2012年12月5日水曜日

幻想文学研究会


1.

 その高校には普段は使われていない部屋が幾つもあった。それらは、普通の教室の半分ほどの小さな部屋で、大抵は不用品を投げ込まれ、単に「倉庫」と呼ばれていた。
 ある日の放課後、遠野守が教室で友人と無駄話をしていると、高橋という国語の教師がやってきて、古くなったロッカーを運ぶのを手伝うようにと命じた。
 守は友人と二人でそれを指示された倉庫へ担いで行くことになった。ロッカーといっても中は空なのでたいして重くはなかった。倉庫について引き戸を開けると、そこは古い机や椅子がいっぱいで、新たに物を入れる余地はなさそうだった。二人は中へ入って少し整頓することにした。
 守が壁際に置かれていた机を動かすと、たて掛けられていた大きなベニヤ板が倒れてきた。
「うわわ」彼はあわててそれを両手で支え、もとへ戻した。「な、何だこれは」
 見るとそのベニヤは文化祭のときに使った立て看板のようだった。
 全体に黒いペンキが塗られ、真ん中に殴り書きのような赤い文字で《アウトサイダー》と書かれていた。その横に〈原作H・P・ラヴクラフト〉〈本日午後三時より生物室にて朗読会〉とあった。
「ラヴクラフトの朗読会か。不気味だなあ。それも生物室とは」
 生物室といえば、爬虫類の標本や内臓の露出した人体模型が部屋中に飾られているところだ。
「何だそれ?」と友人が聞いた。
「小説だよ。アメリカの古い怪奇小説」
 守はちょうど最近「アウトサイダー」の入った作品集を読んだところだった。ゲーム雑誌でホラーゲームの原作として紹介されていた、ラヴクラフトやその影響を受けた作家たちによる〈クトゥルフ神話〉に興味を持ったためだった。
「朗読会なんて、どこのサークルがやったんだ?」
 その看板には〈主催・幻想文学研究会〉と記されていた。片隅に張られた掲示許可の日付は1999年のものだった。
「幻想文学研究会だって。聞いたことあるか?」
「いいや」友人は首をふった。
 そこへ国語教師高橋が大きなロッカーを器用に一人で背負ってきた。
「何やってんだ、お前ら。早く片付けろ」
 彼らは何とか場所をつくってロッカー二つを収めた。
 教室へもどる途中で守は教師に質問した。
「先生、うちの学校に幻想文学研究会なんてありましたっけ?」
「ああ、あるぞ。三、四年前までは盛んに活動していたな。最近はどうなのかなあ。顧問はたしか吉川先生だから聞いてみるといい」


 翌日の昼休み、守は教員室に行って世界史の教師である吉川に幻想文学研究会について尋ねた。守は高校二年の今までとくに部活動というものをやっていなかった。だが、昨日あの立て看板を目にしてからというもの、なぜかずっと気になっていて、できるなら自分も参加してみたくなってきたのだった。とは言え、ラヴクラフトの短編集を一冊読んだ以外は幻想文学のことなど何も知らないのだが。
 白髪で山羊のような顎髭を生やした吉川先生は、銀縁の眼鏡をずり下げて遠野守の顔を見た。
「何、幻想文学研究会。あぁ、確かに私が顧問だよ。と言ってもただ名前だけ貸してるようなものだが」
「じゃあ、今でも活動しているんですね」
「ふむ、だがなぁ。去年ほとんどの部員は卒業してしまって、今年入った者もいないので……」吉川は机の引き出しを開けて中を探った。名簿を見つけ出すと、それを広げて指で名前を追った。「おお、今のところ部員は一人だけだ」
「えっ、一人ですか」
「うむ、二年C組永沢ひろみだよ」
 守はD組なので隣の教室だが、名前を聞いても顔は思い浮かばなかった。


