2012年12月19日水曜日

魔導回線


1.

「探偵さん、お願いします。『ネクロノミコン』を探してください」
 部屋に入ってくるなりその青年は言った。
 時刻はもう夜の11時を回っていた。だが、客ならいつでも歓迎する。わが探偵事務所は24時間営業なのだ。
「まあ、落ち着いてください。ええと、お名前は……森谷惣吾さんでしたね?」
「そうです」
「で、その『ネクロノミコン』というのは?」
「それは、その……本なんですが、貴重な魔道書で、つまり邪神を呼び出す呪文なんかが載っている、もっともこれは偽物なのですが……」
「ふむ、魔道書ですか……」
「一条寺さん、あなたならてっきりご存知かと。この種の事件を専門にされていると聞いていたものですから」
「この種の?」
「つまりその、オカルト的というか、怪奇現象がらみの」
「べつに専門になんかしてませんよ。たまたま過去に二、三そんな事件にかかわっただけのことです」
「そ、そうなんですか。でも、探してくれるんでしょう?」
「ええ、探しますがね、料金さえ頂ければ」
「もちろんお支払いします」
 私は規定の料金について説明した。
「では、はじめから詳しく話してください」
「はい、ええと、一条寺さんは《ラ・ムー》オークションというサイトをご存知ですか?」
「いや知りません。ヤフーみたいなものですか?」
「ええ、あれと同じようなネット・オークションのサイトなんですが、この《ラ・ムー》ではオカルトとか異端科学に関するアイテムや書物が専門に扱われているのです」
「なるほど、それで?」
「その《ラ・ムー》のオークションにですね、ぼくは自分で作った『ネクロノミコン』を出品したんです」
「えっ、あなたが作った?」
「そ、そうなんです。友人が自主制作の映画をやってまして、その小道具としてたのまれたのがきっかけで。映画は予算不足で立ち消えになっちゃいましたけど、その魔道書は思いのほかよくできたものだから、小遣い稼ぎにと思ってオークションに……。まあ、だから偽物なんですが、もともとこの『ネクロノミコン』というのは、H.P.ラヴクラフトという昔のアメリカの作家の小説に出てくる魔道書のことで、翻訳によっては『死霊秘法』なんて呼ばれたりもしますが、ようするに創作で、本物なんかもとからないわけなんです。まあ一部には『ネクロノミコン』は実在して、ラヴクラフトはそれをモデルに小説を書いたんだなんて説もあるにはありますがね。しかし、こんなオークションに出回るようなものはみな作り物だとわかってて、それでもまあ遊びで買う人はいるわけです」
「ふむ、で、売れたんですか?」
「ええ、まあそこそこの値段で。手間賃を考えれば完全に赤字という額ですが。それで落札者と連絡を取って宅配便で送ったんですが、それが相手には届かなかったらしくて……」
「宅配会社には問い合わせたんですか?」
「はい、でも、受け取りにはサインしていると言われて、一応調べてくれるとも言っていましたが、その後は何とも」
「落札者は受け取っていないと言ってるんですね?」
「そうなんです。落札したのは茎田貴という人で、サイトの評価では〈非常に良い落札者〉になってますし、他の取引ではトラブルはないようなんですが、でもこの人ちょっと様子がおかしくて、もう何度も電話してきて、始めは商品が届かないっていう普通の苦情だったんですが、次の日ぐらいから『おまえのせいで酷い目にあった』とか言い出して、『このままではただでは済まない』とか、だんだん脅迫じみたことを言うようになってきたんです」
「なるほど、状況はわかりました。受け取り証にサインがあるということは、誰かしらが受け取ったということでしょうね。その茎田氏とは別人が、例えば家の人を装うなどして配達の人から直接受け取って持ち去ったか、あるいは茎田氏自身がじつは受け取っていながら、何らかの理由で受け取っていないと言い張っているか、可能性が高いのは、そのどちらかでしょう」
「そ、そうですね。ぼくもそう思います」
「では、とにかくその茎田氏に会ってみましょう」
「ああ、どうかよろしくお願いします」


