2012年12月26日水曜日

神話症候群


1.

 私は約束どおりの時間に依頼人の家を訪れた。
 だが、家の主には先客があって、私は応接間で待たされることになった。
 応対したのは白衣を着た若い女の看護師だった。
 依頼人の名は奥津深一、何か病気らしいとは聞いていた。
「本当は入院が必要なぐらいなんですけど、あの人、どうしても家を離れたくないとおっしゃって……」と白衣の女は説明した。
 なるほど、この家なら離れたくないと言うのもうなずける。世田谷区成城の庭付き一戸建て、趣味良くまとまったインテリアを眺めてそう思った。
 依頼人は中古車のブローカーということだったが、部屋の中には仕事に関連したものは見当たらなかった。
 壁には大きな絵が飾られていた。ダリかエルンストの亜流のようなシュルレアリスムの画風で、海底都市と思われる奇妙に歪んだ風景が青いトーンで描かれていた。
 しばらくすると、ドアが開いて大きな鞄を提げた医師らしい男が出てきた。
「どうぞ、奥津さんは起きられませんから」と、部屋に入るよう身振りで示した。
 私が立ち上がると、医師と看護師は会釈をして出て行った。


 奥津深一はベッドの上で上半身を起こして待っていた。
「すみませんね、こんな恰好で」と彼は言った。
 右の頬には大きなガーゼが貼られ、左の手首にも包帯が巻かれていた。
 その部屋にも壁に絵が飾られていた。応接間にあったものと同じ作者の手によるものらしいが、こちらは動物と植物が融合したような黒い怪物の絵だった。
「お待たせしてしまって、医者のやつが遅れたもので」奥津は言った。
 低く深みのある声だった。浅黒い皮膚の色で、黒目がちな眼に太い眉毛、艶のある黒い髪、年齢は五十代ぐらいにみえた。やや小太りで病身とはいえ、まだ働き盛りといった精悍さがあった。
 私はベッドの横に用意されていた椅子に腰掛けた。
「どうですか、体の具合は?」
「いや、悪いですな、悪くなる一方といった感じです」
「ご家族は?」
「ずっと独身で、家族はありません」
「そうでしたか……、お医者さんは何と言ってるんです?」
「医者も困ってます。こんな症状は初めてだと言ってね。原因不明の奇病らしい。始めは何となくだるい感じだったんです。そのうち内臓が悪くなりだして、今度は皮膚です。こうあちこち爛れてくるんですな。しかし、伝染性のものではないので御心配なく。そもそも私が思うには、これは病気ではないんです」
「というと?」
「呪いです」
「えっ、呪い……ですか?」
「そうです。では、探偵さん、そこの箱を取ってもらえますか」
 私はテーブルの上に置かれていた木箱を手に取った。持ち上げるとずっしり重い。
「中の物を出してください」
 蓋をあけると、そこに入っていたのは高さが40センチ位の彫像だった。材質は鮮やかなグリーンの石で、八角柱の台座の上に悪魔のようなものがしゃがみこんでいた。頭部は蛸を思わせる形状で触腕の部分が髭のように垂れ下がっている。背には翼手竜のような翼があり、長い尻尾が台座に巻き付けられていた。触腕や手足の先の鉤爪まで細かく彫刻されていた。
「これは……?」
「一年ほど前、ある骨董商からなかば無理矢理に買い取ったものです。私はこの歳まで女性に縁がないのですが、そのぶん絵や彫刻には愛着が湧くんですな。と言ってべつに美術や骨董にそう興味があるほうではないんだが、ある種の絵や彫刻には、運命的とでもいうような出会いを感じることがあるのです。そうなるともう、いくら金をつぎ込んででも手に入れたくなってしまうんです。この部屋の絵もそうです。その彫像も」
 奥津は彫像を手に取ると、指先でそっと撫でまわした。
「たまたま立ち寄った骨董品店でひと目見ただけで、もう欲しくて堪らなくなりました。ですが店主は、その彫像はすでに別の客に売約済みで、どうしても私には売れないと言うのです。私は何倍の金額でも出すといったのですが、先に契約をした人は長い付き合いの常連客でとても裏切れないということでした。しかし私もあきらめることができません。それで、私は昔この店で買った絵のことを思い出したのです。それはある有名な画家の作品ということでしたが、後で調べてみると贋作であることが判明したのです。その時は、絵と引き換えに金も返してもらったので穏便に済ませていましたが、私はその件を持ち出し、この店は贋作を売り捌いているという噂を流すと言って店主を脅しました。すると店主は目に見えて狼狽しはじめました。どうやらこの男、あの絵を偽物とわかっていながら別の人物に転売したらしいのです。そんなことが明るみに出ればもう商売をつづけることはできないでしょう。それで泣く泣く像は私に譲ってくれることになったのです。もちろん代金は払いました。私はこの像を部屋に飾れることが嬉しくてたまらなかった……」
 不意に言葉を途切れさせ、彫像をこちらへ手渡した。
「それからです。私の体が不調になったのは。一週間も経つともう仕事もつづけられなくなりました。夜には恐ろしい悪夢を見ます。私にはわかるのです、その彫像から何か呪いの念のようなものが放射されているのが」
 私は彫像をテーブルの上に静かに置いた。
「一条寺さん、お願いします。私を助けてください」
「助けると言っても、どうすれば……?」
「その彫像を元の持ち主に返して欲しいのです。最初は例の骨董商に取りに来させようと電話をかけたんだが、あの男、何のかんのと理由をつけて近寄ろうとしないのです」
「では、その骨董商へ持って行けばいいのですね」
「ええ、そして、その彫像をあの店に売ったのは誰なのか聞き出して欲しいのです。できれば、その人物に会って彫像の由来を尋ねてもらいたい。さらに前の持ち主がわかれば、その人物にも……、そうしてできる限り所有者を遡って、その彫像が、いつ、誰の手で作られたものなのか、それになぜ呪いが生じることになったのか、それを確かめて欲しいのです」
「わかりました。で、その骨董商というのは?」
「自由が丘にある千夜堂です。店主の名は添田仁郎」


