そのページを開いてみた。それは千葉県在住の人物が地元で撮った風景写真を紹介しているブログだった。
 レンガ造りの建物の写真が貼られていて、下につぎのような文章が付いていた。
この建物は、以前は私設の水族館で入場料を払えば見学することができましたが、三年ほど前オーナーが代ってからは閉鎖されてしまいました。
レンガ造りで窓ガラスが全部、丸い形をしているところが洒落た感じです。
あと、この建物には半魚人のような怪物が出入りしているのが目撃されたという噂があります。じつはダゴン秘密教団の千葉支部なのかも……。
  地図情報のリンクもついていて正確な場所がわかるようになっていた。
「これかねえ、千葉だって書いてあるが」
「手掛りには違いない。少し遠いですが行って調べてみようと思います」
 他の検索結果には手掛りになるような記載はなかった。
「しかし、大丈夫かね。半魚人か何かは知らんが、人殺しでもやる奴らだろう。深入りしないほうがいいんじゃないかね」
「こっちは仕事なんでね。危険だからといってやめるわけにもいかない」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待ってな」
 添田は背後の戸棚の下のほうから何かを取り出した。
 それは三角形をした油紙の包みだった。ガラスのショーケースの上に置くと、ゴトリと重そうな音がした。
「開けてみな」
 私は手に取って包みを開いた。入っていたのは拳銃だった。
「へへっ、骨董屋にはこういうボーナスがあるんだよ」
 それは旧陸軍の制式拳銃、南部十四年式だった。
「なるほど、確かに骨董品だな」
「弾丸は四発入ってるが、発砲できるって保証は無い。まあ、いざという時、脅しに使うぐらいにしてくれよ」
 私は礼を言ってその銃をジャケットの内ポケットに収めた。


 水族館のある住所は千葉県井波市といった。聞いたことのない地名だ。イハと読むらしい。房総半島の外房側にある小さな漁港の町だった。
 問題の建物は曲がりくねった県道沿いの防砂林が途切れてそこだけ空き地になった所にあった。
 車を降りると潮の香りがした。耳をすませば潮騒まで聞こえてきそうだった。
 レンガ造りのその建物は写真で見たとおり、丸いガラス窓がいくつもついていた。配置が不規則なので二階建てか三階建てかよくわからなかった。
 正面に小さく頑丈そうな黒い木のドアがあった。近づいてみるとそこには金属製のプレートが掲げられていた。人魚の身体を組み合わせた字体のアルファベットが並んでいた。解読してみるとそれは“Tokyo Dagon Church”と書かれていた。つまりここが東京ダゴン教会だったのだ。
 ドアには呼び鈴の類は見当たらなかった。ノックをしてみる。しばらく待っても返事はなかった。ノブを捻ってみたが、鍵がかけられているようだった。
 裏へと回ってみると、そこには水の循環用らしい水槽やポンプなどがあり、その奥はスクラップ置場のようになっていた。
 敷地を区切るようにタイヤのないライトバンやボンネットのない乗用車が周囲に配置され、その中はテレビや洗濯機、プラスチックの看板や道路標識まで、ありとあらゆる廃材が山を成していた。割れた鏡が地面に散らばり、緑色の廃液が水溜りに流れ込んでいた。
 中央には一艘の船が台座に載せられていた。全長が10メートルほどもあるクルーザーだった。機関部のハッチが開けられエンジンが分解されていた。その様子はまるで廃品の再利用で船を別の何かに作り変えようとしているようだった。
 船に近づいていったところ、船体の影から人の姿が見えた。黒いレインコートを着た巨体、それはまぎれもなくあの半魚人だった。
 半魚人はこちらに気づくと、シューと威嚇するように息を吐き出しながら、のっそりと近づいてきた。
 私はジャケットの下から十四年式を取り出し銃口を向けた。「それ以上近づかないでもらおうか」
 だが、怪物は動きを止めなかった。私は足元を狙って引き金を引いた。
 銃声が響き、弾丸が土を跳ね飛ばした。
 半魚人はかえって怒り狂ったように突進してきた。
 右手の一振りで拳銃ははじき飛ばされた。南部十四年式はスクラップの山にまぎれ込んでしまった。
 左手が顔を狙ってきた。私は体を屈めて何とかかわした。
 すると背中をつかまれ、膝蹴りを胸に食らった。
 私は地面に倒れた。半魚人は腹を蹴ってきた。腕でガードすると、今度は足で私の顔を踏みつけた。
「うっ、ぐぐ」
 逃れようがなかった。すごい力だ。頭が割れそうだった。
 その時「シンゴ、シンゴ」と女の叫ぶ声が聞こえた。
 すると私を押さえつけていた足からすっと力が抜けた。
「シンゴ、部屋に戻っていなさい」
 女の声がそう言うと、半魚人は足早に建物の方へ去っていった。
 私は立ち上がった。声は上の方から聞こえた。そちらを見ると水族館の二階あたりの物干し台のようになったベランダから、女が手すりに手をついてこちらを見下ろしていた。長い髪と白いスカートが風に揺れていた。逆光になっていて顔はよく見えなかった。
「あなたは?」
「一条寺蓮、私立探偵です」
「そう、お入りになって」そう言って女は建物の中へ姿を消した。


 女が立っていた所の真下あたりに大きな鉄製のドアがあった。だが私は中へは入らず、いったん車を止めたところへ戻った。車体に寄りかかって息をついた。
 腹と頭が痛んだがひどい怪我はないようだった。
 トランクから邪神像を取り出し、水族館へ向かった。
 裏口の鉄のドアをくぐると、そこは倉庫のようになっていて正面にまたドアがあった。そのドアを開けると薄暗い通路があった。通路を進むと円形の広間へ出た。
 そこは二つの出入り口以外はすべてガラス張りの水槽になっていた。不気味な形態の深海魚や大きなクラゲなどが泳いでいるのが見えた。照明は水槽越しに淡く照らされていて、魚が通るたびに影が揺らめいた。中央に円形のテ-ブルと貝殻の形をした金属製の椅子が置かれていた。椅子の一つに女が腰掛けて待っていた。
 肩までかかる長い黒髪は光の加減のためか緑がかっていた。皮膚は青白く見えた。
 正統的な美人とは言えないが、不思議な魅力のある顔立ちだった。目は左右に離れすぎていて、鼻は小さく口は大きかった。首が異様に長く見えるのは、髪型と襟元の開いた服のデザインのせいだろうか。
「どうぞ、おかけになって」
 私は彫像をテーブルの上に置き、女の向かい側に座った。
「それで?」と女は尋ねた。
「東京ダゴン教会というものを探して来たんだが」
「それならここですわ」
「東京と名のついた教会が千葉にあるとはね。おかげで見つけるのに苦労した」
「成田空港もディズニーランドも東京とつくでしょう。だからここも東京なの」
「なるほど、そんな理屈か」
「それ」女は彫像に目を向けて言った。「わざわざ届けてくださったの?」
 私は像をテーブルの中央へ押しやった。
「あんたらの物だって言うなら返してもいい。その代わりいくつか質問に答えてもらいたい」
「ええ、なんなりとどうぞ」
「そうだな、まずあんたの名前だ、それからここの責任者は誰なのか」
「私の名は工藤瑠璃香です。責任者はそう、私と言っていいでしょう。ここで暮らしているのは私と、あのシンゴだけですけど」
「シンゴね、あの化け物はいったい何なんだ?」
「《深きもの》と呼ばれる存在です。私の体にも半分以上はその血が流れています。私たちは太古からつづく海神ダゴンに仕える一族なのです」
「太古からって……、あんたらは日本人じゃないってことか?」
「私たちの一族は地上の人間たちと混血し、ふだんは普通の人間として生活しています。日本でも他の外国でも。でも時に、あのシンゴのようにある年齢になると《深きもの》本来の特徴が体にあらわれる者もあって、そういう人は海へと帰り海底で暮らすことになります」
「シンゴってやつは、地上を出歩いてるじゃないか。人殺しまでやってる」
「ええ、私たちには守るべき秘密があるためです。寺岡久遠という人を殺さねばならなかったのも、彼が《大いなる秘密》に近づきすぎたためです」
「大いなる秘密……だと。何だそれは?」
「秘密を教えることはできません。それを知ればあなたも殺さなければならなくなります」
「殺人が許されると思っているのか?」
「私たちは一族を守らねばなりません。人間たちは私たちのような存在が地上にいることを知れば民族浄化の名のもとに虐殺をはじめるでしょう」
「虐殺だって、そんなこと……」
「現実にその様なことは起きています。アメリカのインスマスという町での事件を調べてもらえばわかるでしょう。それにあなただって、ピストルなど振り回していたではありませんか。ああいうものはこの国では違法ではなかったかしら」
「専守防衛。自衛する権利はある」
「それは私たちも同じことです」
「ふむ……、他にも聞きたいことがある」
「どうぞ」
「この像のことだ。昨夜、奥津さんのところへこの像を投げ込んだのはあんたらの仕業か?」
「そうです」
「なぜそんなことをするんだ。呪いが目的なのか?」
「呪いなどかけるつもりはありません」
「奥津さんはこの像を手に入れてから、原因不明の病気にかかっているんだぞ」
「ある意味では、病気を治すのがこの彫像の役割でした。奥津深一さんも今ごろはすっかり元気になられてるはずです」
「病気が治ってると?」
「ええ、ですからこの像も役目が終わって回収に行く予定でしたけど、あなたが届けてくださって助かりました」
「何なんだ、この像は?」
「これはクトゥルーの像です」
「クトゥルー……?」
「ええ、それ以上は言えません。《秘密》に関わることなので……」
 私は邪神像を残して水族館を出た。
 車に乗り込もうとした時、不意にザーッという空電雑音のような響きが耳を覆っていることに気づいた。やはり潮騒が聞こえるのだ。


 東京に戻った頃には、もう夜になっていた。
 彫像を本来の持ち主に返すという奥津深一からの依頼はこれで完了した。
 あの工藤瑠璃香という女は、奥津の病気はもう完治していると言ったが本当だろうか?
 電話で確かめれば済むことだが、なかなかかける気になれなかった。事件についてどう報告すべきか、自分の中で整理がつかないためだった。
 迷っていると奥津の方から電話がかかってきた。
「い、一条寺さん、頼みます……」聞き取りづらいくぐもった声だった。「来て、うちへ……来て、下さい」
「どうしたんですか?」
「話は、後で……はやく」
「すぐに行きます」
 私は電話を切って、車を出した。


 成城の家の前にスカイラインを止めると、ドアが開いて包帯だらけ体の上にコートを着た奥津が出てきた。また包帯の量が増えていた。額から首までと両手両足も覆われている。まるでミイラ男のようだ。
 奥津はよたよたと危なっかしい足取りで助手席へ乗り込んできた。顔は見えなかったが包帯の隙間の目の輝きは、たしかに特徴ある奥津深一のものだった。
「ど、どうしたんです、いったい?」
「海へ……」
「えっ?」
「海へ行ってください」
「海と言ったって……」
「どこでもいいんです、海なら。お願いします」
「じゃあ、ここからだと品川あたりですかね……」
「ええ、どこでも、はやく」
 私は世田谷通りを渋谷方面へ向かった。
 運転しながら私は言った。
「あの彫像は東京ダゴン教会の工藤瑠璃香という女に渡しましたよ」
「ああ、そのことはもう……いいのです」
「体の具合はどうなんです。その女は病気はもう治っているはずだと」
「そう、体は、たしかに治ったといってもいいでしょう。皮膚の方はまだ完全ではないですが」
「治ったんですか、それはよかった。しかし、なぜ海へ?」
「それは……、着いたらお話します……」
 渋谷近くで山手通りへ右折した。
 奥津は治ったと言うが呼吸は荒く、苦しそうだった。
 しばらくして奥津は話し出した。
「私の体を蝕んでいたもの……、それは、呪いでも病気でもなかったのです」
「じゃあ、いったい……?」
「血です。体の中で眠っていた血が目覚めたのです」
「血……」
「そう、今ではあの彫像の役割もわかります。あれは触媒でした。私の血を呼び覚まし、反応を早めるための……夢の中で語りかける声を聞いて、すべてが理解できました」
「夢で?」
「あ、もう海ではないですか?」
 車は天王洲のあたりまで来ていた。
「この辺は海というか、運河ですね」
「止めてください。あとは泳げますから」
「えっ、泳ぐって!?」私は車を止めた。
 奥津は車を降りると、私の方へ回ってきた。
「一条寺さん、今までお世話になりました」
「ちょっと、何をする気ですか?」
「私の本当の姿を見てください」そう言うと、奥津は顔を隠していたものを取りはじめた。衣服を脱ぎ捨て全身の包帯が外されると、そこにあらわれたのは、あの半魚人《深きもの》の姿だった。
「お、奥津さん……あなたは……」
「そうそう、探偵の料金は会社の経理の方に請求してください、手配はしてありますから。では、これで」
 もと奥津深一であった《深きもの》は手すりを乗り越えると、暗い運河へと飛び込んでしまった。
 しばらく沈み込んでいたと思うと、遠くの方に鰭のある背中が浮かんできた。その背は一度も振り返ることなく海へと泳いでいった。黒い水尾を曳いて。

2012年12月23日日曜日

不死者の遺産


1.

 その日、私は朝早くに受けた電話に応じ、依頼人の家を訪ねていた。住所は西日暮里。新築マンションの裏手で、午前中から日差しの遮られた一角にある、古びた木造二階建ての一軒家だった。
 インターフォンを押すと、玄関に姿を見せたのは五十代くらいの上品な感じの女性だった。表情には、どこか疲れきった様子が浮かんでいた。彼女が依頼人の津村光枝だった。
 私は応接間へと通された。外見は古びているが家の中は明るく清潔な感じに保たれていた。
「先月、足立区であった家の中で男性がミイラ化していたという事件についてはご存知ですね」光枝は言った。
「ええ、テレビなどで報じられている程度のことは」
 それは、家族が死んだ111歳の老人を室内に放置しつづけていたという事件である。目的は年金の不正受給とみられていた。その後、都内最高齢とされる113歳の女性も行方不明であることが発覚し、さらには各地で似たような事例の報告が相次いだため、各マスコミでも大きく取り上げられ、自治体が百歳以上の高齢者の所在確認をおこなうという事態にまで至っていた。一説には所在を確認できない老人の数は20万人以上にものぼるという。
「それで……、うちにも役所の方が見えて……」
「と言うと、やはり所在確認で?」
「ええ、それで驚いてしまって、何しろ父と最後に別れてから、もう18年も経っているんです。歳も歳ですから私はてっきり、もう死んでいるものと……、でも役所の人は死亡届は出されていないと」
「その18年前に別れたというのは、どういった事情で?」
「それがですね、私には姉が二人おりまして……」と光枝は語り始めた。
 彼女には和世と文子という二人の姉がいた。姉といっても母親は別で、光枝だけが後妻の子なのだった。そのため姉たちから彼女はまるで愛人の子であるかのような扱いを受けていたという。じっさい光枝の母は、彼女らの父、鴇田精爾と付き合い始めた当初は不倫関係なのであった。先妻が早くに死んだのも、その気苦労が原因だろうと思われていて、光枝は二人の姉から恨まれていた。その光枝の母も20年ほど前、病気で亡くなった。娘たちは三人ともそれぞれ結婚して家を出ていたため、老齢の精爾はこの家に一人になった。そこで光枝は夫とともにこの家に越してきて、父の面倒を見ることにした。その時、精爾はすでに90を越える年齢だった。しばらくして精爾は心臓病で倒れ、入院することとなった。すると突然、姉二人が押しかけてきて「もっといい病院へ入れる」と言って精爾を連れ出してしまった。それ以来、光枝は父の消息を知らないと言う。それというのも、光枝は姉たちから、遺産を独り占めしようとしていると疑われたのが原因だった。
 鴇田精爾には、バブルのころに土地を処分したために、かなりの額の貯金があった。光枝は遺産など当てにはしていないと言った。だが、姉たちにそう疑われていると思うと、自分から連絡をとる気には、どうしてもなれなかったのだ。そのため18年もの間、生死の確認すらできずにいたのだった。
 はじめのうちは父の身を案じていた光枝だったが、2年3年と経つうちに、いつしか父はもう死んだのだろう、そして自分には知らせずに葬式を済ませてしまったのだろう、と思うようになっていったということだった。
 光枝は続けた。「それで先日、役所の人が来たときに、初めて上の姉、和世さんに電話をしたのです。すると姉は、父は自分のところで元気に生きている、必要な手続きはこちらでしておくから、お前は何も心配しなくていい、と言うのです。私はそれなら父と話をさせて欲しいと言ったのですが、姉はいずれ連絡するからと言って電話を切ってしまいました。役所の人に事情を説明すると、姉の住んでいる地域の市役所に引き継ぐと言って帰っていきました。姉は二人とも今は埼玉県に住んでます」
「その後、連絡は?」
「いいえ、何も……。でも、本当に父が生きていたなんて……、とても信じられなくて、それにニュースなどでいろいろ言われているのを見ているうちに、何だか不安になってきてしまって……、それで探偵さんに調べていただきたくて」
「そうですか。事情はわかりました。それでその、鴇田精爾さんですが、生きているとして、お幾つなのでしょう?」
「112歳になります」


 私のスカイラインGTは、北区を横断し、荒川を越えて埼玉県へ入った。
 津村光枝の望みは、父親が生きているのか死んでいるのか、それさえはっきりすればいいということだった。ならば、とにかく姉の家を当たってみるまでだ。
 鴇田精爾の長女、吉崎和世の家は蕨市にあった。夫は公務員ですでに定年退職しているという。だとすれば、まさか年金の不正受給ということはないだろう。
 私は吉崎家を見つけ車を止めた。生垣で囲われた古い日本家屋だ。
 日射しが眩しかった。この年は9月に入っても真夏日がつづいていて、その日もひどく暑かった。
 玄関に姿をみせたのは、一見して派手な印象の女性だった。大きな目と大きな口をより目立たせるような化粧をしていて、パーマをかけた髪は黒く艶めいていた。大きな花びら模様のワンピースを着ている。
 私は偽の肩書きの入った名刺を差し出した。
「NPO法人《きぼう》の一条寺蓮といいます」
「はあ、何でしょうか?」
「こちらに鴇田精爾さんという方がお住まいですね?」
 吉崎和世は表情をこわばらせた。「あの、何の御用でしょうか?」
「百歳以上のお年寄りの方の生活状況の調査でして」
「そんな、急にこられても困ります。うちだって忙しいんですから」
「すみません。とりあえず、鴇田さんのお姿だけでも確認させていただければ、すぐ帰ります」
「それが、うちにはいないんですのよ」
「えっ、いないんですか。市役所の所在確認の人は来ませんでしたか?」
「ええ、それだったら昨日。昨日まではうちにいましたから」
「それで、今はどちらに?」
「老人ホームに行ってます。父は以前からそこに入っていて、この数日はうちへ戻ってきていたんです」
「そうでしたか。その老人ホームの名前、教えてもらえますか?」
「それは教えられませんよ」
「なぜですか?」
「そりゃあなた、きちんとした施設にあずけてあるんですから。それでじゅうぶんでしょう」
「いや、最近はいろいろ問題のある老人ホームもありますから」
「きちんとした所だって言ってるでしょう。もう、お帰りになってくださいますか」
 これ以上は、取り付く島もないようだった。
「はい、失礼します」
 私はその場を離れ、車にもどった。


