2012年12月2日日曜日

マーシュ船長のフライド・フィッシュ


 国道沿いに新しくオープンしたファミリー・レストランは、とにかく不味いという評判だった。
 その不味さは尋常なものではなく、食事中に客が吐くことも決して珍しくないほどだった。店の名は《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》といって、魚のフライをメインに各種海鮮料理のメニューを揃えていた。本社は米国マサチューセッツ州のさる田舎町にあり、ここ最近、日本各地でもチェーン店を増やしつつあった。
 不味い不味いと言われながら、それでも経営が成り立っているのは、一部にはこの店の料理をこの上なく美味しいものと感じる客もいるからだった。そのような客は少数ながら、一度美味いと感じた者はほとんど中毒症状と言えるような状態になり、毎日のように通いつめることとなるのであった。
 沼沢潤治も、連日《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》へと通っている一人だった。アルバイトを終え夕食を《マーシュ船長》でとった後、その感想をインターネットの日記や掲示板に書き込むというのが最近の彼の日課だった。
 《マーシュ船長》の料理の不味さはネット上でも話題を呼んでいて、あの味は料理に人肉が混ざっているために違いないというのが、もっぱらの噂だった。
マーシュの料理、今日はじめて食べたけどマズすぎだろ。死人の肉の味がするってウワサは本当だな。
沼沢はそんな書き込みを見つけると、反論するのを義務と感じていた。
あなたは、魚の切り身と人肉の区別もつかないんですか。ハンバーグならまだしも魚のフライでですよ。舌だけじゃなく、アタマまでバカじゃないんですか。そういう人が無責任なデマを流すのはやめてください。
そうすると大抵は、アンチ・マーシュの意見が大量に書き込まれるのが常だったが、頭にくるだけなので、彼はもう読みもしないのだった。
 沼沢潤治は三流大学を卒業後、まともに就職もせずフリーターをしながら、一人暮らしをしていた。たいして収入もないので、住居はかなりのボロアパートだった。
 郵便受けなども古びているうえ、誰も名札など出さないので、どれがどの部屋のものかわからなくなっていて、よく他人宛の郵便物が紛れ込んでいた。
 その日も沼沢が仕事帰りに郵便受けを覗くと、隣室の住人宛のハガキが投函されていた。
 何気なくハガキの文面に目をやると《マーシュ船長》の文字に惹きつけられた。
 そこには、
抽選の結果、あなたは《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》の新メニュー試食会へのご招待が決定いたしました。
とあった。
 彼は羨ましく思ったが、さすがに他人の招待状を横取りするわけにもいかないので、直接手渡してやろうと隣のドアをノックした。
 そこの住人が顔をみせた。年齢は沼沢と同じほどの病気がちな痩せこけた青年だった。
「あの、間違ってうちの方に入ってましたので」とハガキを差し出した。
「ああ、どうも」隣人はとくに関心もなさそうに受け取った。
「当たったみたいですね。《マーシュ船長》の試食会」
 隣室の男はハガキに目を通して言った。「あんな店の料理、二度と食うか」
「えっ、行かないんですか?」
「あそこで食事してから、具合が悪いんだ」
 そう言われれば男はひどい顔色をしていた。
「それ、自分で応募したんじゃないんですか?」
「いや、知らないよ。ダイレクト・メールみたいなものじゃないかな」
「じゃあ、ぼくがもらってもいいですか」
「ああ、どうぞ」隣人は素気なくその招待状を譲ってくれた。
 招待状に記されていた試食会の日時はそれから十日後で、場所は大田区平和島の《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》工場内の食品開発センターにてとあった。
 当日は、JR品川駅前から送迎バスが出ることになっていた。
 沼沢が指定された時刻の少し前に品川駅の港南口へを出てみると、それらしいマイクロ・バスを見つけた。すでに何人かの客が列をつくって乗り込みはじめていた。
 客は全部で十数人。男性が大半で、年齢はまちまちだったが、皆一様に痩せて貧相な風体のものばかりだった。中には浮浪者同然の者もいた。
 まあ、無料招待の試食会なんてこんなものか、と沼沢は思った。太っているのは自分一人というところがなんとなく居心地が悪かった。
 いや、バスへ近づくと、もう一人太った男がいるのがわかった。黒いスーツのその人物は一行の案内役兼運転手らしかった。
 沼沢は驚いた。なぜならその男が一瞬、自分の父親のように見えたからだった。だがよく見れば、父よりは大分若いようだった。それにしてもよく似ていた。
 生白い膚、血走った丸く見開かれた目、凹凸のはっきりしない小ぶりな鼻、鰓のはった頬、山型に突き出た下唇、両親ともにそんな顔立ちなので沼沢自身も同じような特徴を持っていた。友人からはよく「魚のような顔だ」と言われていた。潤治の父は、今でも生まれ故郷の村で漁師をやっているはずで、こんなところにいるわけはないのだが。
 彼の生まれた村は、東京から地図上の直線距離ではさほど離れていないのだが、交通の便がひどくわるいので片道でもへたをすれば丸一日かかってしまうという辺鄙な漁村だった。
 案内役の太った男の方も沼沢を見て、すこし驚いたようであった。だが、沼沢が招待状を見せると、何も言わずにバスに乗せてくれた。席に着くとアンケート用紙を渡され会場に着くまでに書き込んでおくようにと言われた。
 アンケートの内容は家族構成や健康状態に関する質問や《マーシュ船長》の料理についての感想などだった。
 バスは出発して十分足らずで目的地へついた。清潔そうな白一色の外観の大きな工場で、敷地の向こうはもう海だった。潮の匂いに混じって魚の生臭い匂いが漂っていた。《マーシュ船長》のマークをつけた大型トラックが頻繁に出入りしていた。