 翌日、私は早朝から起き出して、昨夜依頼人から聞いた茎田貴の住所、品川区大井町へと車を走らせた。
 そこは古びた木造アパートだった。その日は火曜日、時刻は午前8時少し前。茎田が仕事なり学校なりへ出るなら、何とかその前に会っておきたかった。
 部屋を確認して様子を窺ってみると、中は静まり返っていた。無人なのか、それともまだ寝ているのかもしれない。私は車に戻り、部屋の見える場所で待つことにした。茎田の部屋は一階の端で雨戸は開いていたが、窓はカーテンで閉ざされていた。
 30分ほど経つとカーテン越しに蛍光灯の明りが点くのが見えた。車を降りてドアの方へ回っていった。換気扇が回り、流しを使っている気配があった。
 ドアをノックすると、チェーンでロックしたまま開いた隙間から男が顔を見せた。
 それは丸顔の太った男で、ヘビーメタル・バンドのロゴとイラストがプリントされた黒いTシャツに下はパジャマのズボンをはいていた。
「何だ?」まだ寝ぼけた目つきで、不機嫌そうな声で言った。
「朝早くからすみません。私立探偵の一条寺蓮という者です」
「探偵……」
「ええ、『ネクロノミコン』の件でお話を窺いたいのですが」
「そんな物どうだっていいんだよ!」茎田はそう言うとドアを閉めようとした。
 私はなんとか手足を滑り込ませドアを押さえた。
「どうだっていいとはどういうことですか。結局『ネクロノミコン』は受け取ったんですか?」
「受け取ってないと言っただろ、もうおれには関わらないでくれ」
「どうしてです。『ネクロノミコン』はいらないんですか?」
「もう、電話をかけるのもやめてくれ」
「電話って、何のことです?」
「あのおかしな音の電話だよ」
「えっ、ちょっと、ちゃんと話してくれませんか」
「話すことなんかない。他の三人のこともおれは知ってるんだ」それだけ言うと茎田は強引にドアを閉じてしまった。
「茎田さん、他の三人って何のことです。茎田さん」私はノックしながら呼びかけたが一向に返事はなかった。