 私は彫像を納めた木箱を助手席に乗せ、スカイラインGTを出発させた。
 成城から世田谷通りを北へ行って、環八を東へ。
 東急線自由が丘駅は世田谷区を抜けてわずかに目黒区に入ったところにあった。
 小綺麗なレストランやブティックの並んだ商店街も外れの方に骨董店千夜堂を見つけた。
 小さな店だ。壺やら仏像やらが床から棚の上まで積み重ねるように押し込められていた。
 薄暗い店の奥に店主はいた。猫背で痩せていて、白髪だが顔つきは若くも見える年齢不詳の男だった。日本人離れした鋭角の高い鼻の上に丸いレンズの眼鏡をのせていた。手にはボロ布をもって銀の燭台を磨いていた。
 私はレジスターをのせてデスク代わりになっているショーケースの上へ木箱を置いた。
「何だね。買い取りかい?」店主は言った。
「いえ、代金は要らないそうです。あなたが添田仁郎さん?」
「ああ、そうだが」
「これは奥津深一氏から、あなたに返すように頼まれたものです」
「え、奥津から……ま、まさかあの邪神像じゃ……」
「なるほど、邪神像というのですか、これは」
 私は木箱を開きパッキンに埋もれた彫像を見せた。
「や、やめてくれ」添田は何かを押し留めようとするかのように両手を前へ突き出した。
「なぜ恐れるんです。もともとこの店で売っていたものでしょう」
「いいから、その箱を閉じてくれ」
 私は箱を閉じた。
「な、何者なんだ、あんたは?」
「一条寺蓮、私立探偵です」
 添田はため息を吐くと、眼鏡を外してボロでレンズを拭きはじめた。
「あの時は知らなかったのだ、この像の恐ろしさを」
「では、今は知っているというわけですか?」
「あ、ああ」
「一体何なのです、この像は?」
 眼鏡をかけなおして添田は言った。「チュールーの神というやつでね」
「チュールー……?」
「ああ、高木彬光先生が「邪教の神」という小説の中で書いている。もっともあの小説の中では木彫りの像ということになってるんだが、そのモデルになったのがこれで。外国の小説ではクリュリューとか何かそんな名で呼ばれているらしいが。ともかく、この邪神の像を手にした者は恐ろしい呪いによって皆つぎつぎに死んでいるんだ」
「あなたは生きてるじゃないですか」
「ここには短期間置いていただけだし、第一、売り物として持っているのと、欲しいという欲望があって持っているのではわけが違うんだろう」
「じっさい死んだのは何人ぐらいですか?」
「さあ、詳しいことは……。そもそも骨董なんかを趣味にするのは老人が多いので、所有者がじきに死んだとしても、べつに珍しいことでもないし……」
「何だ。じゃあやっぱり呪いなんて迷信なんですね」
「いや、そうは言っても、奥津の病気はどうなるんだね。医者も原因がわからないそうじゃないか」
「ううむ、それはそうだが、しかし呪いの所為と決めてかかることもできないでしょう」
「まあ、呪いに関しては私も半信半疑といったところだが、恐ろしいことは他にもある」
「何ですか?」
「これはあくまで噂だがね、この件の背後にはある宗教団体が絡んでいるという説があって、この像の所有者の中にはナイフでメッタ刺しにされて殺された人もいるとか、いないとか……まあ、そんなわけでここには置きたくないんでね。持って帰ってくれ」
「ふむ、仕方がないな。じゃあ、代わりに教えてください。この店にこの彫像を持ち込んだのは誰なんですか?」
「誰と言われてもねえ、名前は知らないよ。何しろ浮浪者のようなやつで、それ一つを新聞紙に包んで持ってきて金に換えてくれと言うんだ。ああいうのはゴミ捨て場から拾ってくるんだろうね。それでも時には、こういう意外な掘り出し物もあるんで相手をしてやっているんだが。その男ははじめて見る顔だったな。ひどい顔色で、今にも倒れそうな様子だったのを憶えてるが……」
「そうですか。それからもうひとつ。この像を奥津氏に売るときに、先に売る約束をしていた人がいたそうですね、それは誰ですか?」
「寺岡さんて人ですよ。この像の正体もその人に聞いたんだがね」
「今でも欲しがってるんですかね、この像」
「さあねえ、そいつを奥津に売ってしまってから、私は寺岡さんに謝りに行ったんだが、あの人は笑って許してくれましたよ。おかげで死なずに済んだと言ってね。やっぱりあの人も呪いを恐れてたんだ。それでも欲しいという気持ちもある。コレクターだからねえ」
「コレクターというと?」
「寺岡さんは、これぐらいの小型の偶像のコレクターなんですよ。彫像でも、粘土像でも何でもね」