 津村光枝にはもう一人姉がいる。次女の勝文子だ。住所はさいたま市。さいたま新都心近くの分譲住宅に住んでいた。周囲には同じ形の家が何軒も並んでいる。夫は実業家でブティックなどを何軒か経営しているらしい。
 勝と表札のついた家を見つけて、道路の反対側に車を止めた。
 ちょうどそこへやってきたプリウスが、勝家の駐車スペースに停止した。ドアが開き、買い物袋を抱えた女性が降りてきた。白いブラウスに白いスパッツ、髪はオレンジに染めていた。老いた女がむりやり若作りにしている感じだった。
「こんにちは」と私は声をかけた。「勝文子さんですか?」
「そうですよ。ちょっと待っててくださいね」
 女は鍵を開け家のなかに入ると、買い物袋を片付け、また出てきた。「何の用かしら?」
 私は名刺を渡し、長女の時と同じ用件を告げた。
「父のことは姉に全部任せてますから、私は何も知らないんですよ」
「先ほどお姉さんに会ってきた所です」
「あら、それじゃあもう私から話すことなんて何も……」
「文子さんが最近お父さんに会われたのはいつですか?」
「私は……、もうずっと……」彼女は私から目を逸らし、所在なさ気に地面を見つめた。
「老人ホームに入ってるそうですね?」
「えっ、ええ……」俯いたまま彼女は言った。「それが何か……?」
「昨日までお姉さんの家に帰っていたそうですよ、鴇田精爾さんが」
「そんな」と女は私を見た。「わ、私は何も……、本当に姉に任せっきりなんですから」
「その老人ホームの名前はご存知ですか?」
「ええ、知ってますけど」
「教えてくれますか?」
「なぜ私に……、姉には聞かなかったんですか?」
「もちろん聞きましたよ。でもなぜか教えてくれないのです」
 すると勝文子は、くるりとふり返り、ドアを開け家の中へ入ってしまった。
 私は途方にくれ、その場に立ち尽くしていた。
 しばらくすると文子は出てきた。
「すべて姉が考えたことです。本当に私は何も知らないんだから」そう言うと彼女は手にしていたものをこちらへ差し出した。
 それは老人ホームのパンフレットだった。


 私は車に戻りパンフレットを子細に眺めた。
 まるでリゾート・ホテルのような緑豊かな施設の様子が写真入りで詳しく解説されている。書かれている内容がすべて本当なら、かなり高級な施設のようだ。
 だが、このパンフレットには奇妙な点がひとつあった。肝心の施設の所在地がどこなのか一言も記載されていないのだった。連絡先として記されている住所は東京都新宿区のものだ。これは運営会社の事務所だろう。社名はアルタード・ハート・マザーとなっていた。
 私は昼食をとり、スカイラインにガソリンを補給してから都内へと戻った。明治通り、大久保通り、山手通りと南下し、新宿区と渋谷区との境界附近まで来た。初台のオペラシティ近くにその住所はあった。ガラスと金属だけで構築されているように見える凝ったデザインのビルで、最上部の8階と9階がアルタード・ハート・マザー社のオフィスになっていた。
 静まりかえったロビーに入っていくと、鏡張りのエレベーターのドアが自動的に開いた。私はそれに乗って8のボタンを押した。
 エレベーターを降りるとすぐに、アルタード・ハート・マザー社の受付になっていた。人の皮膚を思わせるような淡いベージュの色調で、曲線ばかりで構成されたインテリアだった。柔らかな暖色のライトに照らされたカウンターに、紺色のスーツを着た女性が座っていた。とても痩せていて、人形のように無表情だった。
「いらっしゃいませ」クールな声で彼女は言った。
「あの、老人ホームのことなんですが……」
「はい。ご検討の方ですか、奥がモデル・ルームになっております」
「あ、いや、とりあえずですね、こちらで経営している施設の所在地を知りたいのですが」
「それは、ご利用の方以外にはお教えできないことになっています」
「私は、こちらの施設に入ってる老人の身内の人の代理の者なんですけど」
「はあ」受付の女性は怪訝そうな表情になって私を見た。「身内の方でしたら、施設の場所はご存知のはずですけど……」
「いや、身内と言ってもですね、いろいろ事情があって親族の間でも連絡が取れない場合もあるわけですよ」
「少々お待ちください」そういうと彼女は立って、奥にあるドアに入っていった。
 しばらくすると、そのドアから、胸に社名の入った黄色のブレザーを着た男が現れた。小太りな体つきで、角ばった顔だちだった。
「私、ここの責任者の福元と申します」その男は、胸の前で組んだ両手をぷるぷると振りながら言った。「で、うちの施設をご利用いただいてる方というのは?」
「鴇田精爾さんという人です」
「ああ鴇田様ですか、よく存じ上げております。ええ、それで、あなた様は……?」
「一条寺蓮。私立探偵です」
「ほお、探偵ですか……。といいますと、どなたか鴇田様のお身内の方からの依頼ということでしょうか?」
「ええ、鴇田さんの娘の津村光枝さんです」
「なるほど、しかしですね、当方といたしましては、ご老人の方には、世間から離れて安らかに余生を過ごしていただくというのがモットーでして、ご当人が望まれない限りは住所などをお教えするわけにはいかないのですよ」
「では、鴇田さん本人が望めば、教えてもらえるんですね?」
「はい、ですから、こうしましょう。私どもの方から鴇田様へ、娘さん、津村光枝様ですね、その方が連絡を取りたがっておられるということをお伝えするということでいかがでしょうか?」
「ええ、いいでしょう」
 私は津村光枝の連絡先を福元に教え、そのフロアを出た。


 津村光枝に電話をかけて、私は今までの経過を報告した。
 一通り話を聞くと彼女はぽつりと「連絡は来るのでしょうか」と言った。
 私は「わからない」と答えた。
「やっぱり、父がまだ生きているなんてとても信じられない」彼女はつぶやくように言った。


2.

「ところで、鴇田精爾さんは遺言状を弁護士に託してはいませんでしたか?」と私は尋ねた。
 光枝は、しばらく家の中を探して一枚の名刺を見つけ出した。掛川信一郎というのがその弁護士の名だった。事務所は文京区本郷にあった。私は電話でアポイントメントを取ってそこへ向かった。
 掛川信一郎法律事務所は、レンガ色のタイルで覆われた、横に長い2階建ての建物の中にあった。1階は大きな喫茶店で、2階に歯科医と法律事務所が入っていた。
 ドアを開いて事務所の中へ入ると、助手らしい女性が応接用のソファーに案内してくれた。すぐに、くたびれた感じのグレーのスーツを着た男が姿を見せた。白髪混じりの頭で分厚い眼鏡をかけていた。風貌からはもう70を越えているのではないかと思えた。弁護士に定年はないというから、実際そんな年齢なのかもしれない。
「どうも、掛川です」と言って男は向かい側の席に腰をおろした。
 すでに電話で鴇田精爾の遺言状の件で来訪することは伝えてあった。私は「遺言状の内容を知りたいのですが」と切り出した。
「ええ、当然のことながら」と掛川は眼鏡のフレームを押さえながら言った。「他人に、死亡の確認のされていない人物の遺言状を開示するという事は有り得ません。ですが、何か特別な事情がおありでしたら、協力できることもあるかもしれません」
「掛川さんは、鴇田氏から遺言を託された時のことは記憶されていますか?」
「ええ、よく憶えていますよ。正直、あの方がまだ存命とは驚きでした。遺言を聞いたのは心臓病で倒れられ、病院のベッドでのことでしたから……。しかし人間の生命力というものは常識だけでは計り知れないものがあるのも事実です。ちょっとしたきっかけで持ち直すということも考えられないことではありません。確かこの方は、娘さんの勧めで病院を移られることに決まっていたんではありませんか」
「三人の娘のうち上の二人の姉が病院を移しました」
「もともと、末の三女の方が父上と一緒に暮らしていたんですね」
「そうです。そこでですね、遺言の内容なのですが、この三女だけに遺産のすべてを、そうでなくても多く分配して、相続させるというようなことは、なかったでしょうか?」
「ふむ、だとすれば、どういうことになりますかな」
「この三女は、母親が違うこともあって二人の姉からは疎まれていたらしいのです。そこで姉たちが遺産を妹に渡したくないと考えた場合、父親が死んでも、それを隠しておくことで、姉たちだけで遺産を分けることもできるというわけです」
「ふうむ」弁護士は腕を組んでしばらく考えてから言った。「そうですな。あなたがその線に沿って調査を進めるとしても、私は止めはしませんよ。まあ、私に言えるのはここまでです」
「いや、じゅうぶんです。ありがとうございます」
 私は頭を下げて立ち上がろうとした。それを引き止めるように掛川は言った。
「しかし、死体を隠しておくということは、そう簡単にできることではありませんな」
「鴇田氏は、ある老人ホームに入っていることになっています」
「というと……?」
「アルタード・ハート・マザーという名です」
「ほお、その名前どこかで……」
「知っているのですか?」
「いや、知っているというほどではないが、耳にしたことがあるのは確かです。そうですね、この種の問題に詳しい者に問い合わせてみましょう。もし何かわかったら連絡を差し上げますよ」
「お願いします」と言って私は法律事務所を出た。


 その日の夜、9時を回った頃。私の事務所と兼用の住居へ訪問者があった。
 小柄で痩せた男だった。
 シックな茶色のスーツを着て、シャツは鮮やかなグリーン、ネクタイはオレンジだった。頭には山高帽をかぶって、皮の手袋をした手には銀の取っ手の付いたステッキを持っていた。
 浅黒い日に焼けた肌をして、細く整った口ひげを生やしていた。
「あなた、アルタード・ハート・マザーを調べてますね?」妙な訛りのある口調で男は言った。
「ん、ああ、誰から聞いたんだ?」
「そりゃあ、あなた、弁護士のところに行ったでしょう」
「掛川弁護士の知り合いか?」
「いやいや、直接知り合いというわけではありません。でも、情報は流れてきますね……げひっ、げひっ、げひ」彼は笑ってるのか咳き込んでいるのかわからないような音をたてて肩を震わせた。
「だいじょうぶかい、あんた」
「いや、失礼」と男はハンカチで口もとを拭いながら言った。
「で、あんたは何者だい?」
「そう……、《セトの従者》とでも呼んでもらいましょうか」
「ふむ、ああ、名前は何でもいいが、職業は?」
「職業ね、まあ、情報屋と思ってもらえばいい」
「じゃあ、金を取るって言うのか?」
「いやいやいや、今日のところは初回サービスってことでね。おたがい信用を確かめ合って、それからお付き合いをはじめましょうよ……げひっ、げひっ」
「タダなら話ぐらいは聞いてやるが」
「だから、アルタード・ハート・マザーよ。いわゆる“消えた高齢者”の行方を追って、そこへ行き着いたって話は、何も、あなたが追ってる一件だけじゃあない。そしてこの組織の実態は、いくら調べてもわからない……」
「それで?」
「そう、それで、この会社、じっさいいくつか老人ホームを経営してるのは紛れもない事実。だがこれはたいした規模じゃない。ようするにダミーよ。何か問題があったとき、いろいろごまかしが効くからね。たとえば、今回のように役所が老人の所在を確認する何てことになっても、替え玉を用意する役にもたつ」
「替え玉?」
「そそ、身内の人間、「これ、お父さんです」言えば、役人は疑いようがないね」
「なるほど」吉崎和世もこの手を使ったのかもしれない。「で、消えた高齢者たちはどうなったんだ?」
「それが、わからない。でも、どうも財産を奪って山奥に埋めたとか、そんな単純な話じゃないようですね」
「しかし、他にどんな目的が?」
「あそこの経営者は、表向きは福元っていう男ということになってますが、じつは黒幕が他にいる。これが、まだ若い女ね、いってもそう30くらいの」
「女……」
「んん、沙漠谷エリという名前、すごい美女らしいという他は、いっさい素性不明。この名前も偽名でしょう」
「妙な名だな」
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ……、十字架にかけられたキリストの最後の言葉です。神よ、なぜ私を見捨てたのか、という意味ね」
「謎の美女か……、一度お目にかかりたいね」
「会いに行きますか?」
「居場所がわかるならね」
「私知ってます。横須賀のある倉庫。この女、大概そこにいる」
「何だって倉庫なんかに?」
「さあねえ、だがその倉庫には、例の消えた高齢者たちも集められています。皆、金持ちで、死ぬ間際だった老人たち。今も生きているのか、それとも死んでいるのかは、誰も知らない、げひっ、げひっ、げひっ」


 行く気があるなら今から案内する、と《セトの従者》は言った。
 彼の車は黒のシトロエン2CVだった。私はその助手席に乗り込んだ。
「その女、こんな時間にいるのか?」運転する男に私は尋ねた。
「ああ、やつら、夜のほうが活発になる」
「倉庫に着いたらどうする、忍び込むのか?」
「いや、あなた、ドアをノックする」
「それで、開けてくれるのか?」
「秘密のノックがある。これを探り出すには苦労したね。やつら車が近くに止まってるだけでドアに近づかない。だが、こっちは高性能マイクを使った。まず3回、1回、4回とノックする。それで開かなければ、つぎは1回、5回、それでも開かなければ9回……、これが何だかわかりますか?」
「さあね」
「3.14159……、何のことはない円周率の数字。順に辿るだけ」
「それなら15桁まで憶えてる。ドアが開いたら、それからどうする?」
「あなたの用件を言えばいい、消えた老人を探してる」
「それで?」
「後はわかりません。でも、秘密のノック知っている人間、追い返したりはしないはずね」
「中に入れるのはいいが、そのまま出てこられないなんてことはないだろうな」
「だいじょうぶ、いざとなったら警察、呼んであげます」
「あんたが自分で調べに入ったらどうなんだ?」
「私、そういうことしない主義。情報を売るのが私の仕事。危険を買う、あなたの仕事でしょう……げひっ、げひっ」と、《セトの従者》はまた肩を震わせはじめた。
 横須賀に着いたのは、もう真夜中だった。
 そこは対岸に米軍施設が望める、倉庫街の外れの辺りだった。人の気配は全くない。
「あそこだ」《セトの従者》が指を差した。
 白い倉庫が周囲から隔絶したように建っていた。
 中でジェット機でも組み立てられそうな大きさだった。
 側面に小さな黒いドアがあった。
 私が降りると2CVはゆっくりバックして離れていった。
 私はドアの前に立つと、3、1、4とノックした。しばらく待っても何の気配なかった。試しにノブを回してみた。開かない、ロックされている。
 1、5とノックした。何の反応もない。
 今度は少し強めに9回のノックを叩いた。
 するとガチッというオートロックが解除された時のような音がした。
 ノブを回すと、ドアはすんなりと開いた。冷気が流れ出してきて足首のあたりにまとわりついた。
 中は真っ暗で、誰もいないようだった。
 だがよく見ると、奥にぼんやりとした明りがあった。
 ドアから少し先に、すだれ状に切れ目の入ったビニールのカーテンがあった。その向こうに点々と何か光るものが並んでいるのだった。
 私はカーテンをくぐって奥へと進んだ。いっそう気温が下がり、寒さが身に沁みた。
 物の輪郭がやっと見分けられる程度の明るさしかなかった。床には、タンクのような物が無数の配管と電気コードでつながれ並んでいた。それが広い倉庫の床を埋め尽すだけの数があった。タンクの一部がガラス張りになっていて、そこから光が漏れているのだった。まるで棺のように見える。
 鼻腔を刺激する薬品の臭いが漂っていた。モーターの作動する低い唸りが響き、かすかに水の流れるような音も聞こえた。
 タンクのひとつに近づいてみた。ガラスの部分から内部を覗ける。
「な、なんだこれは……!?」
 そこには淡いグリーンの液体が満たされていて、中に頭の禿げた老人の顔があった。
 となりのタンクを覗くと、痩せこけた老婆が薬液に浸かっていた。
「一体……これは……?」
 その時、不意に天井の蛍光灯が一斉にちかちかと瞬き、点された。
 まぶしさに眼が眩んだ。
 コツコツという靴音が聞こえた。ハイヒールが床を歩く音だった。誰かが近づいてくる。
 フードつきの白いコートを着た女だった。白い肌をして、ストレートの黒髪を肩の上で切りそろえていた。
「あなたは誰?」女は言った。
「私立探偵、一条寺蓮だ」
「ああ、昼間、初台の事務所に見えた方ね?」
「そうだ、あんたが沙漠谷エリか?」
「どうして私の名を、それに、なぜこの場所がわかったの?」
「《セトの従者》から聞いた」
「それは何?」
「おれもよく知らないんだが。情報屋らしい」
「そう、そう言えば、近頃ここを監視している男がいたわ。ノックの秘密もその男から聞いたのね」
「そうだ」
 女はそれでもう侵入者には興味を失ったというようにタンクの間を歩き出した。まるで花壇でも見回るような感じだった。
 私は問いかけた。「この機械は、一体何なんだ?」
「これはコールド・スリープ、つまり冷凍睡眠のための装置です」
「冷凍……睡眠……?」
「人の寿命の飛躍的な延長が可能になります」
「ばかな、そんな技術が実現したなんて話、聞いたこともない」
「ええ、世間はまだ知りません。でも、ご覧のとおり装置は現実に稼動しています」
「こんな物、ただ、死んだ老人を氷漬けにしてるだけじゃないのか」
「そんなことをして何になるというのです」
「財産を巻き上げるためだろう。ここに集められたのは金持ちの老人ばかりと聞いたぞ」
「そう、資金を得るのもひとつの目的です。ここを維持するためにはそれなりの費用がかかりますからね。でも、老人たちは決して死んでしまったわけではありません。眠っているのです」
「それなら、試しに一人、目覚めさせて欲しいね」
「冷凍睡眠からの覚醒には長い時間が必要なのです。ですから、今ここでお見せするというわけにはいきません。しかし、すで目覚めた人は何人もいます。私もそのうちの一人」
「あんたが!?」
「ふふ、私の本当の年齢を知ったら、あなたはきっと驚くでしょうね」
「嘘だ。あんたはただの詐欺師だ」
 女は足を止め、ひとつのタンクを指差した。「ほら、あなたがお探しの鴇田精爾さんもここに。よく眠っていらっしゃるわ」
 私はそこへ行って中を覗き込んだ。液体に浸かった老人の顔があった。色のついた薬液のせいで皮膚の色はよくわからない。目を閉じたその表情は安らかに眠っているようにも見えた。
「信じられん。やっぱり死んでいるんだ」
「いずれ、時が来ればあなたにも、わかるでしょう」
「だいたい、そんな立派なものなら、なぜこんな秘密めかした場所でこそこそしている必要がある。なぜ公表しないんだ?」
「それは、私たちの用いる方法が、正統科学によっては理解できないものだからです」
「正統科学では理解できない……、そういうのをインチキって言うんじゃないか」
「あまり大声を立てないでください。老人の眠りを乱すべきではないと言うでしょう」
「いいさ、とにかくここでやってることは警察に知らせる。まだ生きていた老人を氷漬けにしたのなら、殺人の疑いもあるからな」
「では、仕方がありませんね。あなたにも見せてあげましょう」
「見せるって、何を?」
「老人たちの魂が眠る場所」
「何だ、それは?」
「あなたは行くのです。夢の都市セレファイスへ」
 女は人差し指を私の目の前へと突きつけた。彼女の両眼が十字型の光芒を放って輝き出した。
「な、何だ……、うわあぁぁぁっ」
 床が回転しはじめ、視界が渦巻状に歪んでいった。