 私は車に戻り、依頼人に電話をかけた。
 こちらの様子を伝えると、森谷惣吾は会って話したいことがあると言った。
 彼の自宅近くの喫茶店で待ち合わせすることになった。森谷は港区三田のマンションに住んでいて、その店はJR田町駅の近くにあった。
 彼は昨夜と同じ服装で、髪は乱れ目の下にはくまができていた。
「だいじょうぶですか。顔色が悪いですよ」私は声をかけた。
「ええ、寝てないもので……」
「やはり、まだ何か事情があるのですね」
「はい、すみません。でも昨日の夜は、まだはっきりしていないこともあって、それですべてはお話できなかったのです」
「とにかく、話してみてください」
「じつは」森谷は周囲を気にしながら小声で話し始めた。「ぼくが《ラ・ムー》オークションで売った魔道書は『ネクロノミコン』だけではなかったのです。ほかに『ナコト写本』『エイボンの書』『屍食教典儀』というこの三冊を出品していました。どれもクトゥルー神話に登場する魔道書です。あ、クトゥルー神話というのはラヴクラフトの小説や、それを真似て他の作家が書いた作品の総称です。三冊の魔道書は、いずれもすぐに落札されました。それでその、落札した三人なんですが……」
「三人が、どうしたんですか?」
「三人とも、死んでしまって……」
「死んだ……、どうして?」
「始めにわかったのは『屍食教典儀』を買った幡野数年という人のことで、これは昨日の夜、テレビのニュースで、今流行っているインフルエンザによる死者らしいということで報じられていたのですが、二十代の若者がインフルエンザで死亡するのは珍しいということで特に名前が出ていたのです……。何度かメールのやりとりをしていましたから、すぐにああ、あの人だとわかりました。でも、その時はまさかぼくが送った魔道書のせいだなんて思ってもみませんでした。しかしその直後に茎田貴から電話があって『幡野が死んだのはおまえのせいだ』などというのです。そして『北本と斎藤ももう死んでいる』と言われて……。この北本と斎藤というのも魔道書を買ってくれた人たちです。すぐには信じられませんでした。念のため新聞を調べてみると北本仁一という名を見つけました。『ナコト写本』の落札者です。彼は車を運転していて保育園に突っ込んだということでした。夜だったので他に死傷者はなかったようですが、居眠り運転ではないかと記事にはありました。もう一人、『エイボンの書』の落札者は斎藤奈津郎というのですが、この時には、この人が無事かどうかは確認できませんでした。とにかくぼくは何が何だかわからずとても怖くなってしまって一条寺さんの所へ駆け込んだわけです。でもこんな話すぐには信じてもらえないような気がして、とりあえず『ネクロノミコン』を探すよう頼むことしかできませんでした。じつはあの後、一度は家に帰ったのですが、不安で眠ることもできず結局、府中市の斎藤さんの自宅まで車で確かめに行くことにしたのです。その家を見つけたのは、夜が明けてからだいぶ経ってからでしたが、そこでは葬式の準備が進められていました。家の人に聞くと斎藤奈津郎は中央線のホームから飛び込み自殺したということでした……」
「つまり、あなたから魔道書を買った人たちが、つづけざまに病死、事故死、自殺というわけですか。偶然とは思えませんね、かといって連続殺人とも考えにくい……。こうなると茎田氏は『ネクロノミコン』を受け取る前に盗まれたことで、かえって助かったとも考えられる」
「ええ、だから何としても誰が何のためにあれを盗んだのか突き止めて欲しいのです。それにおかしいのは、茎田さんは他の三人の落札者の名をどうして知っていたのかということです。サイトを見ればIDはわかりますが、本名までは知りようがないはずなんです」
「もともと知り合いだったということはないですか?」
「さあ、わかりません。メールのやり取りでは、そんな感じではなかった気がします」
 森谷は気を落ち着けるようにコーヒーと水を交互に口へ運んだ。
「ともかく茎田氏にはもう一度会ってその点たしかめることにしましょう。それとその《ラ・ムー》オークションですが、サイトの主催者ならば落札者の本名や住所も把握しているのではないですか?」
「そうですね。登録の時に本人証明が必要ですから」
「どんな人物が運営しているかご存知ですか?」
「いや、よくは知りませんが、たしか、オリハルというハンドル・ネームの人が個人でやっているとか。メール・アドレスは公開されていたはずです」
「では、そちらにもコンタクトをしてみましょう」
 私は携帯電話からウェブにアクセスした。《ラ・ムー》の主催者は確かにオリハルという人物だった。メール・フォームも設置されていたので、次のような文章を送信した。
こちらでの取り引きに関連して不審な事件が起きています。ぜひお話をうかがいたい。
 「とりあえず、これで様子を見ましょう。それから、あなたにひとつ聞きたいことが」
「なんでしょう?」
「茎田氏に会った時、彼は『電話をかけるのをやめろ』と言っていたのですが、これはどういう意味でしょう。『おかしな音の電話』とも言っていましたが?」
「電話ですか、何のことだかさっぱり。ぼくの方から掛けたことはありませんし」
「そうですか、もう他に手掛りになるようなことはありませんか?」
「そうだ、一条寺さん。もう一つわかったことがあったのです」
「なんですか?」
「ここへ来る前に、宅配便の会社にその後何かわかったか確認の電話をしてみたのです」
「それで?」
「ええ、配達の担当者に問題の荷物について聞いてくれたらしいのです。するとその人ははっきり覚えていて、あの荷物を受け取ったのは女だったと。長い黒髪の若い女性だったそうで、アパートの部屋の前で待っていたその人に荷物を渡し伝票にサインをもらったということです。部屋に出入りする所までは見なかったらしいです」
「ふうむ、女とは意外だな……」
 森谷とはそこで別れた。時刻は午前11時20分。勤め人が昼休みに入る前に、私は近くの定食屋で早めの昼食を摂った。
 食事を終え、車に戻ったところで携帯を確認すると、オリハルからの返信が届いていた。
不審な事件とはなんですか? いつでもお会いします。
  つづけて携帯電話の番号が書き込まれていた。その番号へ掛けてみると、快活そうな青年の声が応じた。新宿区のマンションの住所を告げて、今から会ってもいいと言う。私はすぐに行くと言って電話を切った。