 私は車に戻り、依頼人に電話をかけた。添田の話の内容を伝えると、彫像はそのコレクターだという男に譲ってもいいとのことだった。
 添田から聞いた寺岡の住所は柿の木坂という所だった。東横線の都立大学駅近くというから自由が丘からはすぐ隣だった。その辺りもけっこうな高級住宅街である。
 寺岡の家を見つけた。ドアには〈オリオン警備保障〉と記されたステッカーが貼られ、建物の周囲には防犯カメラが設置されているのが見えた。
 私はインターフォンを押した。添田のところから電話で来訪の意図は伝えてある。
 ドアが開き姿を見せたのは、太った大きな体をした丸顔の男だった。歳は四十ぐらいだろうか。ニコニコと嬉しそうな表情を浮かべていた。
「どうぞ、お待ちしておりました」
 私は応接間へと案内された。その部屋には寺岡のコレクションである偶像の数々が展示されていた。すべて20から40センチほどの大きさで、キリスト教関連の天使や聖者、日本の土偶、エジプトの猫や鳥の頭をした神像、アフリカや南米産と思われるものなど、ほとんどは人物像だが、中には動物や鳥あるいは怪物を象った像もあった。素材も木、金属、粘土や陶器と様々だ。それらがマントルピースの上やガラスケースの中にぎっしりと並べられ、部屋の壁沿いに四方を取り囲んでいた。
「コレクターとは聞いていましたが、すごい数ですね」
「いえいえ、ここにあるものは蒐集品のごく一部に過ぎません。まあどうぞ」
 椅子を勧められ、私は腰をおろした。
「一応、これを」と寺岡は名刺を差し出した。
 そこには〈寺岡久遠〉と記されていた。肩書きには〈輸入品販売業〉とある。
 私も自分の名刺を相手に渡した。
「私は一年の大半は海外を旅しているものでして。おもに家具や雑貨の買い付けが目的ですが、そのついでにこうした偶像を見かける度に買い集めているのです。いや、今日は日本にいて本当に運がよかった。あの邪神像が転がり込んでくるとは」
「では、どうぞ」私は抱えていた木箱を手渡した。 
 寺岡は目を輝かせながら箱を開くと、パッキンが飛び散るのもかまわず彫像をつかみ出した。
「これは、確かにあの時の像だ」
 まるで像に魅入られたようにじっと見つめていた。
「あなたは呪いを恐れていたのではないのですか?」私は尋ねた。
 ふと我に返ったように寺岡は彫像をテーブルへ置いた。
「そう、呪いが恐ろしいのも確かです。あなたから電話をいたただいた時は断るべきだという気持ちもありました。だが、こうして現物を見てしまうと、もう、これはとても手放す気にはなれません」
「この像の由来について何かご存知ですか」
「ええ、もとは南太平洋のポナペ島だとかで信仰されていたもので、この像のような邪神が海の底で眠りながら復活の時を待っていると信じられているそうです。そして今ではその信仰は秘密結社のように世界中に広まっていて、時には人身御供のようなことも行なわれているとか。そんなことから呪いという噂も生まれたのかもしれません。いや、たんなる噂なのか、本当の呪いなのか私にはわかりませんが」
「そうですか」
「気になるなら、まだ資料がありますが」
「資料というと?」
「いろいろと調査するうちに知り合いになった大学教授がいましてね。その人は病気で亡くなったんだが、大学に保管されていた資料を私が譲り受けたのです。内容がオカルトじみているんで大学側じゃ早く処分したかったのでしょう。論文の草稿と新聞記事の切り抜き、それに精神病院で自殺した患者の遺書などをファイルしたものです」
「見せてもらえますか」
「ええ、見せるのはいいんですが、ろくに読みもせずどこかに放り込んでしまって探さないと……、仕事もあるので今すぐというわけには……」
「お時間のある時でいいのですが」
「明日までには見つけられると思います」
「お手数をおかけします」
「いやいや、この像をゆずっていただいたのですから、まだまだ感謝したりません。奥津さんにもいずれお礼にうかがうとお伝えください」