 その日の六時間目の授業が終わると守は急いでC組の教室の前へ行った。見知った男子生徒を捕まえて聞いた。
「このクラスに永沢ひろみっている?」
「いるよ、ほらあの頭に包帯巻いてるコ」とその男子は入り口から教室の中を指差した。
 その生徒は教科書などを鞄に詰めて帰る準備をしていた。
「彼女、どうしたの頭?」
「さあね、おれあんまり話したことないから」
 そう言ってる間に永沢ひろみは、彼らのいるのとは別の戸口から出て行った。
 守は後を追いかけていった。階段の踊り場で追いついて声をかけた。
「きみ永沢さんだよね」
「そうだけど」ひろみはちょっと警戒した感じで応えた。
 青ざめたような皮膚の色をしていた。ショート・カットの黒い髪の下に包帯が見えた。さらにほっそりした右の手首から掌にかけても白い包帯が巻かれていた。
「ええと、幻想文学研究会のことでちょっと……」
「なに」
「いや、あの、ぼくも入部というか、入会したいなと思って」
 守がそう言うと、ひろみははじめてまともに彼の顔を見た。
「どんなものを読んでるの?」
「んん、ラヴクラフトとか。あまり詳しくはないんだけど」
 ラヴクラフトと聞いて黒目がちな彼女の瞳が一瞬光ったように見えた。
「そう、ちょうどこれから会長に会いに行くところなんだけど、いっしょに来られる?」
「えっ、会長って。きみ一人なんじゃあないの?」
「幻想文学研究会は卒業後も永久に会員なのよ」
「あ、そうなの。吉川先生はそんなこと言ってなかったな」
「あの人は、私たちの活動のことは何も知らないわ。どうするの。いっしょに来るなら会長に紹介するけど」
「もちろん、行くよ」そう言ってから守は、少し不安になった。
 幻想文学研究会は自分が思っていたよりもずっと本格的な活動をしているようだ。
 守はひろみの後について学校を出た。会長とは駅前の喫茶店で待ち合わせているという。彼は歩きながらあらためて自己紹介をした。
「ところでその包帯どうしたの?」と守は尋ねた。
「鴉に襲われて」
「鴉って、あの鳥のカラス?」
「そうよ」
 守は一瞬冗談なのではと思ったが、ひろみの顔を見るとそうではなさそうだった。それでしばらく話題が途切れてしまったが、気を取り直しふたたび尋ねた。
「会長って、どんな人なの?」
「神山恭一って知ってる?」
「いや」
「外国の小説の翻訳や実在した魔術師の伝記なんかを書いている人。その人が会長なの」
「へえ、有名人なんだ」
「有名というほどでもないけれど、本の内容の確かさでは高く評価されているわ」
 神山について語る彼女は誇らしげな様子だった。こころなしか歩みも早くなったようだったが、少し行くとふいに歩調を緩めた。
「あの鴉だわ」
 と、ひろみが目線で示した方を見ると、大きな鴉が一羽、街路樹の枝の上からこちらを睨んでいた。
「鴉って巣に人が近づくと、怒って襲ってくることもあるらしいからね」
「ちがうわ。あの鴉はあやつられているのよ。その能力を持つ人に」
「まさか」
「でも今日は大丈夫。護符があるから」言いながらひろみはポケットの中で何かを握り締めていた。
「護符って……、まるでロール・プレイング・ゲームみたいな日常だね」
 ひろみは黙って歩き出そうとしたが、正面を向いてすぐまた足を止めて、じっと前を見つめていた。
 前方から、黒いセリカがゆっくりと近づいてくるところだった。運転しているのは長い髪の若い女だった。ひろみとその女とはお互いに睨みあっていた。
 車はほとんど止まる寸前までスピードを落とした。運転席の女は、ずっとひろみを睨みつけていたが、すれ違いざま一瞬だけ守を見てから急にスピードを上げ去っていった。
 すると、その後を追うように木の上の鴉も飛んでいった。
 やっと緊張が解けたというようにひろみはフッと息をついた。
「あれは、誰なの?」と守は聞いた。
「知らないわ。でも、昨日鴉をあやつって私を襲わせたのはあの女よ」
「そんな、なぜそんなことをするんだい?」
 ひろみは答えようとはせず「急ぎましょう」と言って、足早に歩き出した。


