2012年12月12日水曜日

雨の恐怖

  ゲリラ豪雨で会社員男性(32)死亡!?
 16日未明。東京都大田区在住の会社員男性Yさん(32)がJR蒲田駅近くで、ずぶ濡れになって倒れているところを発見され、救急隊員が駆けつけた時にはすでに死亡していた。解剖の結果、この男性は肺に雨水が溜まっており溺死と判明した。現場附近では深夜3時ごろ突然雨の音が異常に高まるのを聞いて目を覚ましたという住民が多数おり、警察では突発的に降りだしたごく局地的な集中豪雨がなんらかの理由でこの男性を溺死させたのではないかと見て捜査を進めている。
 東京地方は昨日までで37日間連続して雨という異常気象に見舞われており、気象庁では今後も同様な被害がさらに増える可能性もあるとして注意を呼びかけている。
  そんな新聞記事を読んでいると、電話が鳴りだした。
 私は受話器を取った。
「はい、こちら一条寺探偵事務所」
「私は饗庭というものですが、私立探偵の一条寺蓮君というのはあなたですかな?」
「そうです」
「仕事を頼みたいのですが、こちらまで来てもらえるでしょうか?」
「すぐ伺います」
 私はガレージから愛車スカイラインGTを出して依頼人の家へ向かった。
 東京は今日も小雨が降っていた。
 電話の男から告げられた住所は大田区田園調布。依頼人はそこに自宅とともに研究所をかまえているという科学者らしかった。
 目的の住所に着いた。
 かなり大きな屋敷だ。屋上に天文台のようなドームのある建物と、庭にはガラス張りの温室が見えた。
 入り口の門柱には〈工学博士/饗庭成啓〉と記された表札とともに〈饗庭波動研究所〉という看板が掲げられていた。インターフォンで到着を知らせると自動でゲートが開いた。
 敷地内に車を止めると、白衣姿の男が迎えに出てきた。
 白髪をきれいに整えた落ち着いた感じの男性で、老人と言える外見だったが、きびきびとした物腰は年齢を感じさせなかった。
 饗庭成啓と名乗ったその男の案内で私は実験室らしいところへ通された。
 ガラスの仕切りの向こう側にテニスボールほどの銀色の球体が設置されていた。
「ここはテスラコイルの実験をしている所です」と饗庭博士は説明した。「ニコラ・テスラが発明した高周波発生器です。ニコラ・テスラというのはユーゴスラビア生まれの発明家で、交流電力を発明し、当時直流を信奉していたエジソンを打ち破った人物です。私が行っているのは、このテスラコイルを小型化しつつパワーも強化する実験です」
 博士がコンソールのスイッチを入れると、銀の球体から青白い稲妻が周囲へ弾け飛んだ。「では、応接室へまいりましょう」


 その部屋にはガラスケースに収められた小さな電子部品のようなものがいくつも展示されていた。それらは全て饗庭博士の発明品なのだった。
「早速ですが……」と博士は一枚の写真を私に差し出した。
 そこには暗い目つきをし、頬のこけた男の顔が写されていた。
「これは?」
「以前、私の助手をしていた男で、名は雨宮豪。ちょっと問題があって辞めてもらったのです。その男について調査して欲しいのですが」
「問題と言うのは?」
「雨宮は優秀な科学者であることは確かなんだが、あまりにも危険な研究を強引に推し進めようとするところがあって」
「なるほど、で、調査とは具体的には何を?」
「それがですね、一週間ほど前のことなのですが、うちの研究所から重要な実験データが盗まれる事件があって、その犯人がこの雨宮と思われるのです」
「データ……ですか?」
「ええ、部外者には何の意味もない一組の数値なのですが。実際それを持ち出したのは、私が技術顧問をしている電機メーカーの開発部員で、うちの研究所にも出入りしていた八木という者らしく、この男が雨宮に買収されていたようなのです。そしてこの八木という男、一条寺さんもご存知ではないでしょうか、今朝、蒲田駅近くで溺死していたところを発見されたのですが」
「ああ、その事件なら新聞で読みましたけど、それじゃあ、まさか……」
「いや、はっきりしたことはわからないのですが、雨宮が口封じのために殺害した可能性もあります」
「雨宮という男、いったい何をしようとしているのです?」
「今のところは、まだ何とも言えません。雨宮が今どんな研究を進めているのか、それがわからないことには……。一条寺さん、それをあなたに調査していただきたいのです」