 私は車を新橋方面へ走らせ、外堀通り沿いに新宿へ向かった。
 車は以前のシルビアから、また白のスカイラインGTへ買い換えたばかりだ。中古だが調子は悪くなかった。
 オリハルから教えられた住所にあったのは、古いながらも小綺麗な大型のマンションだった。来客用の駐車スペースへ車を止め、ゴロゴロと音のするエレベーターで6階へ上った。オリハルの部屋は616号室ということだった。
 その部屋は〈紺野折晴〉と表札を出していた。
 インターフォンを押すとすぐに住人が顔を出した。
 その青年はやや面長で整った顔に眼鏡をかけていて、細かい柄のセーターにグレーのスラックスという服装だった。背は高くがっしりした体つきだ。
「一条寺です」
 私が名を告げると青年は笑顔を見せた。
「やあ、お待ちしてましたよ。どうも紺野折晴といいます」
 部屋の中へ案内された。壁にはH.R.ギーガーの大きなポスターが飾られていた。様々な周辺機材が繋がれたデスクトップのパソコンがあり、それとは別にノート・パソコンも立ち上げられていた。本や雑誌にくわえDVDなどのソフト類も大量にあって、本棚に収まりきらない分は床に積み上げられていた。雑然としていながらも、所々に観葉植物の鉢植えが配されているあたり一定のセンスを感じさせた。
「いや、すみませんね、散らかってる所へ」
 勧められた椅子に私は腰掛けた。
「オリハルというのは本名だったんですね」
「ええ、親がね、名字がコンノだからって、オリハルコンにちなんで付けたらしいです。アトランティスの幻の金属のことなんですが、つまりオカルト好きは親譲りってわけです」
「はあ」
「しかし、実物を見るのははじめてだなあ、私立探偵なんて。で、その事件というのは?」
「こちらの《ラ・ムー》オークションで、魔道書を買った人がつぎつぎに変死を遂げているんです」
「変死……って、そんな」
 私は森谷惣吾から聞いた事実を一通り話した。
「待ってください。確認させてもらいます」と、紺野はパソコンを操作しはじめた。「わかりました。確かにその方たちはうちのサイトの利用者ですね。そして幡野数年さん、北本仁一さんの件はニュースサイトに上っています。斎藤奈津郎さんについては名前は出てませんが、中央線でのそれらしい人身事故の情報があります。しかし三人も死んでるなんて、ただ事じゃないですね」
「それでですね、こちらのパソコンから、利用者のデータが盗まれた可能性はないですか?」
「まさか、そんな……。セキュリティは常に最新のものにしているし。そりゃあ、よほど高度なハッカーの仕業ならわかりませんが……」
「オークションの利用者について他人に話したようなことは?」
「それはありません。個人情報の管理には気を使ってますから。一条寺さんは、これが殺人だと疑ってるんですか?」
「まあ、あくまでも念のための確認です。ところで、あなたはいろいろお詳しいようなので、ついでに聞きたいのですが、茎田氏の部屋を訪ねた時、おかしな音の出る電話のことを気にしていたのですが、これは何のことかわかりますか?」
「おかしな音……ですか?」
「ええ、その電話をかけるのをやめろと」
「それだけじゃ、なんとも言えませんねえ。まあ、電話を使って催眠術をかけるって話なら聞いたことがありますが」
「電話で催眠術を……、そんなことが可能なんですか?」
「ええ、ぼくは以前、『ナスカ』ってオカルト雑誌のライターをやってたのですが、その時、取材した学者でね、電子音を使った催眠術の研究をしている人がいて、いろいろ問題を起こして、大学はクビになっちゃいましたけど。その人は研究が完成すれば、電話越しに音を聞かせて他人を自由に操れるって豪語していましたね」
「では、その学者の研究が完成していれば、あなたから魔道書の落札者の電話番号を聞きだしたり、さらにその番号に電話を掛けて自殺や事故を起こさせることも可能なわけだ」
「いやいや、そりゃ、可能性がないとは言い切れませんが、じっさいそんなことは……。事故や自殺はともかく、インフルエンザまではどうにもならんでしょう」
「そうですが、しかし、二十代でインフルエンザで死ぬのはめずらしいと言われています。それは何か身体の抵抗力を弱めるような指示を催眠術で行なったためなのかもしれません」
「いや、しかし……考えすぎじゃないんですか」
「そうかもしれません。だがじっさい茎田氏が電話でおかしな音を聞いたと言っている事実があります。それに魔道書を買った人が続けて変死するという謎も、電話による催眠術という方法ならうまく説明がつくでしょう」
「ううん、待てよそう言えば……」と、紺野は急に不安げな面持ちになって言った。「ぼくのところにも最近おかしな電話が……」
「あったんですか?」
「ええ、夜中にね。着信音で目が覚めて、2時ごろだったか……。番号が非通知だからおかしいなとは思ったんだが、その後の記憶が曖昧で……、結局、無言電話でまたすぐ寝ちゃったんだろうと思ってたんですが」
「じゃあ、その時に催眠術にかけられ、落札者の情報をしゃべらされた上でその記憶も消されたのかもしれない」
「そんなばかな、そんなに簡単に人の記憶が消せるなんて」
 紺野は髪をかきむしるようにして頭を抱えた。
「まあ、これはあくまで可能性の話で、そうと決まったわけではありません。だが、調べてみる価値はあるでしょう。その研究者の名前、教えてもらえますか」
「えっ、ええ。たしか取材の時のメモが……」紺野は机の引き出しから古い手帳を取り出してページを繰った。「あった、そう名前は土門晶義。住所は江東区東雲です」
 私はその住所と電話番号を自分の手帳に書き取った。
「しかし、どういうことなんでしょう」紺野は言った。「一連の変死事件が催眠術を使ったものだとして、なぜ魔道書の落札者が狙われたんですか。クトゥルー神話の魔道書といったって、作り物の偽物なんでしょう?」
「さあ、それはわかりません。とにかくこの土門晶義に会ってみるつもりです」
「だいじょうぶですか、もし相手が本当にそんな催眠術を使えるんだとしたら、ノコノコ会いにいったりして」
「通常、催眠術というものはかかるまい思っている相手には効果がないことになってますから、まあ、だいじょうぶでしょう」
「そうですが、そんな常識が通用する相手なのかどうか……」