 寺岡の家を出ると、空は夕焼けに染まっていた。風が冷たくなってきた。
 先週までは夏日がつづいていたが10月に入って気温が不安定になってきた。
 私は直接報告するために成城の奥津の家へと戻った。
 この数時間のうちにも病は着実に進行しているようだった。奥津深一の顔には左の頬から首にかけて痣のようなものが浮かんでいるのが見えた。
 私は彫像は寺岡久遠が受け取ったこと。それにあの像に関連した資料が寺岡のところにあるらしいことなどを伝えた。奥津は明日以降も像についての調査をつづけて欲しいと言った。
 奥津のもとを辞去してから、しばらく適当に車を走らせ小さな洋食屋を見つけた。食事を終えて店を出ると、もうすっかり日が暮れていた。
 車に戻ると、携帯電話が鳴り出した。
 相手は寺岡久遠だった。だいぶ慌てているような話し方だった。
「い、一条寺さん、すまないが、うちへ来てもらえないでしょうか?」
「どうかしましたか?」
「それが……、さっきから防犯カメラに奇妙な人影が……」
「どういうことです?」
「あ、あの彫像が、奴らを呼び寄せてしまったのかもしれない」
「彫像が……?」
「と、とにかく、早く来……あっ、あれは!?」
「どうしました?」
「……東京ダゴン教会……まさか、実在していたとは……」
「えっ、何です?」
「あぁっ、窓に! 窓に!」電話には雑音しか入らなくなった。
 私はスカイラインGTのエンジンを始動させた。


2.

 制限速度を無視して寺岡久遠の家へ急行した。
 玄関は無視して裏へ廻った。
 庭に面したリビングの窓が割られ、ガラスが床に飛び散っていた。
 私は靴のまま部屋の中に入った。
 リビングにも無数の偶像が置かれていて、侵入者へ無言の視線を向けていた。
 壁に取り付けられた小さなスピーカーからは「防犯装置ガ作動シマシタ、せきゅりてぃせんたーヘ通報シマス」という自動音声が流れつづけていた。
 隣室に通じるドアが開いていた。何かが動き回っている気配があった。
 ドアの影から様子をうかがうと、見えたのはプロレスラーのような大男の背中だった。黒いレインコートを着て、頭までフードに被われていた。
 そこは書斎らしく大きな本棚に囲われた部屋だった。棚の中には書物も多かったが、それ以上にたくさんの偶像が並べられていた。
 大男が手を振り上げた。波型の刃のついたナイフが握られていた。
 机の上には寺岡の太った身体が横たえられていた。その胸へナイフが振り下ろされようとしていた。
「やめろ!」私は腕をつかんで止めようとした。
 だが、大男の怪力は留めようもなく、その腕は振り下ろされた。
 寺岡はすでに絶命していた。何度も刺された後で胸は血まみれだった。
 大男は造作なく腕をひと振りしただけで、私を跳ね飛ばした。
 私の背中は壁に激しく打ちけられた。息が詰まってその場に座り込んだ。
 さらに大男は何度かナイフを振り下ろすと、死体の傷口に手を突っ込んで何かを取り出そうとしていた。それは奇妙な手だった。手の甲には緑色の鱗のようなものが見えた。指の間には水かきのような鰭がついていた。そんな手袋があるのだろうか?
 奇怪な手はついに寺岡の体から心臓を取り出していた。動脈から滴る血を口で受けようと、大男は上を向いた。レインコートのフードがずり落ちて頭部があらわになった。
 それは半魚人の顔だった。はじめはパーティー用のマスクかと思った。だがそれにしては鱗が首まで密着している。映画のための特殊メイクだろうか?
 半魚人は牙をつきたてて心臓を食いちぎりはじめた。それはどう見ても本物のモンスターだった。
 心臓を食い終えると巨体の半魚人は、足元にあったポリタンクを取り上げ、中の液体を机の周囲に撒き散らした。灯油の匂いがした。
 床にはもとは机の上にあったらしい書類やファイルなどが散らばっていた。あの邪神像もそこに転がっているのが見えた。
 半魚人は書類を一枚手に取るとライターで火をつけ、床に放った。そして邪神像を拾い上げると、素早く部屋を出て行った。
 あっという間に火は燃え広がった。
 立ち上がろうとすると背中がひどく痛んだ。それでも何とか這うようにして私は部屋を出た。寺岡の言っていた資料を探す余裕はとてもなかった。もう書斎全体に火が回っていた。
 私はやっとの思いで車に乗り込んだ。そこへ警備会社のマークをつけたピックアップ・トラックがやってきた。トヨタのツンドラとかいうバカでかい車種だ。SWAT隊員のような制服のガードマンたちが四つのドアからそれぞれ飛び出して、寺岡邸の敷地へ駆け込んでいった。
 警察や消防への通報は彼らに任せることにしよう。私には警官相手に自分の見たものを上手く説明できる自信がなかった。私は静かに車を出し、その場を離れた。