 バスを降り、案内役の男について建物に入ると、試食会の参加者はまずエステティック・コースの体験をしてもらうと言われた。
 無料でエステまで体験できると知ってよろこぶ者もいれば、早く飯だけ食わせて欲しいと不満げな者もいた。沼沢はこんな浮浪者みたいな連中と食事をするなら、風呂に入ってさっぱりしてからの方がいいやと思った。
 パウダー・マッサージやハーブ・サウナなどエステのメニューが説明された。専用のバス・ローブに着替えるために男女別のロッカー・ルームへと案内されると、参加者の中からは「やれやれ、注文の多い試食会だな」とぼやく声が聞こえた。
 途中でここの社員らしいスーツ姿の眼鏡をかけた男がやってきて、参加者の顔をひとりひとり確認しはじめた。
 沼沢と目が会うと「あっ、あなた」と言って、彼の腕をつかみ一行から引き離した。
 そのまま彼はエレベーターに乗せられ、応接室のようなところへ連れてこられた。 「何なんですか?」ソファーに座らされ沼沢は尋ねた。
「ええ、それがですね、あなた様の招待状ですが、もしかしてどなたかから譲られたというようなことは、ありませんでしょうか?」眼鏡の男はハンカチで額の汗をぬぐいながら言った。
 沼沢はここまで来て料理にありつけなければ損だ、と思いとぼけることにした。 「いや、確かに、うちへ届けられたものですよ」じっさい、自分のところのポストに入っていたのだから嘘ではなかった。
「そうですか、では何か手違いがあったようです。申し訳ありません」
「どういうことですか。試食はできないんですか」
「ええ、本日のコースはあなた様のような方に参加していただくわけには……」
「なぜですか。日頃ぼくがどれだけ《マーシュ船長》のために貢献してると思っているんです」相手が下手に出るので彼は強気になっていた。
「それがその、今回は当社の製品が口に合わないという人を対象とした試食会なものですから」
「じゃあおたくの料理を楽しみにして、わざわざお腹を空かしてきたぼくはどうなるんです」
「はあ、そういうことでしたら特別にお食事をご用意させていただきます」
 男はそう言うと、ハンカチで首のまわりを拭きながら何度も頭を下げて部屋を出て行った。
 部屋に一人取り残された沼沢は、男の顔を思い返して奇妙な感じにとらわれた。はじめは眼鏡のせいで気がつかなかったが、あの男の顔もまた「魚のような」と形容されるべき特徴を備えていたのだ。
 一日の内に二人つづけて自分と似たような顔の人間と出会うとは。しかしとにかく料理が食べられるのならばと、それ以上は深く考えなかった。


 眼鏡の男が出ていって十分以上の時間がたったが、放ったらかしにされたまま誰もやってこなかった。そのうちに沼沢はトイレに行きたくなってきたので、勝手に部屋を出た。廊下を歩いても、表示があるわけでもなくどちらへ進めばいいのかわからなかった。
 迷路のような廊下を適当に歩き廻り、階段を上ったり下りたりを繰り返しているうちにやっとトイレを見つけた。そこで用を足して出てきたが、今度はもとの部屋へ戻る方向がわからなかった。
 少し歩くと、目の前にエレベーターのドアが開いていた。とりあえず乗り込んでみた。
 ドアが閉まると、勝手に下降を始めた。
 地下へと降りたところで停止してドアが開いた。
 するといきなり、生臭い悪臭を放つ魚のはらわたが詰まったバケツを積んだ台車が搬入されてきた。沼沢は押し潰されそうになって、危うく避けた。
 台車を押しているのは、ひどい猫背の白衣を着た男だった。帽子と大きなマスクで顔はよくわからなかったが、血走った目を丸く見開いて沼沢を睨んでいた。
 この男もまた、マスクの下は「魚のような顔」なのではないかと想像して、沼沢はふいに不気味な思いがした。彼が降りるとエレベーターはすぐに扉を閉じて上へ行ってしまった。
 地下の通路をしばらく歩くと、やがて開いたままになって明かりの漏れているドアがあった。
 そこへ行って中を覗いた。誰もいない。向かい側は一面ガラス張りで、さらに下の階を見渡せるようになっていた。生産ラインを一望できるようになっているのだった。大まかに切り取られた赤黒い皮の魚が、ベルトコンベアで運ばれ、切り身にされパン粉をまぶされた状態で冷凍されるまでの過程がそこで行われていた。ほとんど作業は機械化されているが、所々で人間の手も必要なようだった。
 白衣姿で帽子を目深にかぶり黙々と機械の間を行き来するその人々は、先刻出会った男と同様に皆ひどく猫背なのが不気味だった。中にはほとんど傴僂のように見える者もいた。それとも、単に屈んだ姿勢で作業をしているのでそう見えるだけだろうか。
 だがとにかく、これで《マーシュ船長》の料理に人肉など使われていないことははっきりした、沼沢はそう呟いて部屋を出た。