 ……
 私は、無限の暗黒の中をどこまでも落下していた。
 落ちていく方向から、光が射してきた。


 ……
 気がつくと私は見知らぬ街路に立っていた。
 ゴツゴツした黒い石畳の道がのびていた。建物もすべて黒ずんだ石造りだった。
 とても静かだ。
 ここはどこだ。日本ではないようだ。東欧の古い都市だろうか。
 建築物は一見アラブ風でもあるが、よく見ると、地球のものとは思えない奇怪な彫刻で装飾されていた。窓ガラスはほとんど割れて無くなっている。残っている部分にはステンドグラスのように色のついた細かいガラスが埋め込まれていた。
 空はいちめん雲に覆われていた。灰色のグラデーションが幾層にも重なっていて、ところどころにある切れ間からは、異様な色彩が微光を放っていた。
 私は黒い町の中を歩きだした。どこまで行っても人の姿はなかった。物音ひとつしない。まるでゴーストタウンだ。
 円形の広場に出た。中央には複雑な形状の噴水のようなものが据えられていた。水は涸れていて、黄色い煮凝りのような物質があちこちにこびりついていた。
 かすかに獣の叫びのような響きが聞こえてきた。いくつもの咆哮が重なり合っているようにつづいていた。
 私は叫び声のした方へ向かった。進むうちに獣の声にまじって、繊細な旋律を持った笛の音のようなものが聞こえてきた。
 やがて黒い石畳が途切れた場所に来た。そこから先は地面が陥没していて、巨大なクレーターのようになっているのだった。道の端から見下ろすと、そこには無数の影が蠢いていた。人型の生物の群集だ。だが、それは人間ではなかった。全身黒い毛に覆われ、長い腕をたらしながら前かがみになって走り回る、猿人のような種族だった。
 黒い猿人たちは、手に手に棍棒や石くれを握り、それを中央にいる異様な存在めがけて投げつけていた。攻撃しているのか、あるいは崇拝の儀式のようにも見えた。
 影の群れの中心にいるのは、巨大な黒いイソギンチャクのような生物だった。
 それは、無数の触手をゆらめかせながら、フルートのような音色を発しているのだった。石を投げつけられても意に介する様子もなく、時おり何本かの触手を伸ばしては、絶叫する猿人を捕らえ、触手の束の中へと飲み込んでいた。
「な……何なんだ、これは……!?」思わず口から言葉が漏れた。
 その時、背後からフルートの音が鳴るのが聞こえた。
 ふり返ると、いつの間にかそこにも、黒いイソギンチャクが、ナメクジのように這いながら近づいてきていた。全長3メートルほどもある大きさだ。
「うっ、うわあぁ」私は驚き、尻餅をつきながら後ずさった。
 触手が伸ばされ、足首に巻きついた。私の身体は軽々とかかえ上げられた。
「うわああああああああああぁ」


 ……
「おい、しっかりしろっ」
 私の身体は乱暴にゆすられていた。
 気がつくとそこは、あの冷凍睡眠装置が並んだ倉庫だった。
 正面のゲートが開かれ、外に赤い回転灯をつけたパトカーが並んでいるのが見えた。空は暁の紫色に染まっていた。
 捜査員がフラッシュを焚いて写真を取っていた。
「大丈夫か?」私の肩をつかんだ男が言った。
「あ、ああ」
 その男は刑事だった。
 警察署へ同行を求められ、私は同意した。


 その事件は〈コールドスリープ詐欺〉としてマスコミでも大いに取沙汰された。
 タンクの中の老人たちは、やはり全て死亡していた。皆、遺産相続などでトラブルを抱えているか、あるいは不治の病に冒され治療法の進歩した未来に望みをかけた人々だった。
 首謀者とされたのは、初台の事務所で会った福元という男だった。
 沙漠谷エリの名は、なぜか一度もマスコミの話題に上ることはなかった。彼女が逮捕されたのか、それとも逃亡したのか私は知らない。
 《セトの従者》と名乗る情報屋もあれきり連絡してこない。
 だが、私の脳裡には、あの黒い町で目にした光景がくっきりと焼きつけられいていた。
「夢の都市セレファイス……」その名が、今でも時おり幻聴のように甦ることがある。

2012年12月19日水曜日

魔導回線


1.

「探偵さん、お願いします。『ネクロノミコン』を探してください」
 部屋に入ってくるなりその青年は言った。
 時刻はもう夜の11時を回っていた。だが、客ならいつでも歓迎する。わが探偵事務所は24時間営業なのだ。
「まあ、落ち着いてください。ええと、お名前は……森谷惣吾さんでしたね?」
「そうです」
「で、その『ネクロノミコン』というのは?」
「それは、その……本なんですが、貴重な魔道書で、つまり邪神を呼び出す呪文なんかが載っている、もっともこれは偽物なのですが……」
「ふむ、魔道書ですか……」
「一条寺さん、あなたならてっきりご存知かと。この種の事件を専門にされていると聞いていたものですから」
「この種の?」
「つまりその、オカルト的というか、怪奇現象がらみの」
「べつに専門になんかしてませんよ。たまたま過去に二、三そんな事件にかかわっただけのことです」
「そ、そうなんですか。でも、探してくれるんでしょう?」
「ええ、探しますがね、料金さえ頂ければ」
「もちろんお支払いします」
 私は規定の料金について説明した。
「では、はじめから詳しく話してください」
「はい、ええと、一条寺さんは《ラ・ムー》オークションというサイトをご存知ですか?」
「いや知りません。ヤフーみたいなものですか?」
「ええ、あれと同じようなネット・オークションのサイトなんですが、この《ラ・ムー》ではオカルトとか異端科学に関するアイテムや書物が専門に扱われているのです」
「なるほど、それで?」
「その《ラ・ムー》のオークションにですね、ぼくは自分で作った『ネクロノミコン』を出品したんです」
「えっ、あなたが作った?」
「そ、そうなんです。友人が自主制作の映画をやってまして、その小道具としてたのまれたのがきっかけで。映画は予算不足で立ち消えになっちゃいましたけど、その魔道書は思いのほかよくできたものだから、小遣い稼ぎにと思ってオークションに……。まあ、だから偽物なんですが、もともとこの『ネクロノミコン』というのは、H.P.ラヴクラフトという昔のアメリカの作家の小説に出てくる魔道書のことで、翻訳によっては『死霊秘法』なんて呼ばれたりもしますが、ようするに創作で、本物なんかもとからないわけなんです。まあ一部には『ネクロノミコン』は実在して、ラヴクラフトはそれをモデルに小説を書いたんだなんて説もあるにはありますがね。しかし、こんなオークションに出回るようなものはみな作り物だとわかってて、それでもまあ遊びで買う人はいるわけです」
「ふむ、で、売れたんですか?」
「ええ、まあそこそこの値段で。手間賃を考えれば完全に赤字という額ですが。それで落札者と連絡を取って宅配便で送ったんですが、それが相手には届かなかったらしくて……」
「宅配会社には問い合わせたんですか?」
「はい、でも、受け取りにはサインしていると言われて、一応調べてくれるとも言っていましたが、その後は何とも」
「落札者は受け取っていないと言ってるんですね?」
「そうなんです。落札したのは茎田貴という人で、サイトの評価では〈非常に良い落札者〉になってますし、他の取引ではトラブルはないようなんですが、でもこの人ちょっと様子がおかしくて、もう何度も電話してきて、始めは商品が届かないっていう普通の苦情だったんですが、次の日ぐらいから『おまえのせいで酷い目にあった』とか言い出して、『このままではただでは済まない』とか、だんだん脅迫じみたことを言うようになってきたんです」
「なるほど、状況はわかりました。受け取り証にサインがあるということは、誰かしらが受け取ったということでしょうね。その茎田氏とは別人が、例えば家の人を装うなどして配達の人から直接受け取って持ち去ったか、あるいは茎田氏自身がじつは受け取っていながら、何らかの理由で受け取っていないと言い張っているか、可能性が高いのは、そのどちらかでしょう」
「そ、そうですね。ぼくもそう思います」
「では、とにかくその茎田氏に会ってみましょう」
「ああ、どうかよろしくお願いします」


 翌日、私は早朝から起き出して、昨夜依頼人から聞いた茎田貴の住所、品川区大井町へと車を走らせた。
 そこは古びた木造アパートだった。その日は火曜日、時刻は午前8時少し前。茎田が仕事なり学校なりへ出るなら、何とかその前に会っておきたかった。
 部屋を確認して様子を窺ってみると、中は静まり返っていた。無人なのか、それともまだ寝ているのかもしれない。私は車に戻り、部屋の見える場所で待つことにした。茎田の部屋は一階の端で雨戸は開いていたが、窓はカーテンで閉ざされていた。
 30分ほど経つとカーテン越しに蛍光灯の明りが点くのが見えた。車を降りてドアの方へ回っていった。換気扇が回り、流しを使っている気配があった。
 ドアをノックすると、チェーンでロックしたまま開いた隙間から男が顔を見せた。
 それは丸顔の太った男で、ヘビーメタル・バンドのロゴとイラストがプリントされた黒いTシャツに下はパジャマのズボンをはいていた。
「何だ?」まだ寝ぼけた目つきで、不機嫌そうな声で言った。
「朝早くからすみません。私立探偵の一条寺蓮という者です」
「探偵……」
「ええ、『ネクロノミコン』の件でお話を窺いたいのですが」
「そんな物どうだっていいんだよ!」茎田はそう言うとドアを閉めようとした。
 私はなんとか手足を滑り込ませドアを押さえた。
「どうだっていいとはどういうことですか。結局『ネクロノミコン』は受け取ったんですか?」
「受け取ってないと言っただろ、もうおれには関わらないでくれ」
「どうしてです。『ネクロノミコン』はいらないんですか?」
「もう、電話をかけるのもやめてくれ」
「電話って、何のことです?」
「あのおかしな音の電話だよ」
「えっ、ちょっと、ちゃんと話してくれませんか」
「話すことなんかない。他の三人のこともおれは知ってるんだ」それだけ言うと茎田は強引にドアを閉じてしまった。
「茎田さん、他の三人って何のことです。茎田さん」私はノックしながら呼びかけたが一向に返事はなかった。


 私は車に戻り、依頼人に電話をかけた。
 こちらの様子を伝えると、森谷惣吾は会って話したいことがあると言った。
 彼の自宅近くの喫茶店で待ち合わせすることになった。森谷は港区三田のマンションに住んでいて、その店はJR田町駅の近くにあった。
 彼は昨夜と同じ服装で、髪は乱れ目の下にはくまができていた。
「だいじょうぶですか。顔色が悪いですよ」私は声をかけた。
「ええ、寝てないもので……」
「やはり、まだ何か事情があるのですね」
「はい、すみません。でも昨日の夜は、まだはっきりしていないこともあって、それですべてはお話できなかったのです」
「とにかく、話してみてください」
「じつは」森谷は周囲を気にしながら小声で話し始めた。「ぼくが《ラ・ムー》オークションで売った魔道書は『ネクロノミコン』だけではなかったのです。ほかに『ナコト写本』『エイボンの書』『屍食教典儀』というこの三冊を出品していました。どれもクトゥルー神話に登場する魔道書です。あ、クトゥルー神話というのはラヴクラフトの小説や、それを真似て他の作家が書いた作品の総称です。三冊の魔道書は、いずれもすぐに落札されました。それでその、落札した三人なんですが……」
「三人が、どうしたんですか?」
「三人とも、死んでしまって……」
「死んだ……、どうして?」
「始めにわかったのは『屍食教典儀』を買った幡野数年という人のことで、これは昨日の夜、テレビのニュースで、今流行っているインフルエンザによる死者らしいということで報じられていたのですが、二十代の若者がインフルエンザで死亡するのは珍しいということで特に名前が出ていたのです……。何度かメールのやりとりをしていましたから、すぐにああ、あの人だとわかりました。でも、その時はまさかぼくが送った魔道書のせいだなんて思ってもみませんでした。しかしその直後に茎田貴から電話があって『幡野が死んだのはおまえのせいだ』などというのです。そして『北本と斎藤ももう死んでいる』と言われて……。この北本と斎藤というのも魔道書を買ってくれた人たちです。すぐには信じられませんでした。念のため新聞を調べてみると北本仁一という名を見つけました。『ナコト写本』の落札者です。彼は車を運転していて保育園に突っ込んだということでした。夜だったので他に死傷者はなかったようですが、居眠り運転ではないかと記事にはありました。もう一人、『エイボンの書』の落札者は斎藤奈津郎というのですが、この時には、この人が無事かどうかは確認できませんでした。とにかくぼくは何が何だかわからずとても怖くなってしまって一条寺さんの所へ駆け込んだわけです。でもこんな話すぐには信じてもらえないような気がして、とりあえず『ネクロノミコン』を探すよう頼むことしかできませんでした。じつはあの後、一度は家に帰ったのですが、不安で眠ることもできず結局、府中市の斎藤さんの自宅まで車で確かめに行くことにしたのです。その家を見つけたのは、夜が明けてからだいぶ経ってからでしたが、そこでは葬式の準備が進められていました。家の人に聞くと斎藤奈津郎は中央線のホームから飛び込み自殺したということでした……」
「つまり、あなたから魔道書を買った人たちが、つづけざまに病死、事故死、自殺というわけですか。偶然とは思えませんね、かといって連続殺人とも考えにくい……。こうなると茎田氏は『ネクロノミコン』を受け取る前に盗まれたことで、かえって助かったとも考えられる」
「ええ、だから何としても誰が何のためにあれを盗んだのか突き止めて欲しいのです。それにおかしいのは、茎田さんは他の三人の落札者の名をどうして知っていたのかということです。サイトを見ればIDはわかりますが、本名までは知りようがないはずなんです」
「もともと知り合いだったということはないですか?」
「さあ、わかりません。メールのやり取りでは、そんな感じではなかった気がします」
 森谷は気を落ち着けるようにコーヒーと水を交互に口へ運んだ。
「ともかく茎田氏にはもう一度会ってその点たしかめることにしましょう。それとその《ラ・ムー》オークションですが、サイトの主催者ならば落札者の本名や住所も把握しているのではないですか?」
「そうですね。登録の時に本人証明が必要ですから」
「どんな人物が運営しているかご存知ですか?」
「いや、よくは知りませんが、たしか、オリハルというハンドル・ネームの人が個人でやっているとか。メール・アドレスは公開されていたはずです」
「では、そちらにもコンタクトをしてみましょう」
 私は携帯電話からウェブにアクセスした。《ラ・ムー》の主催者は確かにオリハルという人物だった。メール・フォームも設置されていたので、次のような文章を送信した。
こちらでの取り引きに関連して不審な事件が起きています。ぜひお話をうかがいたい。
 「とりあえず、これで様子を見ましょう。それから、あなたにひとつ聞きたいことが」
「なんでしょう?」
「茎田氏に会った時、彼は『電話をかけるのをやめろ』と言っていたのですが、これはどういう意味でしょう。『おかしな音の電話』とも言っていましたが?」
「電話ですか、何のことだかさっぱり。ぼくの方から掛けたことはありませんし」
「そうですか、もう他に手掛りになるようなことはありませんか?」
「そうだ、一条寺さん。もう一つわかったことがあったのです」
「なんですか?」
「ここへ来る前に、宅配便の会社にその後何かわかったか確認の電話をしてみたのです」
「それで?」
「ええ、配達の担当者に問題の荷物について聞いてくれたらしいのです。するとその人ははっきり覚えていて、あの荷物を受け取ったのは女だったと。長い黒髪の若い女性だったそうで、アパートの部屋の前で待っていたその人に荷物を渡し伝票にサインをもらったということです。部屋に出入りする所までは見なかったらしいです」
「ふうむ、女とは意外だな……」
 森谷とはそこで別れた。時刻は午前11時20分。勤め人が昼休みに入る前に、私は近くの定食屋で早めの昼食を摂った。
 食事を終え、車に戻ったところで携帯を確認すると、オリハルからの返信が届いていた。
不審な事件とはなんですか? いつでもお会いします。
  つづけて携帯電話の番号が書き込まれていた。その番号へ掛けてみると、快活そうな青年の声が応じた。新宿区のマンションの住所を告げて、今から会ってもいいと言う。私はすぐに行くと言って電話を切った。


 私は車を新橋方面へ走らせ、外堀通り沿いに新宿へ向かった。
 車は以前のシルビアから、また白のスカイラインGTへ買い換えたばかりだ。中古だが調子は悪くなかった。
 オリハルから教えられた住所にあったのは、古いながらも小綺麗な大型のマンションだった。来客用の駐車スペースへ車を止め、ゴロゴロと音のするエレベーターで6階へ上った。オリハルの部屋は616号室ということだった。
 その部屋は〈紺野折晴〉と表札を出していた。
 インターフォンを押すとすぐに住人が顔を出した。
 その青年はやや面長で整った顔に眼鏡をかけていて、細かい柄のセーターにグレーのスラックスという服装だった。背は高くがっしりした体つきだ。
「一条寺です」
 私が名を告げると青年は笑顔を見せた。
「やあ、お待ちしてましたよ。どうも紺野折晴といいます」
 部屋の中へ案内された。壁にはH.R.ギーガーの大きなポスターが飾られていた。様々な周辺機材が繋がれたデスクトップのパソコンがあり、それとは別にノート・パソコンも立ち上げられていた。本や雑誌にくわえDVDなどのソフト類も大量にあって、本棚に収まりきらない分は床に積み上げられていた。雑然としていながらも、所々に観葉植物の鉢植えが配されているあたり一定のセンスを感じさせた。
「いや、すみませんね、散らかってる所へ」
 勧められた椅子に私は腰掛けた。
「オリハルというのは本名だったんですね」
「ええ、親がね、名字がコンノだからって、オリハルコンにちなんで付けたらしいです。アトランティスの幻の金属のことなんですが、つまりオカルト好きは親譲りってわけです」
「はあ」
「しかし、実物を見るのははじめてだなあ、私立探偵なんて。で、その事件というのは?」
「こちらの《ラ・ムー》オークションで、魔道書を買った人がつぎつぎに変死を遂げているんです」
「変死……って、そんな」
 私は森谷惣吾から聞いた事実を一通り話した。
「待ってください。確認させてもらいます」と、紺野はパソコンを操作しはじめた。「わかりました。確かにその方たちはうちのサイトの利用者ですね。そして幡野数年さん、北本仁一さんの件はニュースサイトに上っています。斎藤奈津郎さんについては名前は出てませんが、中央線でのそれらしい人身事故の情報があります。しかし三人も死んでるなんて、ただ事じゃないですね」
「それでですね、こちらのパソコンから、利用者のデータが盗まれた可能性はないですか?」
「まさか、そんな……。セキュリティは常に最新のものにしているし。そりゃあ、よほど高度なハッカーの仕業ならわかりませんが……」
「オークションの利用者について他人に話したようなことは?」
「それはありません。個人情報の管理には気を使ってますから。一条寺さんは、これが殺人だと疑ってるんですか?」
「まあ、あくまでも念のための確認です。ところで、あなたはいろいろお詳しいようなので、ついでに聞きたいのですが、茎田氏の部屋を訪ねた時、おかしな音の出る電話のことを気にしていたのですが、これは何のことかわかりますか?」
「おかしな音……ですか?」
「ええ、その電話をかけるのをやめろと」
「それだけじゃ、なんとも言えませんねえ。まあ、電話を使って催眠術をかけるって話なら聞いたことがありますが」
「電話で催眠術を……、そんなことが可能なんですか?」
「ええ、ぼくは以前、『ナスカ』ってオカルト雑誌のライターをやってたのですが、その時、取材した学者でね、電子音を使った催眠術の研究をしている人がいて、いろいろ問題を起こして、大学はクビになっちゃいましたけど。その人は研究が完成すれば、電話越しに音を聞かせて他人を自由に操れるって豪語していましたね」
「では、その学者の研究が完成していれば、あなたから魔道書の落札者の電話番号を聞きだしたり、さらにその番号に電話を掛けて自殺や事故を起こさせることも可能なわけだ」
「いやいや、そりゃ、可能性がないとは言い切れませんが、じっさいそんなことは……。事故や自殺はともかく、インフルエンザまではどうにもならんでしょう」
「そうですが、しかし、二十代でインフルエンザで死ぬのはめずらしいと言われています。それは何か身体の抵抗力を弱めるような指示を催眠術で行なったためなのかもしれません」
「いや、しかし……考えすぎじゃないんですか」
「そうかもしれません。だがじっさい茎田氏が電話でおかしな音を聞いたと言っている事実があります。それに魔道書を買った人が続けて変死するという謎も、電話による催眠術という方法ならうまく説明がつくでしょう」
「ううん、待てよそう言えば……」と、紺野は急に不安げな面持ちになって言った。「ぼくのところにも最近おかしな電話が……」
「あったんですか?」
「ええ、夜中にね。着信音で目が覚めて、2時ごろだったか……。番号が非通知だからおかしいなとは思ったんだが、その後の記憶が曖昧で……、結局、無言電話でまたすぐ寝ちゃったんだろうと思ってたんですが」
「じゃあ、その時に催眠術にかけられ、落札者の情報をしゃべらされた上でその記憶も消されたのかもしれない」
「そんなばかな、そんなに簡単に人の記憶が消せるなんて」
 紺野は髪をかきむしるようにして頭を抱えた。
「まあ、これはあくまで可能性の話で、そうと決まったわけではありません。だが、調べてみる価値はあるでしょう。その研究者の名前、教えてもらえますか」
「えっ、ええ。たしか取材の時のメモが……」紺野は机の引き出しから古い手帳を取り出してページを繰った。「あった、そう名前は土門晶義。住所は江東区東雲です」
 私はその住所と電話番号を自分の手帳に書き取った。
「しかし、どういうことなんでしょう」紺野は言った。「一連の変死事件が催眠術を使ったものだとして、なぜ魔道書の落札者が狙われたんですか。クトゥルー神話の魔道書といったって、作り物の偽物なんでしょう?」
「さあ、それはわかりません。とにかくこの土門晶義に会ってみるつもりです」
「だいじょうぶですか、もし相手が本当にそんな催眠術を使えるんだとしたら、ノコノコ会いにいったりして」
「通常、催眠術というものはかかるまい思っている相手には効果がないことになってますから、まあ、だいじょうぶでしょう」
「そうですが、そんな常識が通用する相手なのかどうか……」