 仕事場であり寝所でもある雑居ビルの一室にたどり着いてから、依頼人の安全を確かめる必要があることに気づいた。深夜だったが電話をかけると奥津深一はすぐに出た。
「一条寺さんですか、こちらからもかけようと思っていたところでした」
「何かあったのですか?」
「あの像が、戻ってきました」
「戻ってきたって、どういうことです?」
「私は眠っていたのですが、ガラスの割れる音で目が醒めました。見ると寝室の窓が割られ、そこにあの像が投げ込まれていたのです」
「あの邪神像がですか?」
「ええ」
「いったい誰が?」
「姿は見えませんでした。ベッドから出るのに時間がかかったものですから」
「奥津さんは無事なんですね?」
「ええ、無事は無事ですよ。病気は相変わらずですが」
 私は寺岡が殺されたことだけを伝え、一応気をつけるようにと言って電話を切った。
 あの邪神像は、寺岡の家から半魚人が持ち出すのを私は目撃した。その像が奥津のもとへ投げ込まれたということは、それを運んだのは半魚人ということだろう。あるいは共犯者がいるかもしれないが。奥津も殺す気ならばその時点で襲っていたはずで、とりあえず今夜は危険はないと推測はできる。だが像を投げ込んだ理由は何なのか。呪いのため? だとすれば寺岡は刺殺しておきながら奥津には呪いをかける理由は何だろう。わからない……。いつの間にか私は眠りについていた。


 翌朝、寺岡の殺害を伝えるニュースを見て驚いたらしく添田仁郎が電話をかけてきた。事情を知りたいと言うので、あとで店を訪ねる約束をした。
 簡単な朝食を腹に詰め込み、ガレージからスカイラインを出した。
 まだ立ち上がると背筋が痛んだ。だが昨夜と比べればだいぶ良くなっていた。骨までは異常はなかったのだろう。今日もいい天気だ。暑いのか寒いのか気温がよくわからない。
 私は成城へ向けて車を走らせた。
 奥津深一の顔には、目と鼻の間を区切るように包帯が巻かれていた。両手も包帯で包み込まれていた。
「やはり、この像に呪われているのは確かなようだ。昨日、あなたに像を持っていってもらってから、じょじょにではあるが快方に向かっているという気がしたのだ。だが昨夜、この像が戻ってからというもの、ぐんと体が重くなった感じがするのです。いっそ捨ててしまえばいいのかもしれないが、それではかえってひどいことになりそうな気もする。医者は頼りにならないし、霊能者のたぐいも私は信じていない。だから一条寺さん、この呪いを解くためには像を返すべき相手をあなたにつきとめてもらう以外にないのです」
 私は邪神像を受け取ってその家を出た。
 箱はなくなってしまったので、バスタオルでぐるぐるまきにしてトランクに入れた。
 昨日と同じルートで自由が丘へ向かった。
 千夜堂の店主、添田仁郎は店の奥で新聞を片手にテレビを見ていた。ちょうどワイドショーで寺岡久遠殺害事件について解説しているところだった。死体から心臓が抉り取られていたという猟奇性によって扱いが大きくなっているようだ。
 話題が変わると、添田はリモコンを手にして他のチャンネルをチェックしたが、事件について情報を流している局はもうなかった。
「新聞には載ってねえんだよな」新聞を畳みながら添田は言った。
「事件は深夜でしたからね、朝刊には間に合わなかったのでしょう」 
「まさかあの人が殺されてしまうなんてなあ……。やっぱり、あの邪神像のせいなのかねえ?」
「ええ、どうやらそのようですよ」
「あんた、何か知ってるのかい?」
「じつは昨夜、事件の直前に寺岡さんから電話があって、すぐに駆けつけたんですが、着いた時にはもう殺された後でした」
「じゃあ、犯人は……?」
「見ましたよ」
「警察には知らせたんだろうね」
「いや、それがねえ、警察が扱える相手じゃないんだ」
「何言ってるんだ。殺人事件なんだよ」
「そりゃわかってるが……、ところでねえ、添田さん。寺岡さんから何か聞いてませんか。その……半魚人のようなものについて」
「はぁ、半魚人。そんな話、聞いたことはないが。まさかそいつが犯人だって言う気じゃあなかろうね?」
 私は黙って添田の目を見、こくりとうなずいた。
「ばか言っちゃ困るよ。変装だったんだろう?」
「いや、確かに本物でした。心臓をむしゃむしゃやるところを間近で見たんだから」
「そんな、いくらなんでも……」
 私は自分の見たものを一通り添田に話した。「まあ、信じられないのも無理はないですが……。昨日、添田さんはあの邪神像は宗教団体と関係があると言ってましたね」
「ああ言ったよ」
「その団体の名前は?」
「何だったかな。それも寺岡さんから聞いたんだが……。忘れてしまったな。確か『旧約聖書』と関係があるとか……」
「東京ダゴン教会では?」
「そうそれだ、思い出した。ダゴンっていうのはペリシテ人の魚の神なんだとか」
「魚の神……ですか」
「だからって、半魚人が出てきたって言うのかい」
「さあ、その関連はわかりませんが。教会の名は昨夜の電話で寺岡さんが口走っていたのです。教会の所在地などについて何か聞いてませんか?」
「いやあ、具体的なことは何も……」
「ここにパソコンはありますか?」
「ああ、あるよ」
「宗教団体ならウェブに情報があるかもしれない」
「じゃあ、ググってみるかね」
「ええ」
 添田はノートパソコンを待ち出して、検索サイトを開いた。
「まず〈東京ダゴン教会〉で」
 キーワードを打ち込んで検索ボタンをクリックした。
 結果の一覧には、東京にあるキリスト教系の教会の情報と、映画や小説に登場したダゴンという怪物の解説ばかりが並んでいた。
「東京ダゴン教会ていうのは無いみたいだな」
「じゃあ〈ダゴン教〉だけにしてやってみましょう」
 今度は〈ダゴン教団〉や〈ダゴン秘密教団〉について書かれたサイトが数多くあった。だが、それらはすべて小説に登場する団体を扱ったものだった。
「ううん、何か他に手掛りは……、そうだ、じゃあ〈半魚人〉と〈目撃〉で。あんな化け物がうろついてるなら、どこか他でも目撃されてる筈ですよ」
 検索結果には世界のUMA目撃情報や怪奇映画についての記事が並んでいた。それらを順に見ていくと、あるブログの文章が目を引いた。
 そのページを開いてみた。それは千葉県在住の人物が地元で撮った風景写真を紹介しているブログだった。
 レンガ造りの建物の写真が貼られていて、下につぎのような文章が付いていた。
この建物は、以前は私設の水族館で入場料を払えば見学することができましたが、三年ほど前オーナーが代ってからは閉鎖されてしまいました。
レンガ造りで窓ガラスが全部、丸い形をしているところが洒落た感じです。
あと、この建物には半魚人のような怪物が出入りしているのが目撃されたという噂があります。じつはダゴン秘密教団の千葉支部なのかも……。
  地図情報のリンクもついていて正確な場所がわかるようになっていた。
「これかねえ、千葉だって書いてあるが」
「手掛りには違いない。少し遠いですが行って調べてみようと思います」
 他の検索結果には手掛りになるような記載はなかった。
「しかし、大丈夫かね。半魚人か何かは知らんが、人殺しでもやる奴らだろう。深入りしないほうがいいんじゃないかね」
「こっちは仕事なんでね。危険だからといってやめるわけにもいかない」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待ってな」
 添田は背後の戸棚の下のほうから何かを取り出した。
 それは三角形をした油紙の包みだった。ガラスのショーケースの上に置くと、ゴトリと重そうな音がした。
「開けてみな」
 私は手に取って包みを開いた。入っていたのは拳銃だった。
「へへっ、骨董屋にはこういうボーナスがあるんだよ」
 それは旧陸軍の制式拳銃、南部十四年式だった。
「なるほど、確かに骨董品だな」
「弾丸は四発入ってるが、発砲できるって保証は無い。まあ、いざという時、脅しに使うぐらいにしてくれよ」
 私は礼を言ってその銃をジャケットの内ポケットに収めた。