 会長と待ち合わせていると言う喫茶店は、駅前の繁華街でも外れの方で、古い雑居ビルの暗くせまい階段を降りた地下にあった。喫茶店と言っても、夜には酒場になるようなあやしげな雰囲気の店だった。扉を開けると低く流された声楽曲が聞こえた。
「マタイ受難曲」ひろみが小声で言った。
「えっ?」守は聞き返した。
「バッハの曲よ」そう言われて、やっと店内BGMのタイトルだと理解した。
 奥の方の席で一人で本を読んでいる男の姿が見えた。他に客はいないようだった。
 ひろみにみちびかれ守はその男の前へ立った。
 その人物の年齢は四十代ぐらいに思えた。男にしては長い髪で薄暗い店内でもサングラスをかけたままだった。
「同じ学年の遠野守さん。ラヴクラフトが好きで幻研に入りたいそうです」ひろみが彼を紹介した。幻想文学研究会は〈幻研〉と略されるらしかった。
 サングラスの男が守を見て右手を差し出した。
 守は少しおくれて握手の意味だと気づきあわててその手をとった。いやに冷たい手だった。「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。ラヴクラフトが好きか。ほかには何を読む?」
「えっ、まあその、ライトノベルなどを少々」
「ふむ、いや、ラヴクラフトが好きならじゅうぶんだよ。しっかり活動してくれたまえ」
 それから守は何となく神山とひろみは二人きりで話したいのではないかという空気を察して、彼だけ先に帰ることにした。


 守が階段を上って外へ出ると、鴉が道路標識の上にとまって彼の方を見下ろしていた。普通よりも一回り大きくて、先刻ひろみが襲われたと言っていたのと同じもののように見えた。しかしまさか、鴉があのセリカの女にあやつられ人を監視しているなどとは信じられない、そう思って彼が駅の方へと歩き出すと、黒い鳥は空高くへと飛び去った。
 守が自宅近くの駅で電車を降りて家へと帰る途中、ふたたび大きな鴉を目にした。
 駐車場のフェンスでその鳥は黒い翼を休めていた。まるで空から尾行してきたかのようだった。不気味に思って早足に自分の家にむかった。
 もう少しで自宅にたどり着くというところで、ふいに車のエンジン音が聞こえて振り返った。そこにはいつの間にか黒いセリカが接近してきていた。
 セリカは彼の行く手をさえぎるようにして停止した。運転しているのは、やはりあの髪の長い女だった。
「な、何ですか?」
「乗って」女は彼を見て言った。


2.

 守はできるなら逃げたいと思ったが、女の妙な迫力に負けて引き寄せられるように助手席に乗ってしまった。
 車は走り出した。
「あなた名前は?」女が彼に尋ねた。
「遠野守ですけど。あなたこそ何なんですか?」
「私の名は黒坂真理子。私が何者かはともかく、あなた、あの男のところへ連れて行かれたということは幻想文学研究会の一員になったのね」
「ええ、そうですけど」
「あの彼女、永沢さんとあなたはどういう関係なの?」
「べつに、まだ知り合ったばかりだし……」
「そう、彼女、放っておくと危険だわ」
「どういうことですか。彼女は、あなたのあやつった鴉に襲われたと言ってましたよ」
「それは確かにそのとおりだわ。あの娘の危険な行為を止めさせようとしたためです」
「危険な行為ってなんです?」
「とにかく、彼女を助けたいと思うなら私の言うこと聞きなさい」
 女は車を止めた。そこは一周回って守の家の近くだった。彼は車を降りた。
「いい、今ならまだ間に合うかもしれない。彼女を救えるのはあなたしかいないの。その意味をよく考えて」
 そう言い残すと、女はなれた手つきでシフトレバーを動かし、黒いセリカは走り去った。