 私が駐車場からスカイラインを出そうとしていると、近くに止めてあった黒いフェアレディZが、いきなり飛び出してきた。私のすぐ横をかすめるようにすり抜けて、スカイラインと鼻先を突き合わせる寸前で停止した。
 運転していたのは若い女だった。長い黒髪で、猫のような丸く吊り上がった大きな目がこちらを睨んでいた。
「なんだ、あんたは?」
「私の名は竹内麻耶。あなたに警告にきました」
 女はノースリーブの黒いワンピースを着て、胸元には大きく鮮やかな青い勾玉の首飾りを下げていた。
「警告だと。どういうことだ?」
「あなたが今かかわっている事件は、とても危険なものです。これ以上、深入りしない方が身のためです」
「ふん、怖じ気づいてちゃ商売にならないんでね。それよりあんた、『ネクロノミコン』て魔道書を盗んだのが、あんたとそっくりな女だって情報があるんだが?」
「そう、あれを盗んだのは私です。すでに焼き捨てました」
「焼き捨てましたって、それで済むと思うのか?」
「とにかく、あなたにも危険が迫っています。もうこの件にはかかわらないように」
 そう言うと女は、フェアレディを後へ急旋回させ、エグゾーストを残して走り去った。


2.

 女は『ネクロノミコン』は焼き捨てたと言っていた。それが本当なら当初の依頼に関して、これ以上調査を続ける意味はない。だが素性の知れない女の言葉を鵜呑みにすることはできない。事の真相を明らかにするためには、事件の全体像を把握したうえで、自分の目で確かめる以外に方法はない。結局、私にできるのは、与えられた手掛りを一つずつ辿ってみることだけだった。
 私はスカイラインに乗り込み、携帯でまず森谷惣吾へかけ、番号非通知の電話にはなるべく出ないように、そうでなくても通話中に奇妙な音が聞こえるようなら、すぐ切るようにと注意を与えた。
 次に土門晶義の研究所へ電話をかけた。
 呼び出し音が鳴り続けた。不在かと思いかけた頃、相手が出た。
「もしもし……」低く嗄れた声が言った。
「私立探偵の一条寺と申しますが、そちらは土門晶義さんの研究所ですね?」
「私が土門ですが」
「ああ、そちらでは何か催眠術に関する研究をなさっているとか。できればその件でお話をうかがいたいのですが?」
「話すのはいいが、今は忙しいところでね。夜にこちらに来ていただければ、何かと都合がいいのですが」
「夜というと、何時ごろでしょうか?」
「9時ではどうですかな」
「では、本日夜9時にそちらへうかがうということで」
「住所はおわかりか?」
「ええ、知っています」
「では」
 電話は切れた。
「ふう」何となく気圧されて、思わずため息が出た。
 夜まではまだ間がある。私はもう一度、茎田貴を訪ねることにした。
 この時間では部屋にいるとも限らないが、土門との約束の時間まではアパートの前で待つつもりだった。


 茎田のアパートについたのは午後3時すぎ。部屋には灯りが点いていた。
 ドアをノックすると、チェーンでロックしたままの隙間から茎田の丸顔がのぞいた。
「また、あんたか」茎田は不機嫌そうに小声で言った。
「事件について、少し聞きたいことがあります」
「もう、話すことはないよ」
「まあ、そう言わずに。ところであなたお仕事は何を、それとも学生さん?」
「バイトをしてたけど、しばらく休むことにしたんだよ。いろいろ危ない目に遭いかねないんでね」
「なるほど。例のオークションで、同じ人から魔道書を落札した三人がたて続けに死亡した、このことをあなたはご存知だったわけですね」
「ああ、知っていたよ。おれが四人目になるところだったんだからな」
「しかし、あなたはなぜ、他の三人の本名を知っていたのですか?」
「そんなこと、どうだっていいだろう」
「いや知りたいですね。この件が公になれば、警察もそれを知りたがるでしょう」
「何だよあんた、おれが犯人だとでも言うのか。犯人は森谷に決まってるだろうが」
「なぜです?」
「だってそりゃ、死んだ落札者三人とつながりがあるのはあいつだけじゃないか」
「でも、あなたも知っていたんでしょう?」
「お、おれは、教えられたんだよ……」
「教えられた、誰にです?」
「女だよ、いきなり訪ねてきて『あなたに危険が迫っている』なんて言い出してな。はじめは頭がおかしいんだろうと思っていたけど、教えられた三人の名前のうち二人は本当に死んでいることがわかったからな、もう一人も死んでるだろうと思ったんだよ」
「その女の名は?」
「たしか、竹内とか」
「竹内麻耶ですね?」
「ああ、そんな名前だった」
「で、その女は他に何を言ったんですか?」
「ううん、要するにああいう『ネクロノミコン』とかそういうものを欲しがるのは危険だということだったな。それを欲しいという気持ちを完全に捨てないと、この三人のようになるといって、名前を書いたメモを渡されたんだ」
「しかし、あの『ネクロノミコン』が偽物だということはわかっているんでしょう?」
「うん、たとえ偽物でも、魔道書などを所有したいという欲望があると心に隙ができる、その隙を狙ってくる悪い奴がいるんだって」
「なるほど心の隙ですか。おかしな電話はまだかかってきますか?」
「いや、今日はかかってきてないね」
「そうですか。まあ、しばらくは不審な電話には出ない方がいいでしょう」
「彼女からもそう言われたよ」
「その女は、なぜそういろいろ知ってるんだろう?」
「そりゃあ、本物の霊能者だからにきまってるでしょうが」


 そして夜。風が強くなってきた。雲が押し流されていくと、空には半月が昇っていた。
 近未来的な高層建築のならぶウォーターフロントを抜けて、まだ空き地も多い埋立地の倉庫街へ出た。そんな中に土門晶義の研究所はあった。まるで百年前から建てられていたような石造りの洋館だった。周囲には先を槍のように尖らせた鉄柵が巡らされている。三階建てで、屋根からは日本ではめずらしいガーゴイル像が訪問者を見下ろしていた。
 午後9時ちょうど、私はスカイラインを路上に止め、石段を登ると、大きな黒いドアの前に立った。金色の呼び鈴のボタンを押してしばらくすると、内側から扉は開かれた。
 あらわれたのは白いスーツを着こなした老人だった。
 長身痩躯で、白髪が肩まで波打ち、血色のいいピンク色の皮膚のその顔には、性格の厳しさを表すような深い皺が刻まれていた。
「お待ちしていました。私が土門晶義です」電話で聞いたあの嗄れ声が言った。
「一条寺蓮です」
 私は土門の後に従って建物の中へと足を踏み入れた。
 玄関ホールから左右に廊下が伸びていたが、土門は入り口の対面にある通路を進んだ。突き当たりのドアを開けると、その先には別世界が広がっていた。  まるで熱帯雨林のような巨大な植物に一面覆われていた。この建物は外から見ると普通の立方体だが、じつは回廊型になっていて、その内側は大きな中庭になっているのだった。
 間接照明が植物の緑を幻想的に浮き上がらせていた。シダやアロエなど裸子植物が葉を広げ、水路の上にマングローブの支柱根が絡み合うように蔓延っていた。毒々しい紅い花や、たわわに実った黄色い果物も見える。そしてそれら一つ一つが異常なほど大きく育っているのだった。
「すごい。ここの植物は、普通のものより大きいようですね」緑のトンネルを歩きながら私は尋ねた。
「モーツァルトを聴かせると、植物はよく育つというという話を聞いたことがありませんか。ここではその理論を独自に応用して植物の育成を促進する実験を行なっているのです」
「すると、やはり音楽で?」
「音楽というか、ある種の音響ですな。私が独自に開発したものです。この世界は音で満ち溢れている。クジラの歌は海中を伝わり、地球の反対側の仲間へ情報を送るといわれています。ある種の音の響きには、まだ人類が知らない秘密のパワーが隠されているのです」
「秘密のパワー?」
「そう。例えば呪文もそうです。あるいはヨーガのマントラも。中には口にするだけで死を招く危険なものもある。ジョン・ディーは、不死のオランウータンに文字を書かせつづければ、究極の呪文を見つけだせると考えた。あるいはアレイスター・クロウリーが《召喚の蛮名》と呼ぶもの、ラヴクラフトが恐怖小説の中で描いたのもそんな呪文です」
「ラヴクラフト……、あなたは催眠術の研究をしているのだと思っていましたが?」
「催眠術ね、それもわが精神音響学の一部ではある」
「土門さん。率直にうかがいたい。催眠術で人を殺すことは可能ですか?」
「殺人か、私にはとくに難しいことではない」
「あなたはそれを試したのですか?」
「ふん、何が言いたいのかね。私が人を殺したとでも?」
「それはわかりません。私が知りたいのは幡野数年、北本仁一、斎藤奈津郎この三人の死の真相です」
「彼らは、自ら死を選んだのだ。違うかね」
「だが、その原因を与えたのはあなたではないのですか?」
「私は教えてやったのだよ。偽の魔道書を手に入れて喜んでいる者どもに、真の呪文の力というものを。おかげで人間精神に関する貴重なデータを手に入れることもできたがね」
「では、やはりあなたが……」
 土門は足を止めた。
「さあ、着きましたぞ」そう言うと、手を広げ前方の眺めを披露した。
 そこから先は植物が途切れ、象牙色の大理石が敷きつめられた空間になっていた。
 その床には複雑な線模様と見たこともない文字のようなものが一面に描きこまれていた。そして一方の端には、奇妙な形をしたラッパ型のスピーカーが左右に配され、その中央には上部と側面にアンテナ線のようなもののついた筐体がコードに繋がれ置かれていた。その反対の端には、飾りのない木製の椅子が一つ置かれている。
「こ、これは一体……?」
「ふふふふふ、私の研究はこれより新たな段階を迎える。そのために必要な、大いなるパワーの召喚を行うための場所だ」
「どういうことだ?」
「一条寺君、気づいていないようだが、君はすでにわが術中にあるのだよ」
「何……だと……!?」
「君の身体はもう、私の命令なくしては動くこともできまい」
「うっ」私は突然、全身が金縛りにでもあったように動けなくなっていることに気づいた。「い、いつの間に」
「ふふふっ、人間には可聴域といって耳で聞き取れる音の範囲があるが、しかしその範囲外の音でも精神に影響を与えることはできるのだよ」
「く、くそう、何をする気だ?」
「安心したまえ、殺すつもりはない。君にはわが大事業の証人になってもらおうと思ってね。これから起こることの一部始終をその目で見届けてくれれば、それでいいんだよ。もっとも、正気を保っていられるという保証はないがね。ははははっ、では一条寺君、歩きたまえ、その椅子に腰掛けるのだ」
 土門にそう命ぜられると、私の身体は自分の意思とは無関係に動き出した。
 椅子に座らされた私は、目を閉じることすらできず、催眠術師の一挙手一投足を見守らねばならなかった。
 土門晶義は筐体に歩み寄り、スイッチを操作しながらアンテナ線に手をかざした。するとスピーカーからは、ヒュゥゥゥーンという風の鳴るような音が流れ始めた。
「これはテルミンという楽器を改造したものでね」
 音はゆるやかに音程を変え、音色自体も次第にこの世ならざる響きへと変化していった。
 土門はポケットから古びた紙束を取り出して言った。
「『ネクロノミコン』から書き写された呪文だ。もちろん本物のな。シベリア奥地の寺院に秘蔵されていたものを私が発見したのだ」
 そして土門は紙束を開き、そこに記された呪文を詠み上げはじめた。

  イア! イア! シュブ=ニグラス!
  千匹の仔を孕みし森の大いなる黒山羊よ!
  ザリアトナトミクス ヤンナ エティナムス
  ハイラス ファベレロン フベントロンテイ
  ブラゾ タブラソル ニサ
  ウァルフ=シュブ=ニグラス!

 手の動きにあわせて音が響きを変えていく。土門は呪文を唱えつづけた。
 いつの間にか、床に記された図形の上に青白い燐光を放つ靄のようなものがあらわれていた。やがてそこへダイヤモンド・ダストと呼ばれる現象のような、きらきらと輝く粒子が浮遊し始めた。きらめく粒子は渦を描いて回転し始めると、その中央に暗い影が拡がっていった。それはまるで宇宙の深淵がそこへ口を開いたかのような底知れぬ暗闇だった。暗黒の影は次第に拡大しつつ、同時に何か特定の形へと凝集しつつあった。
「な……、何だ、あれは……」私の口から思わず言葉が漏れた。
 じょじょにその形がはっきりしてきた。それは湾曲した巨大な角を持つ山羊の頭部に似た何かであった。
「うっ、うわぁぁぁ」

  イア! イア! シュブ=ニグラス!
  千匹の仔を孕みし森の大いなる黒山羊よ!

 土門の声は憑かれたように力強くつづいていた。
 だがそこへ、呪文の詠唱を断ち切るようなするどい声が響いた。
「やめなさい!」
 見るとそこには、黒いワンピース姿の女性が立っていた。まるで緑の木々が彼女のために道を開けたかのようだった。胸には大きな青い勾玉の首飾りが揺れている。あの女、竹内麻耶だ。
「な、何者だ、貴様っ!?」土門は血走った目を見開いて女を睨みつけた。
 彼女は首飾りの勾玉を首から引き千切るようにして手に取った。
「シュブ=ニグラス! 魔界の黒山羊よ、その穢れた蹄で、日本の土を踏むことは、この私が許さん!」
 竹内麻耶はそう叫ぶと、実体化しつつあった巨大な黒山羊めがけて青い勾玉を投げつけた。勾玉が山羊の頭部に命中すると、大音響とともに閃光が爆発した。
「ぐあぁっ、ぎゃぁぁぁぁーっ」光を浴びて土門は絶叫した。
 私の身体はいきなり緊張が解けた。そのせいでバランスを失い椅子ごと後へ倒れてしまった。
 光と爆音、それに絶叫はしばらく続いていたが、不意に沈黙が訪れた。
 私の目は眩しさにまだまともに周囲を見ることができなかった。
 コツコツと床を歩く靴音が近づいてきて、女の手が私を助け起こしてくれた。
 やっと視力が回復してきた。巨大な黒山羊は幻のように消えていた。床の上の焼け焦げだけがわずかにその痕跡を留めていた。土門晶義の姿はどこにもない。
「あの男は?」私は尋ねた。
「シュブ=ニグラスが異界へ帰る際にともに引き込まれました。どのみちもう生きてはいないでしょう」
 麻耶は床の上の何かに目を止め、そこへ歩み寄った。
 そこには、あの勾玉が砕け、消し炭のような真っ黒な残骸となって落ちていた。
「先祖から受け継いだ勾玉が砕けてしまった……。次に誰かがふたたび、この日本で邪神の召喚を行なおうとしても、もう私にはそれを止める力はない」
 彼女はていねいに拾い集めた勾玉の残骸を握り締めると「さよなら」と言ってその場から立ち去った。
 私には、ただその後姿を黙って見送るより他にできることはなかった。

2012年12月16日日曜日

神に見捨てられた土地


1.