 私が駐車場からスカイラインを出そうとしていると、近くに止めてあった黒いフェアレディZが、いきなり飛び出してきた。私のすぐ横をかすめるようにすり抜けて、スカイラインと鼻先を突き合わせる寸前で停止した。
 運転していたのは若い女だった。長い黒髪で、猫のような丸く吊り上がった大きな目がこちらを睨んでいた。
「なんだ、あんたは?」
「私の名は竹内麻耶。あなたに警告にきました」
 女はノースリーブの黒いワンピースを着て、胸元には大きく鮮やかな青い勾玉の首飾りを下げていた。
「警告だと。どういうことだ?」
「あなたが今かかわっている事件は、とても危険なものです。これ以上、深入りしない方が身のためです」
「ふん、怖じ気づいてちゃ商売にならないんでね。それよりあんた、『ネクロノミコン』て魔道書を盗んだのが、あんたとそっくりな女だって情報があるんだが?」
「そう、あれを盗んだのは私です。すでに焼き捨てました」
「焼き捨てましたって、それで済むと思うのか?」
「とにかく、あなたにも危険が迫っています。もうこの件にはかかわらないように」
 そう言うと女は、フェアレディを後へ急旋回させ、エグゾーストを残して走り去った。


2.

 女は『ネクロノミコン』は焼き捨てたと言っていた。それが本当なら当初の依頼に関して、これ以上調査を続ける意味はない。だが素性の知れない女の言葉を鵜呑みにすることはできない。事の真相を明らかにするためには、事件の全体像を把握したうえで、自分の目で確かめる以外に方法はない。結局、私にできるのは、与えられた手掛りを一つずつ辿ってみることだけだった。
 私はスカイラインに乗り込み、携帯でまず森谷惣吾へかけ、番号非通知の電話にはなるべく出ないように、そうでなくても通話中に奇妙な音が聞こえるようなら、すぐ切るようにと注意を与えた。
 次に土門晶義の研究所へ電話をかけた。
 呼び出し音が鳴り続けた。不在かと思いかけた頃、相手が出た。
「もしもし……」低く嗄れた声が言った。
「私立探偵の一条寺と申しますが、そちらは土門晶義さんの研究所ですね?」
「私が土門ですが」
「ああ、そちらでは何か催眠術に関する研究をなさっているとか。できればその件でお話をうかがいたいのですが?」
「話すのはいいが、今は忙しいところでね。夜にこちらに来ていただければ、何かと都合がいいのですが」
「夜というと、何時ごろでしょうか?」
「9時ではどうですかな」
「では、本日夜9時にそちらへうかがうということで」
「住所はおわかりか?」
「ええ、知っています」
「では」
 電話は切れた。
「ふう」何となく気圧されて、思わずため息が出た。
 夜まではまだ間がある。私はもう一度、茎田貴を訪ねることにした。
 この時間では部屋にいるとも限らないが、土門との約束の時間まではアパートの前で待つつもりだった。