 次の日。守は学校からの帰り道、ひろみを見つけ声をかけた。
「きのうあの後、例の女に会ったんだけど」
「女って?」
「ほら、あの鴉で君を襲わせたっていう」
「あの女の言うことを、聞いてはだめよ」ひろみは怒ったように言った。
「うん、ちょっと、おかしい人だと思ったけど。でも、きみが何か危険なことをしようとしてるって」
「ええ、たしかに危険なことだわ、私たちのやろうとしていることは。でもそれは必要なことなのよ」
「必要って、どういうことだい?」
「世界の変革のために。テロや戦争で人が死ぬことのない世界を実現するの」
「えっ、でもそんなことが……」いきなりスケールの大きい話になって守は戸惑った。
「できるわ。世界中の人々をまとめて導く〈聖なる存在〉を呼び出すのよ。私の父が発見した石版の呪文を使って。私の父は、先月イラク北部の遺跡でその石版を見つけたの。そこに記された呪文の写しを手紙で送ってきたわ。あの女はその手紙を奪おうとしたのよ」
「イラクって、テロとかそういうことで大変なんでしょう」
「父はイギリスの警備会社から傭兵として派遣されたの。若い頃から世界中の古代遺跡などの調査のために、危険な地域でも何度も行っているのでそういうことには慣れているの」
「でも、その〈聖なる存在〉っていったい何?」
「宇宙神ヨグソトース。あなたもラヴクラフトの読者なら知っている筈よ」
「でもそれは小説の中の話でしょ」
「いいえ。小説の中では邪悪な存在として描かれているけど、正しく召喚しさえすれば私たちの力になるわ。その方法を私たちはとうとう突き止めたの」
「それが幻想文学研究会の活動かい」
「ええそうよ。神山会長も父の弟子なの。後はただ惑星の配置が適切になるのを待つだけというところまできているのよ。それももう間もなく……」
「そんな、信じられないよ」
「無理に信じてくれとは言わないわ。その時になればわかることだもの」
 ひろみはそう言うと、引き離すように歩みを速めた。守もあえて追いかけようとはしなかった。


 それから数日、守はひろみと顔を合わせることなく過ごした。彼女は隣の教室にいても、休み時間でもほとんど自分の席から離れず、授業が終わるとすぐに帰宅してしまうらしいので、守のほうから探さなければ姿を見かけることもないのだった。
 そしてある土曜日の朝、守が自宅を出て駅へと向かう道を歩いていると、後方から黒いセリカが近づいてきて彼と並んで徐行した。運転しているのは黒坂真理子だ。
 守が足を止めるとセリカも止まった。
「その後、彼女とはどう。上手くいってるの?」真理子は言った。
「そんなこと、あなたに関係ないでしょう」
「関係あるわ。人類全てに関係のあることよ」
「何を言ってるんですか?」
「彼女たちが何をしようとしているか、あなた聞いてないの」
「聞きましたよ。クトゥルフ神話の真似事をするって話でしょう。正気とは思えませんね」
「そう。信じないのもあなたの自由。でも一応、言っておくわ。あの人たちが邪神召喚の秘儀をおこなうのは、惑星の配列から考えて今日午後三時。そしてその結果がどうあれ参加者は全員、無事ではすまないわ」
「あなたも邪神の存在を信じているんですか?」
「ええ」迷う様子もなく真理子は言った。「邪神は存在します。でも、あなたがそれを信じないとしても、ひろみさんにとって儀式が危険なものであることには変わりはない。すこしでも彼女を大切に思うのなら、引き留めるべきね。それができるのは世界中でただ一人、あなただけなんだから」
「なぜそんなことがあなたにわかるんです?」
「わたしは根黒野の巫女。人の運命を見通す力があるのです」
「えっ、ネクロノノミコン……、あ、巫女さんですか」
 守の言葉には答えず、真理子は一枚の紙片を差し出した。
「彼女たちが儀式をおこなう場所は、ここに書いてあります」
 守はそれを受け取った。
「もしそこへ行く気があるのなら、必ずこれを身に着けていきなさい」そう言って真理子はさらに銀の短剣を手渡した。「邪神の影響からあなたを護ってくれるでしょう。最後に言っておくけど、もし今日あなたが彼女を引き留められなければ、生きて彼女に会える機会はもう二度とないでしょう」
「そんな……」
 守は言いかけたが、セリカはエンジン音を響かせ、走り去ってしまった。