 その日、私が浮気調査のための尾行を終え、事務所兼住居である雑居ビルへ帰り着いたのは深夜零時を過ぎた頃だった。
 ガレージの前に車を止めた。スカイラインが前の事件でオシャカになったので、今は中古で買ったシルビアに乗っている。
 シャッターを開けるため車から降りようとしたところ、暗がりから人影があらわれてこちらへ駆けよってきた。フード付きのモスグリーンのジャケットを着て肩から大きなショルダーバッグを下げた男だった。
「助けてくれ。一条寺」男は私の名を呼んだ。
「おぅ、白石じゃないか」
 その男は私の知り合いだった。名は白石尚之。本人はジャーナリストと言っているが、じっさいのところはヌードグラビアが売り物の三流ゴシップ誌に埋め草の記事を書くのが主な仕事だった。私は情報収集などで何度か仕事を手伝ったのだが、まだ代金は受け取っていなかった。
「助けてくれ」白石はもう一度言った。
「料金前払いなら、助けてもいいぞ」
「ふざけている場合じゃないんだ」
 白石はかなり焦っていた。私は助手席側のドアを開けた。
「どうしたんだ、いったい?」
「説明は後だ。車を出してくれ」
「どこへ?」
「どこでもいい。とにかくここを離れるんだ」


 白石の指示するとおりに、私はシルビアを走らせた。
 しばらく夜の街中を右へ左へとさまよった。白石は尾行を気にしているらしく、何度も後をふり返っていた。
「よし、どうやら尾けられてはいないようだ。じゃあ高速に乗ってくれ」
 白石はちょうど前方に見えていたランプウェイを指差した。
「おい、どこまで行く気なんだ?」
「たのむ、この仕事が上手くいけば大金が入るはずなんだ」
「ちぇっ、おまえの儲け話に乗ってろくな目にあったためしがない」
 そう言いながらも私はシルビアを首都高へのせた。
 白石はトラブルメーカーでもあったが情報屋としての腕は確かで、貸しを作っておいても損をする相手ではなかった。


「月沢村って知ってるか?」深夜の高速を飛ばしていると白石が言った。
「いや。そこへ行くのか?」
「そうだ。その村なんだが、人口は数十人という山奥の小さな村だったんだがな、一年ほど前、ある夜突然、村人すべてが消えてしまったと言われている」
「なんだ、都市伝説じゃないのか」
「ああ、実際はたんに過疎化がすすんで廃村になったのが真相とされている。だが大量殺人で村人すべてが殺され、犯人も自殺したという説もあるんだ」
「まさか、それほどの事件が本当にあったなら、もっと大きなニュースになってるだろ」
「しかし、いいか、もし本当に村人のすべてが一度に殺されてしまったとすれば、誰がそれをニュースにするんだ。犯人も自殺したなら事件そのものが発覚しないままうやむやになってしまうことだってありえると思わないか?」
「いくら山奥の村だって郵便配達ぐらいは行くんだろ」
「手紙がなければ配達なんか行かないさ」
「手紙が全く来ない村なんてあるか?」
「ああ、普通ならそんなことはないだろうな」
「普通ならって、とういうことだ?」
「つまり月沢の住民は普通じゃなかったってことさ。じつは大量殺人があったなんておれも信じちゃいない。過疎で廃村になったというのが本当だろう。だが、その後、その廃村に勝手に住み着いた人々がいたんじゃないかというのがおれの考えなんだ。郵便も受け取らず、電気も水道も使わずにな。そんな奴らなら、ある日突然消えちまったとしても、誰にも気づかれないだろう?」
「よくわからないな。一体どんな人間がそんなところに住んでたっていうんだ?」
「さあな。それをこれから調べるんだよ。とにかくあの村には何かがあるんだ。月沢のことを地元の人間はこう呼んでる。“神に見捨てられた土地”ってな」


 東京を離れ、しばらく行ったところで高速を降りた。
 白石の指示でさらに走りつづけると、街灯もない山道へ入っていった。
 深夜三時ごろ、もう乗用車では先へ進むのが困難な山奥へと着いた。
「もう進めないぞ」私は言った。
「よし、ここから先は歩きだ」地図を確認しながら白石は言った。
「まだ遠いのか?」
「いや、このすぐ先だ。一時間もかからんだろう」
「夜明けまで待ったらどうだ?」
「だめだ、奴らに先を越されるかもしれん」
「奴らって?」
「よくわからんが。この調査を邪魔しようとしてる奴らがいるんだ」
「おれはここで待ってるよ。眠くなってきたんでな」
「そうか。必要な調査が済んだらすぐ戻ってくる。それほど時間はかからんはずだ」
「ああ、がんばってくれ」
 白石は車を降り、懐中電灯で辺りを照らしながら、木々の間へ分け入るように進んでいった。やがてその明かりも闇の中へと消えた。
 私はシートの上で眠りについた。


 携帯電話の着信音で目を覚ました。
 周囲は暗く夜明けまではまだ間があるようだ。
 私は電話に出た。
「おい一条寺っ、た、た、たいへんだ」白石はひどく動揺していた。
「どうしたんだ、落ち着けよ」
「たいへんなものを見つけた……、とっ、とにかくこっちへ来てくれ」
「見つけたって、何を?」
「いいから、早く……まて……、あれは何だ……」
「おいっ、どうしたっ」
「こ、こっちへ来る……、うっうわぁぁっ」そして電話からは激しいノイズが聞こえた。
「どうした白石っ、おい白石っ」
 電話は切れていた。
 私はトランクから懐中電灯を出した。
 とにかく白石のところへ行ってみることにした。
 村までの道は茂みが踏み分けられたところを辿ることができた。
 しかし一体、何があったというのか。
 白石はヤバい相手に脅されながら取材をこなしたことも一度ならずあり、多少のことで恐慌をきたすような男ではないはずだが。
 夜明けが近づいて空がかすかに明るくなってきた。
 前方に大きな鳥居があった。古い神社のお堂があり、その先にもいくつか廃屋らしきものが見えた。
 どうやら月沢村へ着いたようだ。
 かすかに霧が流れていた。人の気配はまるでなかった。
 辺りを見回していると、神社の裏手の方でオレンジ色の明かりが揺れるのが見えた。
 そちらへ近づくと、人が倒れているのが目に入った。
 服と鞄に火がついて燃えていた。
「白石っ」
 人体発火現象か。私は駆け寄った。
 火を消すためにジャケットを脱ごうとして、すでにその人物が死んでいることに気づいた。
 首から上の頭部が切断され無くなっているのだった。
 辺りに血が飛び散っていたが、切り離された頭部はどこにも見当たらなかった。
 その時不意に、頭上になにか気配を感じた。
 見上げると、大木の上から梢を揺らして何かが飛び立ったところだった。
 それは黒い翼をはばたかせ、明るみはじめたダークブルーの空をぐんぐん上昇していった。
「あれは……、なんだ?」
 翼の形は蝙蝠に似ていたが、それにしては大きすぎる気がした。鷲かなにか猛禽の一種だろうか。 私は茫然と立ち尽くし、その妖鳥の影が空に消えるのをただ見守っていた。


 謎の黒い鳥が飛び去った後、足元を見ると何か光るものが落ちているのに気づいた。拾い上げて見るとそれは、小さな石英を思わせる先の尖った六角柱状の透明な結晶のようなもので、内部には電子部品らしきものが封じ込められていた。
 どんな用途の部品なのか想像もつかないまま、私はそれをポケットに収めていた。
 私はひどく動転していた。死体の様子もろくに調べずにシルビアへ戻ってきた。
 もっともジャケットも、ショルダーバッグも原型をとどめないほど激しく燃えていたので、メモなどがあったとしても灰になってしまっただろう。
 私は警察へ電話をかけ簡単に事情を説明した。
 しばらくするとパトカーがやってきた。
 二人組の警官を死体のもとへと案内すると、さらに捜査官の一団が呼び寄せられた。
 現場検証が始まり、私は西岡と名乗った刑事に事情聴取のためにと同行を求められた。
 警察署は周囲を田んぼに囲まれたのどかな場所に消防署と隣り合って立てられていた。
 私は昨夜からの出来事を一通り何も隠さず説明した。ただ、現場で拾った結晶状の部品のことだけは黙っていた。ポケットに入れたことを、その時は忘れていたのだ。
 西岡は笑顔が顔に貼り付いているような人のいい中年男だったが、私の証言をメモして部屋を出て行くと、しばらくして今度は厳しい顔つきをした二人の刑事がやってきた。
 この二人はあきらかに私を殺人犯と決めてかかっているような態度で証言を何度も繰り返させた。
 夕方近くになってやっと私は取り調べから解放された。
 西岡が車でシルビアを駐めた場所まで送ってくれた。その間に捜査の進展について多少話が聞けた。白石の頭部は未だに見つからないことや、一度は私が第一の容疑者と考えられていたことなど。事件当時、周囲数キロに白石と私以外に人間がいた形跡が全くなかったので仕方がなかったと西岡は言った。
 ではなぜ私の容疑は晴れたのかと尋ねたが、その理由は「上からの指示」という以外、西岡自身知らされていなかった。
 警察の車はシルビアを駐めた山道の行き止まりのところへ着いた。
「まあ、とにかく世の中には知らない方がいいこともあるってことですわ。あんたも探偵だからっていっても、こんな事件にはもうかかわらんことです」車から降りる私へ西岡はそう言った。
 別れ際に私は尋ねた。
「西岡さん。このあたりで何か大きな鳥はいますか?」
「鳥……ですか?」
「ええ、あの死体があったところで見かけたんです。大きな蝙蝠か、それとも鷲かなにか」
「鷲は見ないなあ。蝙蝠ぐらいはいるが、それも小さなものですよ」
「なにか、とにかく大きな鳥だったんですが……」
「少し前まではトンビをよく見たけど、最近はねえ、カラスばかりが多くなって」
「そうですか」
「まっ、くれぐれもこれ以上こんな事件には首を突っ込まないように」
 私はシルビアに乗り込んでその場を離れた。


 それから一月ほど、何ごともなく過ぎ無事に新年を迎えた。
 あの結晶状の部品は、机の上に投げ出したままになっていた。
 そして、正月気分も抜けてきた一月の最初の月曜日。一人の男が私の事務所へあらわれた。
 仕立てのいい黒いスーツを着て、小柄で痩せてはいるが、よく鍛えられていることがわかるがっしりとした体格、髪は短く刈っていて、眼鏡の下のその眼は抜け目ない鋭さを感じさせた。
「私立探偵一条寺蓮さん。あなたですな」眼鏡を光らせながら男は言った。
「そうですが、あなたは?」
「私の名は式輝充。政府機関《冥王星委員会》に所属する者です」
「何ですかそれは?」
「いろいろ極秘事項がありまして、まあ公安関係と理解しておいてもらいたい」
「そうですか。まあどうぞ」と私は応接用の椅子を勧めた。「で、今日は何を?」
 式は椅子に腰掛け、小さなモバイル端末を取り出すとちらりと画面に目を落としてから言った。
「あなたは昨年11月30日深夜、つまり12月1日未明ですが、月沢村で白石尚之氏の死体を確認した。間違いありませんね」
「ええ、確かに」
「では、これを見てください」と式は端末の画面をこちらに示した。
 その液晶モニターに表示されていたのは、どこかの街中の雑踏を写した画像で、中央には茶色のコートの人物が歩く姿があった。その横顔は確かに白石尚之のようだった。
「これは?」
「わかりませんか。背景をよく見てください」
 背景には商店街の飾りつけが見えていた。その垂幕にはこんな文字が書かれていた。
A Happy New Year 2008
 「どういうことだ、これは?」
「その写真は今年元旦に撮影されたものです。コンピュータで加工したなどと思わんでくださいよ。そんな手間をかけてまであなたを騙す理由はないんですから」
「待ってくれ、じゃあ……」
「そう、つまり、白石尚之は生きているということになりますな」
「ばかな。おれは確かに死体を見た」
「それが確実に白石本人と言い切れますかな?」
「……いや、ただジャケットとだいたいの体格は一致していたが……何しろ首がなかったし」
「そう、首の切断。その謎も、あの死体が別人のものであったとすれば説明が付く」
「つまり、はじめから自分が死んだと思わせ、他人と入れ替わるためにあの場所で……」
「そう、余計な目撃者のいる心配がなく、都合のいい証言をしてくれるだろうあなた一人を現場へ立ち会わせるために、あの夜、白石はあなたを月沢村へと連れだしたのです」
「あいつは何のためにそんなことを?」
「なぜでしょうな。われわれもそれを調査中です」
「あんたは公安と言ったな。なぜ公安の人間がこの事件を調べるんだ?」
「先にも言いましたが、いろいろ機密がありましてね。いや、実はわれわれはあるいはあなたも共犯ではないかと踏んでいたんだが、どうやら見込み違いだったようだ。では、そろそろお暇します」
 式は立ち上がりながらスーツのポケットから名刺サイズのカードを取り出し、こちらへ差し出した。ただ11桁の数値が一行印刷されているだけのカードだった。
「電話番号です。もし白石尚之から連絡があった際にはそちらへお知らせ願います。何時でもかまいませんから。では」と、軽く頷いて式は事務所のドアを出て行った。


 その日、私は知り合いの探偵社から回してもらった下請けの仕事をキャンセルしてしまった。
 午後から白石の住んでいたマンションを見に行った。
 だが、部屋はすでに片付けられ、郵便受けには空室の表示が出ていた。
 白石がよく原稿を書いていた週刊誌の編集部に電話をしてみると、昨年後半ごろからは彼に原稿の依頼をしても、他に仕事があるのでと言って何度も断られたということだった。それがどんな仕事なのかはその編集者も知らなかった。
 他にも出版関係の知り合いなどにあたってみたが白石のことで情報は得られなかった。
 結局何の手掛りもないまま、夜になって私は探偵事務所へ帰った。
 私は迷っていた。明日以降も金になる当てもないまま白石の件の調査を続けるか。それともまた浮気調査の尾行に戻るべきか。
 その時、電話が鳴りだした。
 私は受話器を上げた。「はい、こちら一条寺探偵事務所」
 だが、相手は無言だった。ズザザーという雑音が聞こえた。
「もしもし」私は呼びかけた。
「……、い、ち……」
「えっ、何だって、よく聞こえないんだが」
「い……、ち、じょ……、じ」雑音の中から途切れ途切れに声が聞こえた。その声には確かに聞き覚えがあった。
「し、白石か?」
「そ、う……だ」
「おい、おまえ、やっぱり生きていたのか」
「うぅ……、きけ」
「なんだ、どうしたんだ?」
「し……ら、べ……ほ、しの……ち、え……ぅ、か、い……し、らべ……、ろ……」
 雑音が激しくなり声は聞こえなくなった。
「おい、白石っ、聞こえない。何と言ったんだ。何を調べろと?」
 電話は切れてしまった。
 発信者の番号を表示させると〈44444444444〉となっていた。一応その番号にかけてみたが、どこにも通じなかった。
 おかしい。今のは普通の通話ではなかった。声は確かに白石のものと思えたが、しゃべりかたは、まるで首を絞められながら必死で言葉を発しているかのようだった。
 最後に聞き取れたのは確かに「調べろ」という単語だった。だが、何を?
 私に思い出せるのは「ほしの……ちえ……かい」という、そんな苦しげな囁きだった。


2.

 翌朝、私は早くからシルビアを出した。行く先は決まっていた。昨夜のうちにパソコンを使って、適当に当たりをつけて検索してみると〈星の智慧〉教会なるものが存在することが判明したのだった。
 杉並区の住宅街の中にある一見普通の古びたマンションが〈星の智慧〉教会の本部だった。小さな看板を出している以外、外見からは宗教関係の施設とわかる特徴はなかったが、五階建てのマンション全体が教会によって専有されていた。
 私は、車を近くの路上に止めマンションの玄関に入っていった。鍵はかかっていなかった。ひと気のないロビーの片隅にはテーブルがあり、その上には「星の声」というタイトルのパンフレットが置かれていた。一部手にとって中を見てみると教祖らしき人物の写真が載っていた。角ばった顎をした白髪の男で名は天光院大聖と記され、「『死霊秘法』の奥義により悟りを開いた大導師」などと説明されていた。
 ロビーの奥には鍵のかかった扉があり、先へ進むにはインターフォンで人を呼ばなければならなかった。だが、いくらボタンを押しても応答はなかった。「ごめんください」と大声で呼んでみても返事はなく静まり返っていた。まるで建物全体が無人のようだった。
 そこへ眼鏡をかけた坊主頭の若い男が一人息を切らせて駆け込んできた。宗教儀式用のものらしい奇妙な白装束を身に纏っていた。
「あれっ、なんですか、あなたは?」私に気づいて男は言った。
「いや、ちょっと見学させてもらおうと思って」
「こまったな、いまここは誰もいないんですよ」
「あなたは、ここの教会の人でしょ」
「えっ、ええ、そうですがね。ぼくはちょっと忘れ物をとりに来ただけなんで」
「では、ここのみなさんはどちらへ?」
「ああ、いや、ちょっと信者の方でないのなら教えられないんですよ。最近はそのマスコミやなんかもいろいろうるさくって」
「そうですか。何かあったんですか?」
「いや、ちょっと。とにかく忙しいもので」
 そう言うと白装束の男はもう私のことは無視して「ああ忙しい、忙しい」とつぶやきながら鍵を開けドアの奥へ入っていってしまった。
 私はマンションを出てシルビアに戻った。
 近くに白いハイエースが駐車されていた。しばらく待っていると、マンションから黒い鞄を抱えて白装束の若い男が出てきて、ハイエースに乗り込んだ。
 慌てたように走り出すその車を、私は尾行した。


 白いハイエースは高速に乗って北へ向かっていた。
 尾行には気づいていないようだった。普通の人間は尾行の有無など気にしないものだ。だが、私は気にしていた。〈星の智慧〉教会のマンションを出て、しばらくしてからずっと同じ黒いBMWがなんどもバックミラーに写っていた。ドライバーの顔は確認できなかった。
 私はハイエースが高速を下りた時点で追跡をやめた。もう行き先はだいたい見当が付いたからだ。そこは以前、月沢村へ白石を送った時と同じ道だった。私は脇道へそれ、そこでBMWが追いついてくるのを待つことにした。だが尾行車はいつまでたっても現れなかった。単なる思い過ごしだったか、あるいはルートを変えたのか。
 私はあらためて月沢村を目指すことにした。山道の行き止まりへ近づくと、道沿いに車が何台か見えた。マイクロバスや乗用車と並んで最後尾にあの白いハイエースが駐められていた。人の気配はなかった。車の数からすると百人近くが月沢村へ向かったと思われた。
 そこからは徒歩で村へと向かった。近づくうちに何か唸り声のようなものがかすかに聞こえてきた。はじめは耳鳴りかと思った。だがさらに村へ近づくと、それは呪文の詠唱のようなものであることがわかった。低く唸るような大勢の男女の声が混ざり合って響いていた。

  うざ・いぇい! うざ・いぇい!
  いかあ はあ ぶほう――いい
  らあん=てごす くとぅるう ふたぐん
  らあん=てごす
  らあん=てごす
  らあん=てごす!