 茎田のアパートについたのは午後3時すぎ。部屋には灯りが点いていた。
 ドアをノックすると、チェーンでロックしたままの隙間から茎田の丸顔がのぞいた。
「また、あんたか」茎田は不機嫌そうに小声で言った。
「事件について、少し聞きたいことがあります」
「もう、話すことはないよ」
「まあ、そう言わずに。ところであなたお仕事は何を、それとも学生さん?」
「バイトをしてたけど、しばらく休むことにしたんだよ。いろいろ危ない目に遭いかねないんでね」
「なるほど。例のオークションで、同じ人から魔道書を落札した三人がたて続けに死亡した、このことをあなたはご存知だったわけですね」
「ああ、知っていたよ。おれが四人目になるところだったんだからな」
「しかし、あなたはなぜ、他の三人の本名を知っていたのですか?」
「そんなこと、どうだっていいだろう」
「いや知りたいですね。この件が公になれば、警察もそれを知りたがるでしょう」
「何だよあんた、おれが犯人だとでも言うのか。犯人は森谷に決まってるだろうが」
「なぜです?」
「だってそりゃ、死んだ落札者三人とつながりがあるのはあいつだけじゃないか」
「でも、あなたも知っていたんでしょう?」
「お、おれは、教えられたんだよ……」
「教えられた、誰にです?」
「女だよ、いきなり訪ねてきて『あなたに危険が迫っている』なんて言い出してな。はじめは頭がおかしいんだろうと思っていたけど、教えられた三人の名前のうち二人は本当に死んでいることがわかったからな、もう一人も死んでるだろうと思ったんだよ」
「その女の名は?」
「たしか、竹内とか」
「竹内麻耶ですね?」
「ああ、そんな名前だった」
「で、その女は他に何を言ったんですか?」
「ううん、要するにああいう『ネクロノミコン』とかそういうものを欲しがるのは危険だということだったな。それを欲しいという気持ちを完全に捨てないと、この三人のようになるといって、名前を書いたメモを渡されたんだ」
「しかし、あの『ネクロノミコン』が偽物だということはわかっているんでしょう?」
「うん、たとえ偽物でも、魔道書などを所有したいという欲望があると心に隙ができる、その隙を狙ってくる悪い奴がいるんだって」
「なるほど心の隙ですか。おかしな電話はまだかかってきますか?」
「いや、今日はかかってきてないね」
「そうですか。まあ、しばらくは不審な電話には出ない方がいいでしょう」
「彼女からもそう言われたよ」
「その女は、なぜそういろいろ知ってるんだろう?」
「そりゃあ、本物の霊能者だからにきまってるでしょうが」