 エレベーターの方へ戻るつもりが、また見覚えのない所へ出てしまった。
 そこは通路の突き当たりで両開きの大きな扉があった。
 手で押すと重いながらゆっくりと開いた。広くて静かな部屋だった。天井は高く、レール状のものが設置されていた。あかるい照明が水面に反射して揺らめいていた。
 中央に水を湛えたプールがあるのだった。
 沼沢がプールの縁に近づくと、それまで静かに澄んでいた水面が突然、騒めきだした。
 底の方に、さらに深いところへ通じているらしい暗い穴が見えた。そこから無数の影が水面へ向かって上昇してきた。
 魚だ。それは見たこともない種類だった。赤黒い皮膚にピラニアのように頑強な顎、それにシーラカンスのような四股状のヒレがあった。見ようによっては山椒魚にも似ていた。皮膚の色からするとこの魚が、生産ラインで調理されているもののようだった。ここは養殖のための生簀のようなものだろうか。
 プール中が赤黒い魚でいっぱいになると、低いモーター音とともに天井のレールを伝って白いコンテナが移動してきた。
 コンテナはプール中央の直上で静止すると、底板が開き何かがばらばらと落下した。
 水に落ちたものたちは、悲鳴を上げながらもがいていた。
 魚たちはその方へ一気に殺到した。周囲の水が赤く染まりはじめた。
 沼沢はようやく何が起こったのか事態を把握した。コンテナから落とされたのは裸の人間たちだった。魚たちがピラニアのような顎で次々とその身体に食らいついていた。人間が魚のエサにされているのだった。そしてその中の顔のいくつかは、たしかにあの試食会に招待された客たちのものだった。

「やあ、こんなところにいましたね」

 いきなり、背後から声をかけられ、沼沢は飛び上がるほど驚いた。
 振り返るとそこにいたのは、紺色の高級そうなスーツに赤いネクタイの小太りの男だった。その男もまた「魚のような顔」だ。
「これでおわかりでしょう。《マーシュ船長のフライド・フィッシュ》の料理に死人の肉が使われているなどというのが、根も葉もないデマだということが。我が社ではこの様に新鮮な生きた人間の肉で育てた魚を使って料理をお出ししているのです」  沼沢はあまりのことに言葉を失って、ただ口をパクパク動かすことしかできなかった。
 魚のような顔の男は言った。
「申し遅れました。ワタクシここの工場長をやらせていただいております、渦浜と申します。特別料理をお出しするお約束でしたね。こちらへ運ばせましょう。プール・サイドでお食事というのもまたいいものですよ」
 渦浜と名乗った男が指を鳴らすと、ドアが開き白衣を着た猫背の男が、銀の食器を載せたワゴンをゆっくりと押しながら入ってきた。
 プールの魚たちは、すでにエサを食いつくし水底へと帰っていったようだった。  あたりにひどい匂いがたちこめていることに気づくと、沼沢は急に吐き気がこみ上げ、胸を押さえて後退った。
「おや、どうしたんです」渦浜が言った。「今さら驚くこともないでしょう。あなたも、われわれと同じ《深きもの》なのですから」
「うわあああああああああああああぁぁっ」
 沼沢にはその言葉が何を意味するのか理解できなかった。だが、自分でも訳もわからずに叫び声を上げ駆け出していた。


 その後、沼沢はどこをどう走ったのか憶えていなかった。
 ただ途中で、彼を止めようとした魚のような顔の警備員を無我夢中で殴り倒したことだけは、ぼんやりと記憶していた。
 そして気がついたときには、夕焼け空の下、埋立地の倉庫街をさまようように歩いていたのだった。
 頭上を羽田空港へ向かうモノレールが走っていた。
 何者かに監視されているような不安にびくびくしながら、何とか京浜急行の平和島駅にたどりつき、自宅へと帰り着くことができた。
 自分の部屋にいても落ち着くことはできなかった。
 食欲もわかず、眠れば悪夢にうなされそうだった。
『あなたも、われわれと同じ《深きもの》なのですから』工場長の渦浜という男が言ったその言葉が頭からはなれなかった。
 しばらくしてから、パソコンを使って《深きもの》なる語を検索することを思いついた。その結果わかったのは、この語はアメリカの怪奇作家H・P・ラヴクラフトが小説の中で使った架空の種族名で、「インスマウスの影」という短編小説のがその原典らしかった。
 翌日、彼は書店でその短編の入った文庫本『ラヴクラフト全集』の第一巻を買い求めた。
 それを読んで彼はすべてを理解した。それが決して架空の物語ではないことを。彼自身こそは、まぎれもなくインスマウスの住人そのものだったのだ。


クトゥルー神話に基づく連作短編集『根黒野ノ巫女』第参話

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