 こんな呪文が途切れることなく繰り返されていた。
 月沢村へ着いた。村の中央辺りの広場に篝火が炊かれているのが見えた。私は廃屋の陰に隠れながら近づいて様子を窺った。

 白装束の人々が何十人も輪になって地面に座り、呪文を唱え続けていた。輪の中央には五芒星を円で囲った魔方陣のようなものが描かれ、そこへ胡坐をかいて座っているのが大導師と呼ばれる天光院大聖だった。
 信者たちは目を閉じて両手を合わせ一心に呪文を唱えつづけていた。
 しばらくすると、大導師の頭上1メートルほどのところ光り輝く点があらわれた。
 輝点は次第に大きさを増し虹色の光芒を放ち始めた。
「おおっ、光が」信者の一人が気づいて声を上げた。
 他の信者たちもざわつきだしたが大導師は呪文の詠唱をつづけていた。
 やがて虹色の光芒に暗黒の裂け目が広がったかと思うと、そこから黒い翼の生物が飛び出してきた。巨大な青い甲殻生物でザリガニのような鋏と蝙蝠のような翼をもっていた。それはまぎれもなくあの白石の死んだ夜に飛び去った凶鳥の姿であった。
「うわぁぁぁっ」
「なんだあれは」信者たちが悲鳴を上げた。
 青い甲殻生物は暗黒の裂け目より何体もつづけて舞い降りた。
 その姿を目にして大導師は驚愕した。
「な、なんだ、お前達はっ。ちがうっ、いや、これがラーン=テゴスなのか……」
 甲殻生物が大導師の首に巨大な鋏で切りつけた。
「ぐっ、があぁぁぁっ」血しぶきをあげながら切断された頭部が地面に転がった。
 信者たちはたちまちパニックに陥った。叫び声をあげながら逃げ惑う人々へ甲殻生物は空中から襲いかかった。信者たちはつぎつぎと血を吹きながら倒されていった。
 信者たちが村から逃げ去るまでに、十人ほどが犠牲になっていた。
 甲殻生物は信者らを村の外までは追って行かず、倒れてもがいている者たちにとどめを刺し、それぞれ死体を引きずって一箇所に集め始めた。そして鋏状の手で、死体の首を切断していった。すべての死体から頭部を切り取ってしまうとそれを、虚空から取り出した金属性らしい円筒型の容器に詰め込んだ。すべての首の収容を終えた甲殻生物たちは、金属円筒を足でつかむと、翼を広げ、空高く舞い上がっていった。
 十数体の黒い影は力強く上昇をつづけ、やがて空の彼方へと消え去っていった。


 私はしばし茫然とその場に立ち尽くしていた。足元には頭部を失って血液をまきちらした死体かいくつも転がっている。自分の見たものを信じることが出来なかった。
「やれやれ、ひどいことになったもんだ」背後から誰かの声が聞こえた。
 振り返るとそこには黒いスーツの男、式輝充が立っていた。
 式は私と目が会うと、にやりと笑みを浮かべて言った。「おっと、今度は警察を呼んだりしないでくださいよ」
「BMWで尾けていたのはあんたか?」私は尋ねた。
「ええ、まあね」式は死体の一つに屈みこんで切断面の辺りを観察しながら言った。「死体はうちのほうで片付けておきますから、ご心配なく」
「これだけの事件を揉み消すつもりか?」
「そうせざるを得ないでしょうな。あなたにも少しばかり協力してもらう必要がある」
「協力……どういうことだ?」
 式は立ち上がってこちらを向いた。
「なに、記憶の一部を消去するだけのことです。よけいな心配をしなくてすむようにね」
「記憶の消去だって、そんなことに協力する気はない」
「まあ、そう言わずに。消去がすめば、その後は不安もなく以前と変わらぬ日常を送れるようになるんですから」
「断る」
「そうですか。ならば仕方がない」
 式の手にはいつの間にか奇妙な形をした拳銃が握られていた。
 引き金に指が掛けられた。眩い閃光が視界を覆った。


 ドサッ、と人が倒れる音を聞いた。
 眩しさに目がくらんで何も見えなかった。
 視力が戻ると、私は同じ場所に立っている事に気づいた。倒れたのは式輝充のほうだった。目の前には茶色のコートを着た人物が立っていた。
「白石……」
「すまなかったな、こんなことに巻き込んでしまって」白石尚之は言った。
「おまえ、……やっぱり、生きていたのか……」
「ああ、〈星の智慧〉教会が危険な儀式を行なおうとしているのがわかったので、おまえに止めてもらいたかったんだが、手遅れだったな。あの大導師、この村に異次元の通路があるのを感知したのまではよかったが、生半可な知識で邪神ラーン=テゴスを呼び出そうとはね。バカな真似をしたものだ。ユゴス星の甲殻生物たちが怒り狂うのも無理はない」
「おれには、どういうことだかさっぱり……」
「かれらは人間に自分たちの存在を知られることを好まない。しばらくはこちらへ出て来るのも控えるだろう」
「しかしおまえ、あの夜、ここにあったのはおまえの死体じゃなかったのか?」
「あれは確かにおれの身体だよ。あの時まではおれも本当に何も知らず、ただの取材のつもりだったんだ。しかし……」
「なんだ、何があったんだ?」
「昔は、脳だけ取り出して持っていったらしい。だが、近頃は首ごとだ、そうすればほら、人間に化けるのにも便利だからな」白石は両手を広げて自分の体を示して見せた。
「人間に……化ける……、お前は人間じゃないのか?」
「ああ、脳はもとのままだがね。すまないが、ゆっくり説明しているひまはなさそうだ。おれも行かなきゃならない」
「行くって、どこへ?」
「ユゴス……。いや、いずれ機会があったらその時に説明しよう。じゃあな」
 そう言うと、白石は胸の前で、右手で左手首の大きな腕時計のようなものに触れた。
 するとキィィーンという騒音が響き、ふたたび激しい閃光に視界を奪われた。
 私はガラスの砕け散る音を聞いた。そして、大きな翼の羽ばたく気配だけを感じていた。
 やがて、騒音と光の奔流がやんだ時には、もう羽ばたくものの姿は消えていた。足元に倒れているのは、茶色のコートを着た身体で、首から上はなくなっていた。
 その身体は人間のものではなかった。外形だけ人体を模造したその中身は、あの六角柱の結晶状の部品がぎっしりと詰め込まれていたのだった。

2012年12月12日水曜日

雨の恐怖

  ゲリラ豪雨で会社員男性(32)死亡!?
 16日未明。東京都大田区在住の会社員男性Yさん(32)がJR蒲田駅近くで、ずぶ濡れになって倒れているところを発見され、救急隊員が駆けつけた時にはすでに死亡していた。解剖の結果、この男性は肺に雨水が溜まっており溺死と判明した。現場附近では深夜3時ごろ突然雨の音が異常に高まるのを聞いて目を覚ましたという住民が多数おり、警察では突発的に降りだしたごく局地的な集中豪雨がなんらかの理由でこの男性を溺死させたのではないかと見て捜査を進めている。
 東京地方は昨日までで37日間連続して雨という異常気象に見舞われており、気象庁では今後も同様な被害がさらに増える可能性もあるとして注意を呼びかけている。
  そんな新聞記事を読んでいると、電話が鳴りだした。
 私は受話器を取った。
「はい、こちら一条寺探偵事務所」
「私は饗庭というものですが、私立探偵の一条寺蓮君というのはあなたですかな?」
「そうです」
「仕事を頼みたいのですが、こちらまで来てもらえるでしょうか?」
「すぐ伺います」
 私はガレージから愛車スカイラインGTを出して依頼人の家へ向かった。
 東京は今日も小雨が降っていた。
 電話の男から告げられた住所は大田区田園調布。依頼人はそこに自宅とともに研究所をかまえているという科学者らしかった。
 目的の住所に着いた。
 かなり大きな屋敷だ。屋上に天文台のようなドームのある建物と、庭にはガラス張りの温室が見えた。
 入り口の門柱には〈工学博士/饗庭成啓〉と記された表札とともに〈饗庭波動研究所〉という看板が掲げられていた。インターフォンで到着を知らせると自動でゲートが開いた。
 敷地内に車を止めると、白衣姿の男が迎えに出てきた。
 白髪をきれいに整えた落ち着いた感じの男性で、老人と言える外見だったが、きびきびとした物腰は年齢を感じさせなかった。
 饗庭成啓と名乗ったその男の案内で私は実験室らしいところへ通された。
 ガラスの仕切りの向こう側にテニスボールほどの銀色の球体が設置されていた。
「ここはテスラコイルの実験をしている所です」と饗庭博士は説明した。「ニコラ・テスラが発明した高周波発生器です。ニコラ・テスラというのはユーゴスラビア生まれの発明家で、交流電力を発明し、当時直流を信奉していたエジソンを打ち破った人物です。私が行っているのは、このテスラコイルを小型化しつつパワーも強化する実験です」
 博士がコンソールのスイッチを入れると、銀の球体から青白い稲妻が周囲へ弾け飛んだ。「では、応接室へまいりましょう」


 その部屋にはガラスケースに収められた小さな電子部品のようなものがいくつも展示されていた。それらは全て饗庭博士の発明品なのだった。
「早速ですが……」と博士は一枚の写真を私に差し出した。
 そこには暗い目つきをし、頬のこけた男の顔が写されていた。
「これは?」
「以前、私の助手をしていた男で、名は雨宮豪。ちょっと問題があって辞めてもらったのです。その男について調査して欲しいのですが」
「問題と言うのは?」
「雨宮は優秀な科学者であることは確かなんだが、あまりにも危険な研究を強引に推し進めようとするところがあって」
「なるほど、で、調査とは具体的には何を?」
「それがですね、一週間ほど前のことなのですが、うちの研究所から重要な実験データが盗まれる事件があって、その犯人がこの雨宮と思われるのです」
「データ……ですか?」
「ええ、部外者には何の意味もない一組の数値なのですが。実際それを持ち出したのは、私が技術顧問をしている電機メーカーの開発部員で、うちの研究所にも出入りしていた八木という者らしく、この男が雨宮に買収されていたようなのです。そしてこの八木という男、一条寺さんもご存知ではないでしょうか、今朝、蒲田駅近くで溺死していたところを発見されたのですが」
「ああ、その事件なら新聞で読みましたけど、それじゃあ、まさか……」
「いや、はっきりしたことはわからないのですが、雨宮が口封じのために殺害した可能性もあります」
「雨宮という男、いったい何をしようとしているのです?」
「今のところは、まだ何とも言えません。雨宮が今どんな研究を進めているのか、それがわからないことには……。一条寺さん、それをあなたに調査していただきたいのです」


 私は饗庭邸を出ると、スカイラインで多摩川を渡り神奈川県へ入った。
 饗庭博士から聞いた雨宮の住所は、川崎市の小さな工場や安アパートが密集した地域にあって、中でも一際ボロい木造アパートの一室だった。
 私は車を路上に止め、薄暗い裸電球の点されたアパートの廊下へ入っていった。
 一番奥が雨宮の部屋だった。ドアの前で耳を澄ましてみたが、人の気配は感じられなかった。
「ブゥゥゥーン……ブゥゥゥーン」という機械音が低く聞こえた。
 そっとドアノブに手をかけてみたが鍵がかかっていた。
 一度アパートを出て建物の裏に廻ってみた。雨宮の部屋の窓からは、奇妙なアンテナのようなものが突き出していた。衛星放送の受信用のものとも形が違う。木造アパートにはどう見ても不似合いな複雑な機械の一部のようだった。
 そのアンテナのためにアパートの窓は細く開けられたままになっていた。
 そこから部屋の中を覗くことができそうだと思い、私は顔を寄せた。
 暗い部屋の中に大量の電子機器が乱雑に並べられているのが見えた。畳の上に何本ものケーブルが絡み合うように這い回って、ところどころモニターやLEDが光を放っていた。
「おいっ、何をしている」突然、背後からするどく声をかけられた。
 そこに立っていたのは黒いレインコートを着た、ぼさぼさの髪で、顔色の悪い暗い目つき男だった。饗庭から見せられた写真の顔だ。
「あなた雨宮豪さんですね?」私はたずねた。
「何だと、お前こそ何者だっ」
「私は私立探偵、一条寺蓮という者です」
「探偵がこんな所で何をしてるんだ」
「まあまあ落ち着いて、そんなことよりこの機械は何なんですか?」
「お前の知ったことじゃない。とっとと帰ったほうが身のためだぞ」
「それはどういう意味です?」
「はっきり言ってやろう、今度ここへ近づいたらお前を殺す」人差し指を私の顔の前に突き出しながら男は言った。
「それじゃあ、八木を殺したのもやっぱりあんたなんだな」
「ふふっ」と雨宮は唇を歪めて笑った。「それはどうかな、近頃は突然激しい雨が降ることもあるそうだからな」
「いくら激しい雨だからって、人が溺死するもんか」
「はははっ、お前もせいぜい気をつけることだ。はははははっ」
 笑い続ける雨宮をその場に残して私は車へ戻った。


 雨は次第に強くなり、遠く雷が鳴るのも聞こえてきた。私はスカイラインを走らせ自宅兼事務所へ帰った。
 依頼人へ電話を入れた。
 私が雨宮のアパートで見たものを告げると饗庭博士は言った。「やはりあの男、一人で研究をつづけていたのですね。これは恐ろしいことになるかもしれない」
「何ですか。恐ろしいことって?」
「それは、まだ何とも……。研究がどの段階まで進んでいるかによるのだが」博士はしばらく考えてから続けた。「それを知るためには、一条寺さん、もう一度そのアパートへ行って、あなた見たという機械の写真を撮ってきてもらうのが一番なのだが」
「しかし、雨宮があの部屋に居座っているとなると難しいですね。確実に長時間部屋を空けている時がわかればいいのですが」
「ふうむ、ではこうしましょう。私が雨宮をうちへ呼び出すことにします。新しい実験データをエサにすれば彼もいやとは言えないでしょう。その隙に一条寺さんあなたがアパートへ忍び込み写真を撮るのです」
「わかりました。やってみましょう。ですが、饗庭博士あなたもじゅうぶん気をつけて下さい。奴は常軌を逸しているように思います。私も殺すと言われたんですよ」
「ええ、それはよくわかっています。ですがこれは、とても重大な問題なのです」
「どういうことなのか、もう少し詳しく話してくれませんか」
「しかし……」饗庭はしばらく黙って考え込み、やがて言った。「そうですね。お話しておくべきかもしれません。ですが信じてもらえるかどうか」
「とにかく話してみてください」
「では……、一条寺さんはウィルヘルム・ライヒという人物をご存知ですか?」
「いえ」
「このライヒというのはもとは心理学者フロイトの弟子だったのですが、後にアメリカへ渡り、そこで〈オルゴン・ボックス〉と呼ばれる特殊な装置の発明したのです。これは大気中から〈オルゴン・エネルギー〉なるものを集めることができ、元来は神経症の治療に役立てるためのものでしたが、研究を続けたライヒはやがてそれが雲を呼び、自由に雨を降らせる能力があることに気づいたのです。そして雨宮は言わばこのライヒ博士の研究を引き継いでいたのです。それでも当初はたんに人工降雨についての研究にすぎなかったのですが、ある時、ライヒの未発表の資料があるらしいという噂を聞きつけアメリカのミスカトニック大学に渡ってから、彼はおかしくなっていったのです。その大学は異端科学やオカルト文献の蒐集で知られていて、雨宮もそこで世界を滅ぼしかねない危険な知識に取り憑かれてしまったのです……」
 その時、窓の外で雷が光った。電話に雑音が入ったが饗庭はかまわず話し続けていた。
「……すべて本当のことなのです。ライヒの〈オルゴン・エネルギー〉、ニコラ・テスラの〈世界システム〉も……、さらにティモシー・リアリーはLSD実験で、ジョン・C・リリーはイルカの生態の研究からそれぞれ同じ、ある〈大いなる力〉の存在に気づいたのです。しかしそれらの研究のほとんどは、危険に気づいた研究者自らの手で封印されたか、あるいは政府機関による妨害によって公表されないままになっているのです。……お分かりですか、一条寺さん」
「えっ、ええ、いや……何のことだか……」
「これ以上のことは私には言えません。しかしあるいはパルプ雑誌に寄稿していたある怪奇小説家たちのグループが海底に眠る邪神〈ク・リトル・リトル〉と呼んでいるものが、その〈力〉の源泉に相当するのかもしれません」
 それから饗庭博士は、雨宮に部屋を空けさせる時間を決め「くれぐれも慎重に」と念を押して電話を切った。
 ふたたび、雷鳴が轟き閃光が走った。雨はいっそう激しさを増していた。


 翌日も、昨夜よりはかなり小降りになったものの、まだ雨は降り続いていた。
 私は車を出し打ち合わせどうりに雨宮のアパートへ向かった。
 川崎市内に入り駅前の繁華街を過ぎた辺りで、雨足が強くなった。
 雨は短時間のうちに異常なほど強まっていった。
 ワイパーをかけてもまともに前が見えないくらいで、ルーフを叩く雨音はまるで機関銃で撃たれているようだった。
「これがゲリラ豪雨というやつか……、まずい、このままでは……」
 とても、まともに走れる状態ではなかった。もはや雨というより、水の壁に突っ込んでいるようだった。
 並みの豪雨で自動車が走れなくなることはないが、これではプールに飛び込むのと変わらない。こうなると怖いのは電気系統のショートと、さらにはエンジンが水を吸ってシリンダーが吹き飛ぶ危険もあった。
 とにかく一時的に雨を避けられる場所を探さなくては。
 運よくすぐ目の前に立体駐車場の入り口が見えた。緩やかな下りのスロープになっている。
 時間貸しの無人駐車場だった。いったん地下に降りてからエレベーターで各階へ上がる仕組みだった。
 地下へ降りると、とりあえず直接降りかかる雨は避けられたが、スロープを伝って水はどんどん流れ込んできていた。
 雨水の流れは止まらなかった。地下では水の逃げ場はなく溜まっていく一方だった。水流は勢いを増し続け、しまいには決壊したダムの濁流のようになった。
 私のスカイラインの中にもドアの隙間から水が流れ込んできていた。
 水の圧力でもはやドアを開けることはできなかった。私はウィンドウを開け何とかルーフの上へ這い上がった。
 その直後には、もう車体が完全に没するほど水かさは増していた。
 間もなく私の身体は激流に押し流された。空気を求めて水から顔を出しているのがやっとだった。
 その時になってようやく私は気づいた。これは私を溺死させるための罠ではないかと。
「しかし、そんなことが……」
 そんなことが可能だろうか。雨宮は雨をコントロールできるというオルゴン・ボックスの開発に成功したのだろうか。
 天井に並んだ蛍光灯がバチバチと火花を上げながら点滅し始めた。溺死の前に感電死するかもしれない。
 私は必死で逃げ道を探した。天井の一画にステンレス製の正方形のハッチが見えた。非常時のための避難用脱出口だ。なんとかあそこへたどり着ければ……。だが下側からでは開けられないのでは。そう思いながらその下へ泳ぎ着いたが、手が届かない。水かさが増すのを待っていては感電の危険があった。どうすれば……。
 その時、ハッチが開いた。
 上の階に人がいたのだ。
 そこから顔をのぞかせたのは饗庭博士だった。
「おお、無事でしたか一条寺さん」
「博士、どうしてここへ」
「いいから早く、これに掴まって」
 饗庭博士は設置されていた避難用のはしごを降ろしてくれた。
 私は何とかやっと上のフロアへ這い上がることができた。


 私はずぶ濡れのままその場にへたりこんだ。
 そこは駐車スペースの間の通路だった。
 饗庭博士は足元に大きな黒いトランクを置いていた。
「すまない、危険な目に遭わせてしまって」
「よくここがわかりましたね」
「実は、こうなるだろうことはあらかじめ予測していたのだ。申し訳ないとは思ったが、君を奴をおびき出すための囮にさせてもらった」
「すると、やはり、この雨は雨宮が……」
「そうだ、奴もこの近くにいるだろう」
 その時、急に風向きが変わり雨滴が吹き込んできた。
 雨がカーテンのように降りしきる吹き抜けになった空間を背にして男の人影があった。
「雨宮……」博士はつぶやいた。
「邪魔はしないでもらいましょうか、饗庭博士」雨宮は言った。
 彼は手に長いアンテナのついたラジコンカーのコントローラーのような機械を持っていた。
「何をする気だっ」
「私の研究の邪魔をするものは、皆死んでもらう」
「これ以上罪を重ねる気なら、私も容赦しないぞ」
「ふははっ、饗庭博士。あんたには世話になったが、研究が完成した今となってはもはや用済みだ。二人とも死ぬがいい」
 雨宮は手にしたコントローラーを操作しはじめた。
「あれは、オルゴン・ボックス……。危険だ離れていたまえ」饗庭博士は言った。
「しかし、博士は?」
「心配しなくていい。私にはこの強化型テスラコイルがある」
 そう言って饗庭博士がトランクの中から取り出したのは、あの銀色の球体だった。  私は博士に促され柱の影に身を隠した。
 吹き込む雨の量が異常なまでに多くなった。
 そして間もなく雨は巨大な水の塊となって博士に襲いかかった。
 博士は銀の球体を掲げスイッチを入れた。
 たちまち稲妻状の青白い光が走った。
 大量の水蒸気が発生し、視界が効かなくなった。
 たちこめる白い靄の向こうに、何度となく青白い閃光がバチバチと音を立てながら明滅した。
 やがて静かになった。風が蒸気を押し流すと、そこに立っていたのは饗庭博士一人だった。
 雨宮は黒焦げになって床に倒れていた。
「あ、饗庭博士……」
「行こう。雨宮は死んだ」
「しかし、彼はあのままでいいのですか」
「放っておけばいい。警察は落雷で死んだと思うだろう」
 それから我々は博士のアウディで雨宮のアパートへ行った。
 博士は部屋に設置されていた機械類すべてを破壊した。
「これで、間もなく雨は上がるはずだ」饗庭博士は言った。
 博士の言葉どおり、その日の夕方には雨は止み、厚い雲の切れ間から陽が射すのが見えた。


 翌朝は快晴だった。
 各テレビ局のニュースは念願の梅雨明けがついに発表されたことを一斉に報じていた。

2012年12月5日水曜日

幻想文学研究会


1.