 水族館のある住所は千葉県井波市といった。聞いたことのない地名だ。イハと読むらしい。房総半島の外房側にある小さな漁港の町だった。
 問題の建物は曲がりくねった県道沿いの防砂林が途切れてそこだけ空き地になった所にあった。
 車を降りると潮の香りがした。耳をすませば潮騒まで聞こえてきそうだった。
 レンガ造りのその建物は写真で見たとおり、丸いガラス窓がいくつもついていた。配置が不規則なので二階建てか三階建てかよくわからなかった。
 正面に小さく頑丈そうな黒い木のドアがあった。近づいてみるとそこには金属製のプレートが掲げられていた。人魚の身体を組み合わせた字体のアルファベットが並んでいた。解読してみるとそれは“Tokyo Dagon Church”と書かれていた。つまりここが東京ダゴン教会だったのだ。
 ドアには呼び鈴の類は見当たらなかった。ノックをしてみる。しばらく待っても返事はなかった。ノブを捻ってみたが、鍵がかけられているようだった。
 裏へと回ってみると、そこには水の循環用らしい水槽やポンプなどがあり、その奥はスクラップ置場のようになっていた。
 敷地を区切るようにタイヤのないライトバンやボンネットのない乗用車が周囲に配置され、その中はテレビや洗濯機、プラスチックの看板や道路標識まで、ありとあらゆる廃材が山を成していた。割れた鏡が地面に散らばり、緑色の廃液が水溜りに流れ込んでいた。
 中央には一艘の船が台座に載せられていた。全長が10メートルほどもあるクルーザーだった。機関部のハッチが開けられエンジンが分解されていた。その様子はまるで廃品の再利用で船を別の何かに作り変えようとしているようだった。
 船に近づいていったところ、船体の影から人の姿が見えた。黒いレインコートを着た巨体、それはまぎれもなくあの半魚人だった。
 半魚人はこちらに気づくと、シューと威嚇するように息を吐き出しながら、のっそりと近づいてきた。
 私はジャケットの下から十四年式を取り出し銃口を向けた。「それ以上近づかないでもらおうか」
 だが、怪物は動きを止めなかった。私は足元を狙って引き金を引いた。
 銃声が響き、弾丸が土を跳ね飛ばした。
 半魚人はかえって怒り狂ったように突進してきた。
 右手の一振りで拳銃ははじき飛ばされた。南部十四年式はスクラップの山にまぎれ込んでしまった。
 左手が顔を狙ってきた。私は体を屈めて何とかかわした。
 すると背中をつかまれ、膝蹴りを胸に食らった。
 私は地面に倒れた。半魚人は腹を蹴ってきた。腕でガードすると、今度は足で私の顔を踏みつけた。
「うっ、ぐぐ」
 逃れようがなかった。すごい力だ。頭が割れそうだった。
 その時「シンゴ、シンゴ」と女の叫ぶ声が聞こえた。
 すると私を押さえつけていた足からすっと力が抜けた。
「シンゴ、部屋に戻っていなさい」
 女の声がそう言うと、半魚人は足早に建物の方へ去っていった。
 私は立ち上がった。声は上の方から聞こえた。そちらを見ると水族館の二階あたりの物干し台のようになったベランダから、女が手すりに手をついてこちらを見下ろしていた。長い髪と白いスカートが風に揺れていた。逆光になっていて顔はよく見えなかった。
「あなたは?」
「一条寺蓮、私立探偵です」
「そう、お入りになって」そう言って女は建物の中へ姿を消した。