 私は饗庭邸を出ると、スカイラインで多摩川を渡り神奈川県へ入った。
 饗庭博士から聞いた雨宮の住所は、川崎市の小さな工場や安アパートが密集した地域にあって、中でも一際ボロい木造アパートの一室だった。
 私は車を路上に止め、薄暗い裸電球の点されたアパートの廊下へ入っていった。
 一番奥が雨宮の部屋だった。ドアの前で耳を澄ましてみたが、人の気配は感じられなかった。
「ブゥゥゥーン……ブゥゥゥーン」という機械音が低く聞こえた。
 そっとドアノブに手をかけてみたが鍵がかかっていた。
 一度アパートを出て建物の裏に廻ってみた。雨宮の部屋の窓からは、奇妙なアンテナのようなものが突き出していた。衛星放送の受信用のものとも形が違う。木造アパートにはどう見ても不似合いな複雑な機械の一部のようだった。
 そのアンテナのためにアパートの窓は細く開けられたままになっていた。
 そこから部屋の中を覗くことができそうだと思い、私は顔を寄せた。
 暗い部屋の中に大量の電子機器が乱雑に並べられているのが見えた。畳の上に何本ものケーブルが絡み合うように這い回って、ところどころモニターやLEDが光を放っていた。
「おいっ、何をしている」突然、背後からするどく声をかけられた。
 そこに立っていたのは黒いレインコートを着た、ぼさぼさの髪で、顔色の悪い暗い目つき男だった。饗庭から見せられた写真の顔だ。
「あなた雨宮豪さんですね?」私はたずねた。
「何だと、お前こそ何者だっ」
「私は私立探偵、一条寺蓮という者です」
「探偵がこんな所で何をしてるんだ」
「まあまあ落ち着いて、そんなことよりこの機械は何なんですか?」
「お前の知ったことじゃない。とっとと帰ったほうが身のためだぞ」
「それはどういう意味です?」
「はっきり言ってやろう、今度ここへ近づいたらお前を殺す」人差し指を私の顔の前に突き出しながら男は言った。
「それじゃあ、八木を殺したのもやっぱりあんたなんだな」
「ふふっ」と雨宮は唇を歪めて笑った。「それはどうかな、近頃は突然激しい雨が降ることもあるそうだからな」
「いくら激しい雨だからって、人が溺死するもんか」
「はははっ、お前もせいぜい気をつけることだ。はははははっ」
 笑い続ける雨宮をその場に残して私は車へ戻った。