 一時間目の授業が終わって、休み時間に守はとなりの教室へ行って永沢ひろみを呼んでもらった。すると、彼女は昨日から欠席しているとのことだった。
 それから授業を受けている間中ずっと彼女のことが気になっていた。守は彼女のことが好きなのかどうかよくわからなかったが、とにかく心配なのは確かだった。
 その日は土曜なので授業は午前中で終わりだった。学校を出て彼はまだ迷っていたが、駅前のファーストフードで昼食を摂る間に心を決めた。黒坂真理子から受け取った紙片に記された住所までは、すこし遠いが歩いていける距離だった。
 そこは閑静な住宅街で大きな邸宅がならんでいた。その中のひとつが目的の場所だった。たどり着くまでに、すこし迷って時間がかかってしまい、もう午後三時までわずかの間しかなかった。


 その屋敷は周囲の高級邸宅と比べてもさらに大きく、豪邸と呼べそうなものだった。玄関の表札には〈永澤〉と刻まれていた。門柱の隙間から中を覗くと、母屋の周囲は雑草に覆われていて、まるで廃墟のようだった。入り口の門扉は鍵がかけられ、簡単に乗り越えられるようなものでもなかった。中に人の気配は感じられなかったが、実際のところはよくわからなかった。左右は背の高い石壁がどこまでも続いていた。
 守は近くで〈空き巣に注意しましょう〉と書かれた立て看板をみつけた。それを壁に立てかければ、よじ登ることができそうだった。
 看板と電柱の取っ手をうまく使って彼は壁を乗り越えると、雑草の生い茂った植え込みの片隅に飛び降りた。
 建物をまわって反対側へ出ると、そこは広い庭園のような場所だった。手入れはされていないらしく様々な植物が乱雑に葉を広げていた。中央には祭壇を思わせるテーブル状の大きな石が置かれていた。その周囲にも円を描くように石が配置されているのが見えた。環状列石と呼ばれるもののようだ。
 その時、守は人の気配を感じ、あわてて植え込みの陰に身を隠した。見ると母屋の方から何人かの人影が列をつくってゆっくりと庭へ歩み出てきた。
 列は全部で五人だった。全員が怪奇映画に出てくる魔術師のようなフードつきの黒いマントを頭から被っていた。
 フードの影から見えるその顔は、先頭が神山恭一、その後ろにいるのが永沢ひろみ だった。さらにその後ろにいる三人はいずれも大学生くらいの若い男だった。
 かれらはテーブル状の石の周囲に等間隔に立つと、目を閉じて合掌し、精神統一でもしているように不動の姿勢を保った。守が隠れているところからは、ちょうどひろみの姿が正面に見えた。よく見ると何かつぶやいているかのように口を動かしていた。
 しばらくすると、囁くような声が聞こえはじめ、やがて五人の声が混ざり合ってて低く響きだした。
 それは「……イグナイイ、イグナイイ、トゥフルトゥクングア、ヨグ=ソトース、ヨグ=ソトース……」という呪文のようのものをくりかえしているのだった。
 守はこの時になっても邪神の存在など信じてはいなかったが、それでも背筋の寒くなるような思いを止めることができなかった。
 自分でも意識しないうちに、ポケットに入れていた銀の短剣へと手を伸ばしていた。触れるとそれは微かだが確かに熱を放っていた。取り出してみると何かに共鳴するようにキィーンという唸りを発した。
 それと同時にテ-ブル状の石の方からも、さらに大きな音が響きはじめた。
 そしてそこに、七色の光を放つ不定形のプラズマ状の現象が生じた。五人のメンバーは目を閉じたまま一心に呪文を唱え続けていた。
 プラズマは次第に大きくなり周囲に稲妻のようなものを発しはじめた。やがて稲妻は黒いマントの若者を捕らえた。守の目には、その男の頭が爆発して吹き飛んだように見えた。だがそうではなかった。その男の身体は一瞬のうちに無数の蛸の足と剥き出しになった内臓の塊のようなものへと変貌を遂げたのだった。
 さらにまた一人、若い男が同様な怪物に姿を変えられた。残ったもう一人の男はその様子を目にしたようだった。
「うわあああぁ」と悲鳴を上げて逃げ出した。
 だがすぐに稲妻に捕らえられ、彼もまた蠢く蛸の足と内臓の塊へと姿を変えた。
 そのようなことがあっても神山恭一と永沢ひろみはひたすら呪文を唱え続けていた。
 つぎにあの化物へと変身させられるのはひろみさんだ。そう思うと守の足は自然と前へ踏み出していた。
 だが、稲妻はひろみの身体には触れず周囲を探るように這いまわっていた。
 神山はそれに気づくと声を上げた。「おおっ、ヨグ=ソトースよ。その娘を受け取るがいい。そして落とし子を授けてくれ」
「こんな所にいてはだめだ」そう叫びながら守が、ひろみに抱きつくようにして地面へ倒した。
 ひろみは今、目が覚めたというように驚いた顔で守を見た。傷は治ったらしくもう包帯はしていなかった。
 プラズマから伸びた怪光が、盲人の手のようにあたりを探っていた。
 神山恭一が異変に気づき乱入者を見た。サングラスをかけていないその目は異様な黄金色に輝いていた。
「キサマ、邪魔ヲスルナァ」
 神山は人間のものとは思えない音程の声を発して掴みかかってきた。
 守の首をつかみ、身体を宙へ持ち上げた。息ができなかった。守は持っていた短剣の鞘を振り捨てると、神山の手首を斬りつけた。
「ギャアアアアア」神山は悲鳴をあげて守の身体を投げ捨てた。
 斬られた手首からは、あきらかに人間の血とは別の黒い液体が噴きだしていた。
 神山が傷を押さえながら後ずさると、発光するプラズマにその背が触れた。その瞬間、彼の身体は炎に包まれながら弾き飛ばされ、地面に叩きつけられた。その全身はあっという間に炭のような黒焦げになっていた。
 守がやっとの思いで立ち上がると、彷徨っていた怪光線が今度は彼に向かってきた。とても避ける余裕はなかった。
「守くん、逃げて」彼の身体は不意に突き飛ばされた。
 代わってひろみが光線を浴びてしまった。彼女の身体はプラズマの方へ引き寄せられていった。
「ひろみさんっ」守がそう叫んだ時にはもう、彼女はほとんど七色の光の中に包み込まれていた。
 ひろみの身体はプラズマの中へ完全にのみ込まれてしまった。それと同時にプラズマそのものも嘘のように虚空へとかき消えた。