 その高校には普段は使われていない部屋が幾つもあった。それらは、普通の教室の半分ほどの小さな部屋で、大抵は不用品を投げ込まれ、単に「倉庫」と呼ばれていた。
 ある日の放課後、遠野守が教室で友人と無駄話をしていると、高橋という国語の教師がやってきて、古くなったロッカーを運ぶのを手伝うようにと命じた。
 守は友人と二人でそれを指示された倉庫へ担いで行くことになった。ロッカーといっても中は空なのでたいして重くはなかった。倉庫について引き戸を開けると、そこは古い机や椅子がいっぱいで、新たに物を入れる余地はなさそうだった。二人は中へ入って少し整頓することにした。
 守が壁際に置かれていた机を動かすと、たて掛けられていた大きなベニヤ板が倒れてきた。
「うわわ」彼はあわててそれを両手で支え、もとへ戻した。「な、何だこれは」
 見るとそのベニヤは文化祭のときに使った立て看板のようだった。
 全体に黒いペンキが塗られ、真ん中に殴り書きのような赤い文字で《アウトサイダー》と書かれていた。その横に〈原作H・P・ラヴクラフト〉〈本日午後三時より生物室にて朗読会〉とあった。
「ラヴクラフトの朗読会か。不気味だなあ。それも生物室とは」
 生物室といえば、爬虫類の標本や内臓の露出した人体模型が部屋中に飾られているところだ。
「何だそれ?」と友人が聞いた。
「小説だよ。アメリカの古い怪奇小説」
 守はちょうど最近「アウトサイダー」の入った作品集を読んだところだった。ゲーム雑誌でホラーゲームの原作として紹介されていた、ラヴクラフトやその影響を受けた作家たちによる〈クトゥルフ神話〉に興味を持ったためだった。
「朗読会なんて、どこのサークルがやったんだ?」
 その看板には〈主催・幻想文学研究会〉と記されていた。片隅に張られた掲示許可の日付は1999年のものだった。
「幻想文学研究会だって。聞いたことあるか?」
「いいや」友人は首をふった。
 そこへ国語教師高橋が大きなロッカーを器用に一人で背負ってきた。
「何やってんだ、お前ら。早く片付けろ」
 彼らは何とか場所をつくってロッカー二つを収めた。
 教室へもどる途中で守は教師に質問した。
「先生、うちの学校に幻想文学研究会なんてありましたっけ?」
「ああ、あるぞ。三、四年前までは盛んに活動していたな。最近はどうなのかなあ。顧問はたしか吉川先生だから聞いてみるといい」


 翌日の昼休み、守は教員室に行って世界史の教師である吉川に幻想文学研究会について尋ねた。守は高校二年の今までとくに部活動というものをやっていなかった。だが、昨日あの立て看板を目にしてからというもの、なぜかずっと気になっていて、できるなら自分も参加してみたくなってきたのだった。とは言え、ラヴクラフトの短編集を一冊読んだ以外は幻想文学のことなど何も知らないのだが。
 白髪で山羊のような顎髭を生やした吉川先生は、銀縁の眼鏡をずり下げて遠野守の顔を見た。
「何、幻想文学研究会。あぁ、確かに私が顧問だよ。と言ってもただ名前だけ貸してるようなものだが」
「じゃあ、今でも活動しているんですね」
「ふむ、だがなぁ。去年ほとんどの部員は卒業してしまって、今年入った者もいないので……」吉川は机の引き出しを開けて中を探った。名簿を見つけ出すと、それを広げて指で名前を追った。「おお、今のところ部員は一人だけだ」
「えっ、一人ですか」
「うむ、二年C組永沢ひろみだよ」
 守はD組なので隣の教室だが、名前を聞いても顔は思い浮かばなかった。


 その日の六時間目の授業が終わると守は急いでC組の教室の前へ行った。見知った男子生徒を捕まえて聞いた。
「このクラスに永沢ひろみっている?」
「いるよ、ほらあの頭に包帯巻いてるコ」とその男子は入り口から教室の中を指差した。
 その生徒は教科書などを鞄に詰めて帰る準備をしていた。
「彼女、どうしたの頭?」
「さあね、おれあんまり話したことないから」
 そう言ってる間に永沢ひろみは、彼らのいるのとは別の戸口から出て行った。
 守は後を追いかけていった。階段の踊り場で追いついて声をかけた。
「きみ永沢さんだよね」
「そうだけど」ひろみはちょっと警戒した感じで応えた。
 青ざめたような皮膚の色をしていた。ショート・カットの黒い髪の下に包帯が見えた。さらにほっそりした右の手首から掌にかけても白い包帯が巻かれていた。
「ええと、幻想文学研究会のことでちょっと……」
「なに」
「いや、あの、ぼくも入部というか、入会したいなと思って」
 守がそう言うと、ひろみははじめてまともに彼の顔を見た。
「どんなものを読んでるの?」
「んん、ラヴクラフトとか。あまり詳しくはないんだけど」
 ラヴクラフトと聞いて黒目がちな彼女の瞳が一瞬光ったように見えた。
「そう、ちょうどこれから会長に会いに行くところなんだけど、いっしょに来られる?」
「えっ、会長って。きみ一人なんじゃあないの?」
「幻想文学研究会は卒業後も永久に会員なのよ」
「あ、そうなの。吉川先生はそんなこと言ってなかったな」
「あの人は、私たちの活動のことは何も知らないわ。どうするの。いっしょに来るなら会長に紹介するけど」
「もちろん、行くよ」そう言ってから守は、少し不安になった。
 幻想文学研究会は自分が思っていたよりもずっと本格的な活動をしているようだ。
 守はひろみの後について学校を出た。会長とは駅前の喫茶店で待ち合わせているという。彼は歩きながらあらためて自己紹介をした。
「ところでその包帯どうしたの?」と守は尋ねた。
「鴉に襲われて」
「鴉って、あの鳥のカラス?」
「そうよ」
 守は一瞬冗談なのではと思ったが、ひろみの顔を見るとそうではなさそうだった。それでしばらく話題が途切れてしまったが、気を取り直しふたたび尋ねた。
「会長って、どんな人なの?」
「神山恭一って知ってる?」
「いや」
「外国の小説の翻訳や実在した魔術師の伝記なんかを書いている人。その人が会長なの」
「へえ、有名人なんだ」
「有名というほどでもないけれど、本の内容の確かさでは高く評価されているわ」
 神山について語る彼女は誇らしげな様子だった。こころなしか歩みも早くなったようだったが、少し行くとふいに歩調を緩めた。
「あの鴉だわ」
 と、ひろみが目線で示した方を見ると、大きな鴉が一羽、街路樹の枝の上からこちらを睨んでいた。
「鴉って巣に人が近づくと、怒って襲ってくることもあるらしいからね」
「ちがうわ。あの鴉はあやつられているのよ。その能力を持つ人に」
「まさか」
「でも今日は大丈夫。護符があるから」言いながらひろみはポケットの中で何かを握り締めていた。
「護符って……、まるでロール・プレイング・ゲームみたいな日常だね」
 ひろみは黙って歩き出そうとしたが、正面を向いてすぐまた足を止めて、じっと前を見つめていた。
 前方から、黒いセリカがゆっくりと近づいてくるところだった。運転しているのは長い髪の若い女だった。ひろみとその女とはお互いに睨みあっていた。
 車はほとんど止まる寸前までスピードを落とした。運転席の女は、ずっとひろみを睨みつけていたが、すれ違いざま一瞬だけ守を見てから急にスピードを上げ去っていった。
 すると、その後を追うように木の上の鴉も飛んでいった。
 やっと緊張が解けたというようにひろみはフッと息をついた。
「あれは、誰なの?」と守は聞いた。
「知らないわ。でも、昨日鴉をあやつって私を襲わせたのはあの女よ」
「そんな、なぜそんなことをするんだい?」
 ひろみは答えようとはせず「急ぎましょう」と言って、足早に歩き出した。


 会長と待ち合わせていると言う喫茶店は、駅前の繁華街でも外れの方で、古い雑居ビルの暗くせまい階段を降りた地下にあった。喫茶店と言っても、夜には酒場になるようなあやしげな雰囲気の店だった。扉を開けると低く流された声楽曲が聞こえた。
「マタイ受難曲」ひろみが小声で言った。
「えっ?」守は聞き返した。
「バッハの曲よ」そう言われて、やっと店内BGMのタイトルだと理解した。
 奥の方の席で一人で本を読んでいる男の姿が見えた。他に客はいないようだった。
 ひろみにみちびかれ守はその男の前へ立った。
 その人物の年齢は四十代ぐらいに思えた。男にしては長い髪で薄暗い店内でもサングラスをかけたままだった。
「同じ学年の遠野守さん。ラヴクラフトが好きで幻研に入りたいそうです」ひろみが彼を紹介した。幻想文学研究会は〈幻研〉と略されるらしかった。
 サングラスの男が守を見て右手を差し出した。
 守は少しおくれて握手の意味だと気づきあわててその手をとった。いやに冷たい手だった。「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。ラヴクラフトが好きか。ほかには何を読む?」
「えっ、まあその、ライトノベルなどを少々」
「ふむ、いや、ラヴクラフトが好きならじゅうぶんだよ。しっかり活動してくれたまえ」
 それから守は何となく神山とひろみは二人きりで話したいのではないかという空気を察して、彼だけ先に帰ることにした。


 守が階段を上って外へ出ると、鴉が道路標識の上にとまって彼の方を見下ろしていた。普通よりも一回り大きくて、先刻ひろみが襲われたと言っていたのと同じもののように見えた。しかしまさか、鴉があのセリカの女にあやつられ人を監視しているなどとは信じられない、そう思って彼が駅の方へと歩き出すと、黒い鳥は空高くへと飛び去った。
 守が自宅近くの駅で電車を降りて家へと帰る途中、ふたたび大きな鴉を目にした。
 駐車場のフェンスでその鳥は黒い翼を休めていた。まるで空から尾行してきたかのようだった。不気味に思って早足に自分の家にむかった。
 もう少しで自宅にたどり着くというところで、ふいに車のエンジン音が聞こえて振り返った。そこにはいつの間にか黒いセリカが接近してきていた。
 セリカは彼の行く手をさえぎるようにして停止した。運転しているのは、やはりあの髪の長い女だった。
「な、何ですか?」
「乗って」女は彼を見て言った。


2.

 守はできるなら逃げたいと思ったが、女の妙な迫力に負けて引き寄せられるように助手席に乗ってしまった。
 車は走り出した。
「あなた名前は?」女が彼に尋ねた。
「遠野守ですけど。あなたこそ何なんですか?」
「私の名は黒坂真理子。私が何者かはともかく、あなた、あの男のところへ連れて行かれたということは幻想文学研究会の一員になったのね」
「ええ、そうですけど」
「あの彼女、永沢さんとあなたはどういう関係なの?」
「べつに、まだ知り合ったばかりだし……」
「そう、彼女、放っておくと危険だわ」
「どういうことですか。彼女は、あなたのあやつった鴉に襲われたと言ってましたよ」
「それは確かにそのとおりだわ。あの娘の危険な行為を止めさせようとしたためです」
「危険な行為ってなんです?」
「とにかく、彼女を助けたいと思うなら私の言うこと聞きなさい」
 女は車を止めた。そこは一周回って守の家の近くだった。彼は車を降りた。
「いい、今ならまだ間に合うかもしれない。彼女を救えるのはあなたしかいないの。その意味をよく考えて」
 そう言い残すと、女はなれた手つきでシフトレバーを動かし、黒いセリカは走り去った。


 次の日。守は学校からの帰り道、ひろみを見つけ声をかけた。
「きのうあの後、例の女に会ったんだけど」
「女って?」
「ほら、あの鴉で君を襲わせたっていう」
「あの女の言うことを、聞いてはだめよ」ひろみは怒ったように言った。
「うん、ちょっと、おかしい人だと思ったけど。でも、きみが何か危険なことをしようとしてるって」
「ええ、たしかに危険なことだわ、私たちのやろうとしていることは。でもそれは必要なことなのよ」
「必要って、どういうことだい?」
「世界の変革のために。テロや戦争で人が死ぬことのない世界を実現するの」
「えっ、でもそんなことが……」いきなりスケールの大きい話になって守は戸惑った。
「できるわ。世界中の人々をまとめて導く〈聖なる存在〉を呼び出すのよ。私の父が発見した石版の呪文を使って。私の父は、先月イラク北部の遺跡でその石版を見つけたの。そこに記された呪文の写しを手紙で送ってきたわ。あの女はその手紙を奪おうとしたのよ」
「イラクって、テロとかそういうことで大変なんでしょう」
「父はイギリスの警備会社から傭兵として派遣されたの。若い頃から世界中の古代遺跡などの調査のために、危険な地域でも何度も行っているのでそういうことには慣れているの」
「でも、その〈聖なる存在〉っていったい何?」
「宇宙神ヨグソトース。あなたもラヴクラフトの読者なら知っている筈よ」
「でもそれは小説の中の話でしょ」
「いいえ。小説の中では邪悪な存在として描かれているけど、正しく召喚しさえすれば私たちの力になるわ。その方法を私たちはとうとう突き止めたの」
「それが幻想文学研究会の活動かい」
「ええそうよ。神山会長も父の弟子なの。後はただ惑星の配置が適切になるのを待つだけというところまできているのよ。それももう間もなく……」
「そんな、信じられないよ」
「無理に信じてくれとは言わないわ。その時になればわかることだもの」
 ひろみはそう言うと、引き離すように歩みを速めた。守もあえて追いかけようとはしなかった。


 それから数日、守はひろみと顔を合わせることなく過ごした。彼女は隣の教室にいても、休み時間でもほとんど自分の席から離れず、授業が終わるとすぐに帰宅してしまうらしいので、守のほうから探さなければ姿を見かけることもないのだった。
 そしてある土曜日の朝、守が自宅を出て駅へと向かう道を歩いていると、後方から黒いセリカが近づいてきて彼と並んで徐行した。運転しているのは黒坂真理子だ。
 守が足を止めるとセリカも止まった。
「その後、彼女とはどう。上手くいってるの?」真理子は言った。
「そんなこと、あなたに関係ないでしょう」
「関係あるわ。人類全てに関係のあることよ」
「何を言ってるんですか?」
「彼女たちが何をしようとしているか、あなた聞いてないの」
「聞きましたよ。クトゥルフ神話の真似事をするって話でしょう。正気とは思えませんね」
「そう。信じないのもあなたの自由。でも一応、言っておくわ。あの人たちが邪神召喚の秘儀をおこなうのは、惑星の配列から考えて今日午後三時。そしてその結果がどうあれ参加者は全員、無事ではすまないわ」
「あなたも邪神の存在を信じているんですか?」
「ええ」迷う様子もなく真理子は言った。「邪神は存在します。でも、あなたがそれを信じないとしても、ひろみさんにとって儀式が危険なものであることには変わりはない。すこしでも彼女を大切に思うのなら、引き留めるべきね。それができるのは世界中でただ一人、あなただけなんだから」
「なぜそんなことがあなたにわかるんです?」
「わたしは根黒野の巫女。人の運命を見通す力があるのです」
「えっ、ネクロノノミコン……、あ、巫女さんですか」
 守の言葉には答えず、真理子は一枚の紙片を差し出した。
「彼女たちが儀式をおこなう場所は、ここに書いてあります」
 守はそれを受け取った。
「もしそこへ行く気があるのなら、必ずこれを身に着けていきなさい」そう言って真理子はさらに銀の短剣を手渡した。「邪神の影響からあなたを護ってくれるでしょう。最後に言っておくけど、もし今日あなたが彼女を引き留められなければ、生きて彼女に会える機会はもう二度とないでしょう」
「そんな……」
 守は言いかけたが、セリカはエンジン音を響かせ、走り去ってしまった。


 一時間目の授業が終わって、休み時間に守はとなりの教室へ行って永沢ひろみを呼んでもらった。すると、彼女は昨日から欠席しているとのことだった。
 それから授業を受けている間中ずっと彼女のことが気になっていた。守は彼女のことが好きなのかどうかよくわからなかったが、とにかく心配なのは確かだった。
 その日は土曜なので授業は午前中で終わりだった。学校を出て彼はまだ迷っていたが、駅前のファーストフードで昼食を摂る間に心を決めた。黒坂真理子から受け取った紙片に記された住所までは、すこし遠いが歩いていける距離だった。
 そこは閑静な住宅街で大きな邸宅がならんでいた。その中のひとつが目的の場所だった。たどり着くまでに、すこし迷って時間がかかってしまい、もう午後三時までわずかの間しかなかった。