 雨は次第に強くなり、遠く雷が鳴るのも聞こえてきた。私はスカイラインを走らせ自宅兼事務所へ帰った。
 依頼人へ電話を入れた。
 私が雨宮のアパートで見たものを告げると饗庭博士は言った。「やはりあの男、一人で研究をつづけていたのですね。これは恐ろしいことになるかもしれない」
「何ですか。恐ろしいことって?」
「それは、まだ何とも……。研究がどの段階まで進んでいるかによるのだが」博士はしばらく考えてから続けた。「それを知るためには、一条寺さん、もう一度そのアパートへ行って、あなた見たという機械の写真を撮ってきてもらうのが一番なのだが」
「しかし、雨宮があの部屋に居座っているとなると難しいですね。確実に長時間部屋を空けている時がわかればいいのですが」
「ふうむ、ではこうしましょう。私が雨宮をうちへ呼び出すことにします。新しい実験データをエサにすれば彼もいやとは言えないでしょう。その隙に一条寺さんあなたがアパートへ忍び込み写真を撮るのです」
「わかりました。やってみましょう。ですが、饗庭博士あなたもじゅうぶん気をつけて下さい。奴は常軌を逸しているように思います。私も殺すと言われたんですよ」
「ええ、それはよくわかっています。ですがこれは、とても重大な問題なのです」
「どういうことなのか、もう少し詳しく話してくれませんか」
「しかし……」饗庭はしばらく黙って考え込み、やがて言った。「そうですね。お話しておくべきかもしれません。ですが信じてもらえるかどうか」
「とにかく話してみてください」
「では……、一条寺さんはウィルヘルム・ライヒという人物をご存知ですか?」
「いえ」
「このライヒというのはもとは心理学者フロイトの弟子だったのですが、後にアメリカへ渡り、そこで〈オルゴン・ボックス〉と呼ばれる特殊な装置の発明したのです。これは大気中から〈オルゴン・エネルギー〉なるものを集めることができ、元来は神経症の治療に役立てるためのものでしたが、研究を続けたライヒはやがてそれが雲を呼び、自由に雨を降らせる能力があることに気づいたのです。そして雨宮は言わばこのライヒ博士の研究を引き継いでいたのです。それでも当初はたんに人工降雨についての研究にすぎなかったのですが、ある時、ライヒの未発表の資料があるらしいという噂を聞きつけアメリカのミスカトニック大学に渡ってから、彼はおかしくなっていったのです。その大学は異端科学やオカルト文献の蒐集で知られていて、雨宮もそこで世界を滅ぼしかねない危険な知識に取り憑かれてしまったのです……」
 その時、窓の外で雷が光った。電話に雑音が入ったが饗庭はかまわず話し続けていた。
「……すべて本当のことなのです。ライヒの〈オルゴン・エネルギー〉、ニコラ・テスラの〈世界システム〉も……、さらにティモシー・リアリーはLSD実験で、ジョン・C・リリーはイルカの生態の研究からそれぞれ同じ、ある〈大いなる力〉の存在に気づいたのです。しかしそれらの研究のほとんどは、危険に気づいた研究者自らの手で封印されたか、あるいは政府機関による妨害によって公表されないままになっているのです。……お分かりですか、一条寺さん」
「えっ、ええ、いや……何のことだか……」
「これ以上のことは私には言えません。しかしあるいはパルプ雑誌に寄稿していたある怪奇小説家たちのグループが海底に眠る邪神〈ク・リトル・リトル〉と呼んでいるものが、その〈力〉の源泉に相当するのかもしれません」
 それから饗庭博士は、雨宮に部屋を空けさせる時間を決め「くれぐれも慎重に」と念を押して電話を切った。
 ふたたび、雷鳴が轟き閃光が走った。雨はいっそう激しさを増していた。


 翌日も、昨夜よりはかなり小降りになったものの、まだ雨は降り続いていた。
 私は車を出し打ち合わせどうりに雨宮のアパートへ向かった。
 川崎市内に入り駅前の繁華街を過ぎた辺りで、雨足が強くなった。
 雨は短時間のうちに異常なほど強まっていった。
 ワイパーをかけてもまともに前が見えないくらいで、ルーフを叩く雨音はまるで機関銃で撃たれているようだった。
「これがゲリラ豪雨というやつか……、まずい、このままでは……」
 とても、まともに走れる状態ではなかった。もはや雨というより、水の壁に突っ込んでいるようだった。
 並みの豪雨で自動車が走れなくなることはないが、これではプールに飛び込むのと変わらない。こうなると怖いのは電気系統のショートと、さらにはエンジンが水を吸ってシリンダーが吹き飛ぶ危険もあった。
 とにかく一時的に雨を避けられる場所を探さなくては。
 運よくすぐ目の前に立体駐車場の入り口が見えた。緩やかな下りのスロープになっている。
 時間貸しの無人駐車場だった。いったん地下に降りてからエレベーターで各階へ上がる仕組みだった。
 地下へ降りると、とりあえず直接降りかかる雨は避けられたが、スロープを伝って水はどんどん流れ込んできていた。
 雨水の流れは止まらなかった。地下では水の逃げ場はなく溜まっていく一方だった。水流は勢いを増し続け、しまいには決壊したダムの濁流のようになった。
 私のスカイラインの中にもドアの隙間から水が流れ込んできていた。
 水の圧力でもはやドアを開けることはできなかった。私はウィンドウを開け何とかルーフの上へ這い上がった。
 その直後には、もう車体が完全に没するほど水かさは増していた。
 間もなく私の身体は激流に押し流された。空気を求めて水から顔を出しているのがやっとだった。
 その時になってようやく私は気づいた。これは私を溺死させるための罠ではないかと。
「しかし、そんなことが……」
 そんなことが可能だろうか。雨宮は雨をコントロールできるというオルゴン・ボックスの開発に成功したのだろうか。
 天井に並んだ蛍光灯がバチバチと火花を上げながら点滅し始めた。溺死の前に感電死するかもしれない。
 私は必死で逃げ道を探した。天井の一画にステンレス製の正方形のハッチが見えた。非常時のための避難用脱出口だ。なんとかあそこへたどり着ければ……。だが下側からでは開けられないのでは。そう思いながらその下へ泳ぎ着いたが、手が届かない。水かさが増すのを待っていては感電の危険があった。どうすれば……。
 その時、ハッチが開いた。
 上の階に人がいたのだ。
 そこから顔をのぞかせたのは饗庭博士だった。
「おお、無事でしたか一条寺さん」
「博士、どうしてここへ」
「いいから早く、これに掴まって」
 饗庭博士は設置されていた避難用のはしごを降ろしてくれた。
 私は何とかやっと上のフロアへ這い上がることができた。