 あたりは不意に静寂につつまれた。あまりに急に静かになって耳鳴りがするほどだった。すべては幻だったのではないかと思いたかった。しかし、目の前にはたしかに黒焦げの神山恭一の屍体が転がっているのだった。蛸の足の怪物三体はいつの間にか、灰のような粉末の山に変じていた。
 テーブル状の石の上にはところどころ黒い焦げ目が残されていた。
「ひろみさぁん」守は呼んでみたが、いつまでたっても答えが返ってくることはなかった。
 しばらくたって、どこからともなく黒坂真理子が姿を現した。
「どうやら、ヨグソトースの気配は去ったようね」
「あれが……、ヨグソトース……」
「あなたが邪魔をしたので実体化に至らずにすんだのよ」
「ひろみさんは、どうなったんです?」
「彼女はもうこの世の者ではありません」
「どういうことです。彼女は死んだんですか?」
「それは私には答えられないわ」
「どういう意味ですか。まだ生きてるんですか?」
 真理子はゆっくりと首を振り、静かに言った。「この世界を護るのが私の役目。世界の外へと去った者については何も語ることはできないのよ」
 彼女は空を見上げた。
 そこには鴉が一羽、大きな円を描いて飛んでいた。


 翌週、遠野守は何事もなかったかのように学校へ行った。
 永沢ひろみが突然消えてしまっても、もともと病気がちで欠席の多かったせいか、気に留める者も少なかった。聞くところによると、彼女には母親はなく、父親が外国に行っている間はマンションで一人暮らしをしていたとのことだった。それ以外に彼女について何かを知る者は、いくら探してもみつけられなかった。


クトゥルー神話に基づく連作短編集『根黒野ノ巫女』第四話

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