 その屋敷は周囲の高級邸宅と比べてもさらに大きく、豪邸と呼べそうなものだった。玄関の表札には〈永澤〉と刻まれていた。門柱の隙間から中を覗くと、母屋の周囲は雑草に覆われていて、まるで廃墟のようだった。入り口の門扉は鍵がかけられ、簡単に乗り越えられるようなものでもなかった。中に人の気配は感じられなかったが、実際のところはよくわからなかった。左右は背の高い石壁がどこまでも続いていた。
 守は近くで〈空き巣に注意しましょう〉と書かれた立て看板をみつけた。それを壁に立てかければ、よじ登ることができそうだった。
 看板と電柱の取っ手をうまく使って彼は壁を乗り越えると、雑草の生い茂った植え込みの片隅に飛び降りた。
 建物をまわって反対側へ出ると、そこは広い庭園のような場所だった。手入れはされていないらしく様々な植物が乱雑に葉を広げていた。中央には祭壇を思わせるテーブル状の大きな石が置かれていた。その周囲にも円を描くように石が配置されているのが見えた。環状列石と呼ばれるもののようだ。
 その時、守は人の気配を感じ、あわてて植え込みの陰に身を隠した。見ると母屋の方から何人かの人影が列をつくってゆっくりと庭へ歩み出てきた。
 列は全部で五人だった。全員が怪奇映画に出てくる魔術師のようなフードつきの黒いマントを頭から被っていた。
 フードの影から見えるその顔は、先頭が神山恭一、その後ろにいるのが永沢ひろみ だった。さらにその後ろにいる三人はいずれも大学生くらいの若い男だった。
 かれらはテーブル状の石の周囲に等間隔に立つと、目を閉じて合掌し、精神統一でもしているように不動の姿勢を保った。守が隠れているところからは、ちょうどひろみの姿が正面に見えた。よく見ると何かつぶやいているかのように口を動かしていた。
 しばらくすると、囁くような声が聞こえはじめ、やがて五人の声が混ざり合ってて低く響きだした。
 それは「……イグナイイ、イグナイイ、トゥフルトゥクングア、ヨグ=ソトース、ヨグ=ソトース……」という呪文のようのものをくりかえしているのだった。
 守はこの時になっても邪神の存在など信じてはいなかったが、それでも背筋の寒くなるような思いを止めることができなかった。
 自分でも意識しないうちに、ポケットに入れていた銀の短剣へと手を伸ばしていた。触れるとそれは微かだが確かに熱を放っていた。取り出してみると何かに共鳴するようにキィーンという唸りを発した。
 それと同時にテ-ブル状の石の方からも、さらに大きな音が響きはじめた。
 そしてそこに、七色の光を放つ不定形のプラズマ状の現象が生じた。五人のメンバーは目を閉じたまま一心に呪文を唱え続けていた。
 プラズマは次第に大きくなり周囲に稲妻のようなものを発しはじめた。やがて稲妻は黒いマントの若者を捕らえた。守の目には、その男の頭が爆発して吹き飛んだように見えた。だがそうではなかった。その男の身体は一瞬のうちに無数の蛸の足と剥き出しになった内臓の塊のようなものへと変貌を遂げたのだった。
 さらにまた一人、若い男が同様な怪物に姿を変えられた。残ったもう一人の男はその様子を目にしたようだった。
「うわあああぁ」と悲鳴を上げて逃げ出した。
 だがすぐに稲妻に捕らえられ、彼もまた蠢く蛸の足と内臓の塊へと姿を変えた。
 そのようなことがあっても神山恭一と永沢ひろみはひたすら呪文を唱え続けていた。
 つぎにあの化物へと変身させられるのはひろみさんだ。そう思うと守の足は自然と前へ踏み出していた。
 だが、稲妻はひろみの身体には触れず周囲を探るように這いまわっていた。
 神山はそれに気づくと声を上げた。「おおっ、ヨグ=ソトースよ。その娘を受け取るがいい。そして落とし子を授けてくれ」
「こんな所にいてはだめだ」そう叫びながら守が、ひろみに抱きつくようにして地面へ倒した。
 ひろみは今、目が覚めたというように驚いた顔で守を見た。傷は治ったらしくもう包帯はしていなかった。
 プラズマから伸びた怪光が、盲人の手のようにあたりを探っていた。
 神山恭一が異変に気づき乱入者を見た。サングラスをかけていないその目は異様な黄金色に輝いていた。
「キサマ、邪魔ヲスルナァ」
 神山は人間のものとは思えない音程の声を発して掴みかかってきた。
 守の首をつかみ、身体を宙へ持ち上げた。息ができなかった。守は持っていた短剣の鞘を振り捨てると、神山の手首を斬りつけた。
「ギャアアアアア」神山は悲鳴をあげて守の身体を投げ捨てた。
 斬られた手首からは、あきらかに人間の血とは別の黒い液体が噴きだしていた。
 神山が傷を押さえながら後ずさると、発光するプラズマにその背が触れた。その瞬間、彼の身体は炎に包まれながら弾き飛ばされ、地面に叩きつけられた。その全身はあっという間に炭のような黒焦げになっていた。
 守がやっとの思いで立ち上がると、彷徨っていた怪光線が今度は彼に向かってきた。とても避ける余裕はなかった。
「守くん、逃げて」彼の身体は不意に突き飛ばされた。
 代わってひろみが光線を浴びてしまった。彼女の身体はプラズマの方へ引き寄せられていった。
「ひろみさんっ」守がそう叫んだ時にはもう、彼女はほとんど七色の光の中に包み込まれていた。
 ひろみの身体はプラズマの中へ完全にのみ込まれてしまった。それと同時にプラズマそのものも嘘のように虚空へとかき消えた。


 あたりは不意に静寂につつまれた。あまりに急に静かになって耳鳴りがするほどだった。すべては幻だったのではないかと思いたかった。しかし、目の前にはたしかに黒焦げの神山恭一の屍体が転がっているのだった。蛸の足の怪物三体はいつの間にか、灰のような粉末の山に変じていた。
 テーブル状の石の上にはところどころ黒い焦げ目が残されていた。
「ひろみさぁん」守は呼んでみたが、いつまでたっても答えが返ってくることはなかった。
 しばらくたって、どこからともなく黒坂真理子が姿を現した。
「どうやら、ヨグソトースの気配は去ったようね」
「あれが……、ヨグソトース……」
「あなたが邪魔をしたので実体化に至らずにすんだのよ」
「ひろみさんは、どうなったんです?」
「彼女はもうこの世の者ではありません」
「どういうことです。彼女は死んだんですか?」
「それは私には答えられないわ」
「どういう意味ですか。まだ生きてるんですか?」
 真理子はゆっくりと首を振り、静かに言った。「この世界を護るのが私の役目。世界の外へと去った者については何も語ることはできないのよ」
 彼女は空を見上げた。
 そこには鴉が一羽、大きな円を描いて飛んでいた。


 翌週、遠野守は何事もなかったかのように学校へ行った。
 永沢ひろみが突然消えてしまっても、もともと病気がちで欠席の多かったせいか、気に留める者も少なかった。聞くところによると、彼女には母親はなく、父親が外国に行っている間はマンションで一人暮らしをしていたとのことだった。それ以外に彼女について何かを知る者は、いくら探してもみつけられなかった。


クトゥルー神話に基づく連作短編集『根黒野ノ巫女』第四話

2012年12月2日日曜日

マーシュ船長のフライド・フィッシュ


 国道沿いに新しくオープンしたファミリー・レストランは、とにかく不味いという評判だった。
 その不味さは尋常なものではなく、食事中に客が吐くことも決して珍しくないほどだった。店の名は《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》といって、魚のフライをメインに各種海鮮料理のメニューを揃えていた。本社は米国マサチューセッツ州のさる田舎町にあり、ここ最近、日本各地でもチェーン店を増やしつつあった。
 不味い不味いと言われながら、それでも経営が成り立っているのは、一部にはこの店の料理をこの上なく美味しいものと感じる客もいるからだった。そのような客は少数ながら、一度美味いと感じた者はほとんど中毒症状と言えるような状態になり、毎日のように通いつめることとなるのであった。
 沼沢潤治も、連日《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》へと通っている一人だった。アルバイトを終え夕食を《マーシュ船長》でとった後、その感想をインターネットの日記や掲示板に書き込むというのが最近の彼の日課だった。
 《マーシュ船長》の料理の不味さはネット上でも話題を呼んでいて、あの味は料理に人肉が混ざっているために違いないというのが、もっぱらの噂だった。
マーシュの料理、今日はじめて食べたけどマズすぎだろ。死人の肉の味がするってウワサは本当だな。
沼沢はそんな書き込みを見つけると、反論するのを義務と感じていた。
あなたは、魚の切り身と人肉の区別もつかないんですか。ハンバーグならまだしも魚のフライでですよ。舌だけじゃなく、アタマまでバカじゃないんですか。そういう人が無責任なデマを流すのはやめてください。
そうすると大抵は、アンチ・マーシュの意見が大量に書き込まれるのが常だったが、頭にくるだけなので、彼はもう読みもしないのだった。
 沼沢潤治は三流大学を卒業後、まともに就職もせずフリーターをしながら、一人暮らしをしていた。たいして収入もないので、住居はかなりのボロアパートだった。
 郵便受けなども古びているうえ、誰も名札など出さないので、どれがどの部屋のものかわからなくなっていて、よく他人宛の郵便物が紛れ込んでいた。
 その日も沼沢が仕事帰りに郵便受けを覗くと、隣室の住人宛のハガキが投函されていた。
 何気なくハガキの文面に目をやると《マーシュ船長》の文字に惹きつけられた。
 そこには、
抽選の結果、あなたは《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》の新メニュー試食会へのご招待が決定いたしました。
とあった。
 彼は羨ましく思ったが、さすがに他人の招待状を横取りするわけにもいかないので、直接手渡してやろうと隣のドアをノックした。
 そこの住人が顔をみせた。年齢は沼沢と同じほどの病気がちな痩せこけた青年だった。
「あの、間違ってうちの方に入ってましたので」とハガキを差し出した。
「ああ、どうも」隣人はとくに関心もなさそうに受け取った。
「当たったみたいですね。《マーシュ船長》の試食会」
 隣室の男はハガキに目を通して言った。「あんな店の料理、二度と食うか」
「えっ、行かないんですか?」
「あそこで食事してから、具合が悪いんだ」
 そう言われれば男はひどい顔色をしていた。
「それ、自分で応募したんじゃないんですか?」
「いや、知らないよ。ダイレクト・メールみたいなものじゃないかな」
「じゃあ、ぼくがもらってもいいですか」
「ああ、どうぞ」隣人は素気なくその招待状を譲ってくれた。
 招待状に記されていた試食会の日時はそれから十日後で、場所は大田区平和島の《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》工場内の食品開発センターにてとあった。
 当日は、JR品川駅前から送迎バスが出ることになっていた。
 沼沢が指定された時刻の少し前に品川駅の港南口へを出てみると、それらしいマイクロ・バスを見つけた。すでに何人かの客が列をつくって乗り込みはじめていた。
 客は全部で十数人。男性が大半で、年齢はまちまちだったが、皆一様に痩せて貧相な風体のものばかりだった。中には浮浪者同然の者もいた。
 まあ、無料招待の試食会なんてこんなものか、と沼沢は思った。太っているのは自分一人というところがなんとなく居心地が悪かった。
 いや、バスへ近づくと、もう一人太った男がいるのがわかった。黒いスーツのその人物は一行の案内役兼運転手らしかった。
 沼沢は驚いた。なぜならその男が一瞬、自分の父親のように見えたからだった。だがよく見れば、父よりは大分若いようだった。それにしてもよく似ていた。
 生白い膚、血走った丸く見開かれた目、凹凸のはっきりしない小ぶりな鼻、鰓のはった頬、山型に突き出た下唇、両親ともにそんな顔立ちなので沼沢自身も同じような特徴を持っていた。友人からはよく「魚のような顔だ」と言われていた。潤治の父は、今でも生まれ故郷の村で漁師をやっているはずで、こんなところにいるわけはないのだが。
 彼の生まれた村は、東京から地図上の直線距離ではさほど離れていないのだが、交通の便がひどくわるいので片道でもへたをすれば丸一日かかってしまうという辺鄙な漁村だった。
 案内役の太った男の方も沼沢を見て、すこし驚いたようであった。だが、沼沢が招待状を見せると、何も言わずにバスに乗せてくれた。席に着くとアンケート用紙を渡され会場に着くまでに書き込んでおくようにと言われた。
 アンケートの内容は家族構成や健康状態に関する質問や《マーシュ船長》の料理についての感想などだった。
 バスは出発して十分足らずで目的地へついた。清潔そうな白一色の外観の大きな工場で、敷地の向こうはもう海だった。潮の匂いに混じって魚の生臭い匂いが漂っていた。《マーシュ船長》のマークをつけた大型トラックが頻繁に出入りしていた。


 バスを降り、案内役の男について建物に入ると、試食会の参加者はまずエステティック・コースの体験をしてもらうと言われた。
 無料でエステまで体験できると知ってよろこぶ者もいれば、早く飯だけ食わせて欲しいと不満げな者もいた。沼沢はこんな浮浪者みたいな連中と食事をするなら、風呂に入ってさっぱりしてからの方がいいやと思った。
 パウダー・マッサージやハーブ・サウナなどエステのメニューが説明された。専用のバス・ローブに着替えるために男女別のロッカー・ルームへと案内されると、参加者の中からは「やれやれ、注文の多い試食会だな」とぼやく声が聞こえた。
 途中でここの社員らしいスーツ姿の眼鏡をかけた男がやってきて、参加者の顔をひとりひとり確認しはじめた。
 沼沢と目が会うと「あっ、あなた」と言って、彼の腕をつかみ一行から引き離した。
 そのまま彼はエレベーターに乗せられ、応接室のようなところへ連れてこられた。 「何なんですか?」ソファーに座らされ沼沢は尋ねた。
「ええ、それがですね、あなた様の招待状ですが、もしかしてどなたかから譲られたというようなことは、ありませんでしょうか?」眼鏡の男はハンカチで額の汗をぬぐいながら言った。
 沼沢はここまで来て料理にありつけなければ損だ、と思いとぼけることにした。 「いや、確かに、うちへ届けられたものですよ」じっさい、自分のところのポストに入っていたのだから嘘ではなかった。
「そうですか、では何か手違いがあったようです。申し訳ありません」
「どういうことですか。試食はできないんですか」
「ええ、本日のコースはあなた様のような方に参加していただくわけには……」
「なぜですか。日頃ぼくがどれだけ《マーシュ船長》のために貢献してると思っているんです」相手が下手に出るので彼は強気になっていた。
「それがその、今回は当社の製品が口に合わないという人を対象とした試食会なものですから」
「じゃあおたくの料理を楽しみにして、わざわざお腹を空かしてきたぼくはどうなるんです」
「はあ、そういうことでしたら特別にお食事をご用意させていただきます」
 男はそう言うと、ハンカチで首のまわりを拭きながら何度も頭を下げて部屋を出て行った。
 部屋に一人取り残された沼沢は、男の顔を思い返して奇妙な感じにとらわれた。はじめは眼鏡のせいで気がつかなかったが、あの男の顔もまた「魚のような」と形容されるべき特徴を備えていたのだ。
 一日の内に二人つづけて自分と似たような顔の人間と出会うとは。しかしとにかく料理が食べられるのならばと、それ以上は深く考えなかった。


 眼鏡の男が出ていって十分以上の時間がたったが、放ったらかしにされたまま誰もやってこなかった。そのうちに沼沢はトイレに行きたくなってきたので、勝手に部屋を出た。廊下を歩いても、表示があるわけでもなくどちらへ進めばいいのかわからなかった。
 迷路のような廊下を適当に歩き廻り、階段を上ったり下りたりを繰り返しているうちにやっとトイレを見つけた。そこで用を足して出てきたが、今度はもとの部屋へ戻る方向がわからなかった。
 少し歩くと、目の前にエレベーターのドアが開いていた。とりあえず乗り込んでみた。
 ドアが閉まると、勝手に下降を始めた。
 地下へと降りたところで停止してドアが開いた。
 するといきなり、生臭い悪臭を放つ魚のはらわたが詰まったバケツを積んだ台車が搬入されてきた。沼沢は押し潰されそうになって、危うく避けた。
 台車を押しているのは、ひどい猫背の白衣を着た男だった。帽子と大きなマスクで顔はよくわからなかったが、血走った目を丸く見開いて沼沢を睨んでいた。
 この男もまた、マスクの下は「魚のような顔」なのではないかと想像して、沼沢はふいに不気味な思いがした。彼が降りるとエレベーターはすぐに扉を閉じて上へ行ってしまった。
 地下の通路をしばらく歩くと、やがて開いたままになって明かりの漏れているドアがあった。
 そこへ行って中を覗いた。誰もいない。向かい側は一面ガラス張りで、さらに下の階を見渡せるようになっていた。生産ラインを一望できるようになっているのだった。大まかに切り取られた赤黒い皮の魚が、ベルトコンベアで運ばれ、切り身にされパン粉をまぶされた状態で冷凍されるまでの過程がそこで行われていた。ほとんど作業は機械化されているが、所々で人間の手も必要なようだった。
 白衣姿で帽子を目深にかぶり黙々と機械の間を行き来するその人々は、先刻出会った男と同様に皆ひどく猫背なのが不気味だった。中にはほとんど傴僂のように見える者もいた。それとも、単に屈んだ姿勢で作業をしているのでそう見えるだけだろうか。
 だがとにかく、これで《マーシュ船長》の料理に人肉など使われていないことははっきりした、沼沢はそう呟いて部屋を出た。


 エレベーターの方へ戻るつもりが、また見覚えのない所へ出てしまった。
 そこは通路の突き当たりで両開きの大きな扉があった。
 手で押すと重いながらゆっくりと開いた。広くて静かな部屋だった。天井は高く、レール状のものが設置されていた。あかるい照明が水面に反射して揺らめいていた。
 中央に水を湛えたプールがあるのだった。
 沼沢がプールの縁に近づくと、それまで静かに澄んでいた水面が突然、騒めきだした。
 底の方に、さらに深いところへ通じているらしい暗い穴が見えた。そこから無数の影が水面へ向かって上昇してきた。
 魚だ。それは見たこともない種類だった。赤黒い皮膚にピラニアのように頑強な顎、それにシーラカンスのような四股状のヒレがあった。見ようによっては山椒魚にも似ていた。皮膚の色からするとこの魚が、生産ラインで調理されているもののようだった。ここは養殖のための生簀のようなものだろうか。
 プール中が赤黒い魚でいっぱいになると、低いモーター音とともに天井のレールを伝って白いコンテナが移動してきた。
 コンテナはプール中央の直上で静止すると、底板が開き何かがばらばらと落下した。
 水に落ちたものたちは、悲鳴を上げながらもがいていた。
 魚たちはその方へ一気に殺到した。周囲の水が赤く染まりはじめた。
 沼沢はようやく何が起こったのか事態を把握した。コンテナから落とされたのは裸の人間たちだった。魚たちがピラニアのような顎で次々とその身体に食らいついていた。人間が魚のエサにされているのだった。そしてその中の顔のいくつかは、たしかにあの試食会に招待された客たちのものだった。

「やあ、こんなところにいましたね」

 いきなり、背後から声をかけられ、沼沢は飛び上がるほど驚いた。
 振り返るとそこにいたのは、紺色の高級そうなスーツに赤いネクタイの小太りの男だった。その男もまた「魚のような顔」だ。
「これでおわかりでしょう。《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》の料理に死人の肉が使われているなどというのが、根も葉もないデマだということが。我が社ではこの様に新鮮な生きた人間の肉で育てた魚を使って料理をお出ししているのです」  沼沢はあまりのことに言葉を失って、ただ口をパクパク動かすことしかできなかった。
 魚のような顔の男は言った。
「申し遅れました。ワタクシここの工場長をやらせていただいております、渦浜と申します。特別料理をお出しするお約束でしたね。こちらへ運ばせましょう。プール・サイドでお食事というのもまたいいものですよ」
 渦浜と名乗った男が指を鳴らすと、ドアが開き白衣を着た猫背の男が、銀の食器を載せたワゴンをゆっくりと押しながら入ってきた。
 プールの魚たちは、すでにエサを食いつくし水底へと帰っていったようだった。  あたりにひどい匂いがたちこめていることに気づくと、沼沢は急に吐き気がこみ上げ、胸を押さえて後退った。
「おや、どうしたんです」渦浜が言った。「今さら驚くこともないでしょう。あなたも、われわれと同じ《深きもの》なのですから」
「うわあああああああああああああぁぁっ」
 沼沢にはその言葉が何を意味するのか理解できなかった。だが、自分でも訳もわからずに叫び声を上げ駆け出していた。


 その後、沼沢はどこをどう走ったのか憶えていなかった。
 ただ途中で、彼を止めようとした魚のような顔の警備員を無我夢中で殴り倒したことだけは、ぼんやりと記憶していた。
 そして気がついたときには、夕焼け空の下、埋立地の倉庫街をさまようように歩いていたのだった。
 頭上を羽田空港へ向かうモノレールが走っていた。
 何者かに監視されているような不安にびくびくしながら、何とか京浜急行の平和島駅にたどりつき、自宅へと帰り着くことができた。
 自分の部屋にいても落ち着くことはできなかった。
 食欲もわかず、眠れば悪夢にうなされそうだった。
『あなたも、われわれと同じ《深きもの》なのですから』工場長の渦浜という男が言ったその言葉が頭からはなれなかった。
 しばらくしてから、パソコンを使って《深きもの》なる語を検索することを思いついた。その結果わかったのは、この語はアメリカの怪奇作家H・P・ラヴクラフトが小説の中で使った架空の種族名で、「インスマウスの影」という短編小説のがその原典らしかった。
 翌日、彼は書店でその短編の入った文庫本『ラヴクラフト全集』の第一巻を買い求めた。
 それを読んで彼はすべてを理解した。それが決して架空の物語ではないことを。彼自身こそは、まぎれもなくインスマウスの住人そのものだったのだ。


クトゥルー神話に基づく連作短編集『根黒野ノ巫女』第参話