 私はずぶ濡れのままその場にへたりこんだ。
 そこは駐車スペースの間の通路だった。
 饗庭博士は足元に大きな黒いトランクを置いていた。
「すまない、危険な目に遭わせてしまって」
「よくここがわかりましたね」
「実は、こうなるだろうことはあらかじめ予測していたのだ。申し訳ないとは思ったが、君を奴をおびき出すための囮にさせてもらった」
「すると、やはり、この雨は雨宮が……」
「そうだ、奴もこの近くにいるだろう」
 その時、急に風向きが変わり雨滴が吹き込んできた。
 雨がカーテンのように降りしきる吹き抜けになった空間を背にして男の人影があった。
「雨宮……」博士はつぶやいた。
「邪魔はしないでもらいましょうか、饗庭博士」雨宮は言った。
 彼は手に長いアンテナのついたラジコンカーのコントローラーのような機械を持っていた。
「何をする気だっ」
「私の研究の邪魔をするものは、皆死んでもらう」
「これ以上罪を重ねる気なら、私も容赦しないぞ」
「ふははっ、饗庭博士。あんたには世話になったが、研究が完成した今となってはもはや用済みだ。二人とも死ぬがいい」
 雨宮は手にしたコントローラーを操作しはじめた。
「あれは、オルゴン・ボックス……。危険だ離れていたまえ」饗庭博士は言った。
「しかし、博士は?」
「心配しなくていい。私にはこの強化型テスラコイルがある」
 そう言って饗庭博士がトランクの中から取り出したのは、あの銀色の球体だった。  私は博士に促され柱の影に身を隠した。
 吹き込む雨の量が異常なまでに多くなった。
 そして間もなく雨は巨大な水の塊となって博士に襲いかかった。
 博士は銀の球体を掲げスイッチを入れた。
 たちまち稲妻状の青白い光が走った。
 大量の水蒸気が発生し、視界が効かなくなった。
 たちこめる白い靄の向こうに、何度となく青白い閃光がバチバチと音を立てながら明滅した。
 やがて静かになった。風が蒸気を押し流すと、そこに立っていたのは饗庭博士一人だった。
 雨宮は黒焦げになって床に倒れていた。
「あ、饗庭博士……」
「行こう。雨宮は死んだ」
「しかし、彼はあのままでいいのですか」
「放っておけばいい。警察は落雷で死んだと思うだろう」
 それから我々は博士のアウディで雨宮のアパートへ行った。
 博士は部屋に設置されていた機械類すべてを破壊した。
「これで、間もなく雨は上がるはずだ」饗庭博士は言った。
 博士の言葉どおり、その日の夕方には雨は止み、厚い雲の切れ間から陽が射すのが見えた。


 翌朝は快晴だった。
 各テレビ局のニュースは念願の梅雨明けがついに発表されたことを一斉に報じていた。

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