 そして夜。風が強くなってきた。雲が押し流されていくと、空には半月が昇っていた。
 近未来的な高層建築のならぶウォーターフロントを抜けて、まだ空き地も多い埋立地の倉庫街へ出た。そんな中に土門晶義の研究所はあった。まるで百年前から建てられていたような石造りの洋館だった。周囲には先を槍のように尖らせた鉄柵が巡らされている。三階建てで、屋根からは日本ではめずらしいガーゴイル像が訪問者を見下ろしていた。
 午後9時ちょうど、私はスカイラインを路上に止め、石段を登ると、大きな黒いドアの前に立った。金色の呼び鈴のボタンを押してしばらくすると、内側から扉は開かれた。
 あらわれたのは白いスーツを着こなした老人だった。
 長身痩躯で、白髪が肩まで波打ち、血色のいいピンク色の皮膚のその顔には、性格の厳しさを表すような深い皺が刻まれていた。
「お待ちしていました。私が土門晶義です」電話で聞いたあの嗄れ声が言った。
「一条寺蓮です」
 私は土門の後に従って建物の中へと足を踏み入れた。
 玄関ホールから左右に廊下が伸びていたが、土門は入り口の対面にある通路を進んだ。突き当たりのドアを開けると、その先には別世界が広がっていた。  まるで熱帯雨林のような巨大な植物に一面覆われていた。この建物は外から見ると普通の立方体だが、じつは回廊型になっていて、その内側は大きな中庭になっているのだった。
 間接照明が植物の緑を幻想的に浮き上がらせていた。シダやアロエなど裸子植物が葉を広げ、水路の上にマングローブの支柱根が絡み合うように蔓延っていた。毒々しい紅い花や、たわわに実った黄色い果物も見える。そしてそれら一つ一つが異常なほど大きく育っているのだった。
「すごい。ここの植物は、普通のものより大きいようですね」緑のトンネルを歩きながら私は尋ねた。
「モーツァルトを聴かせると、植物はよく育つというという話を聞いたことがありませんか。ここではその理論を独自に応用して植物の育成を促進する実験を行なっているのです」
「すると、やはり音楽で?」
「音楽というか、ある種の音響ですな。私が独自に開発したものです。この世界は音で満ち溢れている。クジラの歌は海中を伝わり、地球の反対側の仲間へ情報を送るといわれています。ある種の音の響きには、まだ人類が知らない秘密のパワーが隠されているのです」
「秘密のパワー?」
「そう。例えば呪文もそうです。あるいはヨーガのマントラも。中には口にするだけで死を招く危険なものもある。ジョン・ディーは、不死のオランウータンに文字を書かせつづければ、究極の呪文を見つけだせると考えた。あるいはアレイスター・クロウリーが《召喚の蛮名》と呼ぶもの、ラヴクラフトが恐怖小説の中で描いたのもそんな呪文です」
「ラヴクラフト……、あなたは催眠術の研究をしているのだと思っていましたが?」
「催眠術ね、それもわが精神音響学の一部ではある」
「土門さん。率直にうかがいたい。催眠術で人を殺すことは可能ですか?」
「殺人か、私にはとくに難しいことではない」
「あなたはそれを試したのですか?」
「ふん、何が言いたいのかね。私が人を殺したとでも?」
「それはわかりません。私が知りたいのは幡野数年、北本仁一、斎藤奈津郎この三人の死の真相です」
「彼らは、自ら死を選んだのだ。違うかね」
「だが、その原因を与えたのはあなたではないのですか?」
「私は教えてやったのだよ。偽の魔道書を手に入れて喜んでいる者どもに、真の呪文の力というものを。おかげで人間精神に関する貴重なデータを手に入れることもできたがね」
「では、やはりあなたが……」
 土門は足を止めた。
「さあ、着きましたぞ」そう言うと、手を広げ前方の眺めを披露した。
 そこから先は植物が途切れ、象牙色の大理石が敷きつめられた空間になっていた。
 その床には複雑な線模様と見たこともない文字のようなものが一面に描きこまれていた。そして一方の端には、奇妙な形をしたラッパ型のスピーカーが左右に配され、その中央には上部と側面にアンテナ線のようなもののついた筐体がコードに繋がれ置かれていた。その反対の端には、飾りのない木製の椅子が一つ置かれている。
「こ、これは一体……?」
「ふふふふふ、私の研究はこれより新たな段階を迎える。そのために必要な、大いなるパワーの召喚を行うための場所だ」
「どういうことだ?」
「一条寺君、気づいていないようだが、君はすでにわが術中にあるのだよ」
「何……だと……!?」
「君の身体はもう、私の命令なくしては動くこともできまい」
「うっ」私は突然、全身が金縛りにでもあったように動けなくなっていることに気づいた。「い、いつの間に」
「ふふふっ、人間には可聴域といって耳で聞き取れる音の範囲があるが、しかしその範囲外の音でも精神に影響を与えることはできるのだよ」
「く、くそう、何をする気だ?」
「安心したまえ、殺すつもりはない。君にはわが大事業の証人になってもらおうと思ってね。これから起こることの一部始終をその目で見届けてくれれば、それでいいんだよ。もっとも、正気を保っていられるという保証はないがね。ははははっ、では一条寺君、歩きたまえ、その椅子に腰掛けるのだ」
 土門にそう命ぜられると、私の身体は自分の意思とは無関係に動き出した。
 椅子に座らされた私は、目を閉じることすらできず、催眠術師の一挙手一投足を見守らねばならなかった。
 土門晶義は筐体に歩み寄り、スイッチを操作しながらアンテナ線に手をかざした。するとスピーカーからは、ヒュゥゥゥーンという風の鳴るような音が流れ始めた。
「これはテルミンという楽器を改造したものでね」
 音はゆるやかに音程を変え、音色自体も次第にこの世ならざる響きへと変化していった。
 土門はポケットから古びた紙束を取り出して言った。
「『ネクロノミコン』から書き写された呪文だ。もちろん本物のな。シベリア奥地の寺院に秘蔵されていたものを私が発見したのだ」
 そして土門は紙束を開き、そこに記された呪文を詠み上げはじめた。