 女が立っていた所の真下あたりに大きな鉄製のドアがあった。だが私は中へは入らず、いったん車を止めたところへ戻った。車体に寄りかかって息をついた。
 腹と頭が痛んだがひどい怪我はないようだった。
 トランクから邪神像を取り出し、水族館へ向かった。
 裏口の鉄のドアをくぐると、そこは倉庫のようになっていて正面にまたドアがあった。そのドアを開けると薄暗い通路があった。通路を進むと円形の広間へ出た。
 そこは二つの出入り口以外はすべてガラス張りの水槽になっていた。不気味な形態の深海魚や大きなクラゲなどが泳いでいるのが見えた。照明は水槽越しに淡く照らされていて、魚が通るたびに影が揺らめいた。中央に円形のテ-ブルと貝殻の形をした金属製の椅子が置かれていた。椅子の一つに女が腰掛けて待っていた。
 肩までかかる長い黒髪は光の加減のためか緑がかっていた。皮膚は青白く見えた。
 正統的な美人とは言えないが、不思議な魅力のある顔立ちだった。目は左右に離れすぎていて、鼻は小さく口は大きかった。首が異様に長く見えるのは、髪型と襟元の開いた服のデザインのせいだろうか。
「どうぞ、おかけになって」
 私は彫像をテーブルの上に置き、女の向かい側に座った。
「それで?」と女は尋ねた。
「東京ダゴン教会というものを探して来たんだが」
「それならここですわ」
「東京と名のついた教会が千葉にあるとはね。おかげで見つけるのに苦労した」
「成田空港もディズニーランドも東京とつくでしょう。だからここも東京なの」
「なるほど、そんな理屈か」
「それ」女は彫像に目を向けて言った。「わざわざ届けてくださったの?」
 私は像をテーブルの中央へ押しやった。
「あんたらの物だって言うなら返してもいい。その代わりいくつか質問に答えてもらいたい」
「ええ、なんなりとどうぞ」
「そうだな、まずあんたの名前だ、それからここの責任者は誰なのか」
「私の名は工藤瑠璃香です。責任者はそう、私と言っていいでしょう。ここで暮らしているのは私と、あのシンゴだけですけど」
「シンゴね、あの化け物はいったい何なんだ?」
「《深きもの》と呼ばれる存在です。私の体にも半分以上はその血が流れています。私たちは太古からつづく海神ダゴンに仕える一族なのです」
「太古からって……、あんたらは日本人じゃないってことか?」
「私たちの一族は地上の人間たちと混血し、ふだんは普通の人間として生活しています。日本でも他の外国でも。でも時に、あのシンゴのようにある年齢になると《深きもの》本来の特徴が体にあらわれる者もあって、そういう人は海へと帰り海底で暮らすことになります」
「シンゴってやつは、地上を出歩いてるじゃないか。人殺しまでやってる」
「ええ、私たちには守るべき秘密があるためです。寺岡久遠という人を殺さねばならなかったのも、彼が《大いなる秘密》に近づきすぎたためです」
「大いなる秘密……だと。何だそれは?」
「秘密を教えることはできません。それを知ればあなたも殺さなければならなくなります」
「殺人が許されると思っているのか?」
「私たちは一族を守らねばなりません。人間たちは私たちのような存在が地上にいることを知れば民族浄化の名のもとに虐殺をはじめるでしょう」
「虐殺だって、そんなこと……」
「現実にその様なことは起きています。アメリカのインスマスという町での事件を調べてもらえばわかるでしょう。それにあなただって、ピストルなど振り回していたではありませんか。ああいうものはこの国では違法ではなかったかしら」
「専守防衛。自衛する権利はある」
「それは私たちも同じことです」
「ふむ……、他にも聞きたいことがある」
「どうぞ」
「この像のことだ。昨夜、奥津さんのところへこの像を投げ込んだのはあんたらの仕業か?」
「そうです」
「なぜそんなことをするんだ。呪いが目的なのか?」
「呪いなどかけるつもりはありません」
「奥津さんはこの像を手に入れてから、原因不明の病気にかかっているんだぞ」
「ある意味では、病気を治すのがこの彫像の役割でした。奥津深一さんも今ごろはすっかり元気になられてるはずです」
「病気が治ってると?」
「ええ、ですからこの像も役目が終わって回収に行く予定でしたけど、あなたが届けてくださって助かりました」
「何なんだ、この像は?」
「これはクトゥルーの像です」
「クトゥルー……?」
「ええ、それ以上は言えません。《秘密》に関わることなので……」
 私は邪神像を残して水族館を出た。
 車に乗り込もうとした時、不意にザーッという空電雑音のような響きが耳を覆っていることに気づいた。やはり潮騒が聞こえるのだ。