  イア! イア! シュブ=ニグラス!
  千匹の仔を孕みし森の大いなる黒山羊よ!
  ザリアトナトミクス ヤンナ エティナムス
  ハイラス ファベレロン フベントロンテイ
  ブラゾ タブラソル ニサ
  ウァルフ=シュブ=ニグラス!

 手の動きにあわせて音が響きを変えていく。土門は呪文を唱えつづけた。
 いつの間にか、床に記された図形の上に青白い燐光を放つ靄のようなものがあらわれていた。やがてそこへダイヤモンド・ダストと呼ばれる現象のような、きらきらと輝く粒子が浮遊し始めた。きらめく粒子は渦を描いて回転し始めると、その中央に暗い影が拡がっていった。それはまるで宇宙の深淵がそこへ口を開いたかのような底知れぬ暗闇だった。暗黒の影は次第に拡大しつつ、同時に何か特定の形へと凝集しつつあった。
「な……、何だ、あれは……」私の口から思わず言葉が漏れた。
 じょじょにその形がはっきりしてきた。それは湾曲した巨大な角を持つ山羊の頭部に似た何かであった。
「うっ、うわぁぁぁ」

  イア! イア! シュブ=ニグラス!
  千匹の仔を孕みし森の大いなる黒山羊よ!

 土門の声は憑かれたように力強くつづいていた。
 だがそこへ、呪文の詠唱を断ち切るようなするどい声が響いた。
「やめなさい!」
 見るとそこには、黒いワンピース姿の女性が立っていた。まるで緑の木々が彼女のために道を開けたかのようだった。胸には大きな青い勾玉の首飾りが揺れている。あの女、竹内麻耶だ。
「な、何者だ、貴様っ!?」土門は血走った目を見開いて女を睨みつけた。
 彼女は首飾りの勾玉を首から引き千切るようにして手に取った。
「シュブ=ニグラス! 魔界の黒山羊よ、その穢れた蹄で、日本の土を踏むことは、この私が許さん!」
 竹内麻耶はそう叫ぶと、実体化しつつあった巨大な黒山羊めがけて青い勾玉を投げつけた。勾玉が山羊の頭部に命中すると、大音響とともに閃光が爆発した。
「ぐあぁっ、ぎゃぁぁぁぁーっ」光を浴びて土門は絶叫した。
 私の身体はいきなり緊張が解けた。そのせいでバランスを失い椅子ごと後へ倒れてしまった。
 光と爆音、それに絶叫はしばらく続いていたが、不意に沈黙が訪れた。
 私の目は眩しさにまだまともに周囲を見ることができなかった。
 コツコツと床を歩く靴音が近づいてきて、女の手が私を助け起こしてくれた。
 やっと視力が回復してきた。巨大な黒山羊は幻のように消えていた。床の上の焼け焦げだけがわずかにその痕跡を留めていた。土門晶義の姿はどこにもない。
「あの男は?」私は尋ねた。
「シュブ=ニグラスが異界へ帰る際にともに引き込まれました。どのみちもう生きてはいないでしょう」
 麻耶は床の上の何かに目を止め、そこへ歩み寄った。
 そこには、あの勾玉が砕け、消し炭のような真っ黒な残骸となって落ちていた。
「先祖から受け継いだ勾玉が砕けてしまった……。次に誰かがふたたび、この日本で邪神の召喚を行なおうとしても、もう私にはそれを止める力はない」
 彼女はていねいに拾い集めた勾玉の残骸を握り締めると「さよなら」と言ってその場から立ち去った。
 私には、ただその後姿を黙って見送るより他にできることはなかった。

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