 東京に戻った頃には、もう夜になっていた。
 彫像を本来の持ち主に返すという奥津深一からの依頼はこれで完了した。
 あの工藤瑠璃香という女は、奥津の病気はもう完治していると言ったが本当だろうか?
 電話で確かめれば済むことだが、なかなかかける気になれなかった。事件についてどう報告すべきか、自分の中で整理がつかないためだった。
 迷っていると奥津の方から電話がかかってきた。
「い、一条寺さん、頼みます……」聞き取りづらいくぐもった声だった。「来て、うちへ……来て、下さい」
「どうしたんですか?」
「話は、後で……はやく」
「すぐに行きます」
 私は電話を切って、車を出した。


 成城の家の前にスカイラインを止めると、ドアが開いて包帯だらけ体の上にコートを着た奥津が出てきた。また包帯の量が増えていた。額から首までと両手両足も覆われている。まるでミイラ男のようだ。
 奥津はよたよたと危なっかしい足取りで助手席へ乗り込んできた。顔は見えなかったが包帯の隙間の目の輝きは、たしかに特徴ある奥津深一のものだった。
「ど、どうしたんです、いったい?」
「海へ……」
「えっ?」
「海へ行ってください」
「海と言ったって……」
「どこでもいいんです、海なら。お願いします」
「じゃあ、ここからだと品川あたりですかね……」
「ええ、どこでも、はやく」
 私は世田谷通りを渋谷方面へ向かった。
 運転しながら私は言った。
「あの彫像は東京ダゴン教会の工藤瑠璃香という女に渡しましたよ」
「ああ、そのことはもう……いいのです」
「体の具合はどうなんです。その女は病気はもう治っているはずだと」
「そう、体は、たしかに治ったといってもいいでしょう。皮膚の方はまだ完全ではないですが」
「治ったんですか、それはよかった。しかし、なぜ海へ?」
「それは……、着いたらお話します……」
 渋谷近くで山手通りへ右折した。
 奥津は治ったと言うが呼吸は荒く、苦しそうだった。
 しばらくして奥津は話し出した。
「私の体を蝕んでいたもの……、それは、呪いでも病気でもなかったのです」
「じゃあ、いったい……?」
「血です。体の中で眠っていた血が目覚めたのです」
「血……」
「そう、今ではあの彫像の役割もわかります。あれは触媒でした。私の血を呼び覚まし、反応を早めるための……夢の中で語りかける声を聞いて、すべてが理解できました」
「夢で?」
「あ、もう海ではないですか?」
 車は天王洲のあたりまで来ていた。
「この辺は海というか、運河ですね」
「止めてください。あとは泳げますから」
「えっ、泳ぐって!?」私は車を止めた。
 奥津は車を降りると、私の方へ回ってきた。
「一条寺さん、今までお世話になりました」
「ちょっと、何をする気ですか?」
「私の本当の姿を見てください」そう言うと、奥津は顔を隠していたものを取りはじめた。衣服を脱ぎ捨て全身の包帯が外されると、そこにあらわれたのは、あの半魚人《深きもの》の姿だった。
「お、奥津さん……あなたは……」
「そうそう、探偵の料金は会社の経理の方に請求してください、手配はしてありますから。では、これで」
 もと奥津深一であった《深きもの》は手すりを乗り越えると、暗い運河へと飛び込んでしまった。
 しばらく沈み込んでいたと思うと、遠くの方に鰭のある背中が浮かんできた。その背は一度も振り返ることなく海へと泳いでいった。黒い水尾を曳いて。

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