2014年5月7日水曜日

暗闇を歩け

 田島は眠りかけたところを捜査一課長からの電話で起こされた。
 その日は夜勤明けで、いつもなら昼から寝てしまうところなのだが、日中は隣のビルが解体工事をはじめて騒音で眠れなかった。夜には静かになるだろうと思い、部屋の片付けや買い物で一日を過した。次の勤務は朝からなので、夜にぐっすり眠ったほうが体調はいいと思っていたが、夜の十時に課長からの電話だ。
「本町四丁目の中央公園で殺人事件だ」課長は言った。
 田島はあくびをしていた。
「おい、聞いてるのか」
「すみません、寝不足なもので」
「こっちは連続強盗の件で人手が足りないんだ。頼むよ」
「わかってます。行きますよ」
 彼は着替えて部屋を出た。途中コンビニで缶コーヒーと眠気に効くというガムを買ってからタクシーを拾った。
 現場はすでに鑑識が作業を始めていて、野次馬も集まりつつあった。田島は制服警官に手を振って封鎖線をくぐった。同じ一課の捜査官、相原が先に来ていた。小柄で丸顔、いつも愛想がよくあまり刑事らしくは見えない男だ。
「どんな様子だ?」
「被害者は女子高生のようですね。心臓を一突きにされてます」
 死体は周囲より一段高くなったコンクリートの壇上のベンチに囲まれた場所に、水銀灯の青白い光に照らされ横たわっていた。高校の制服らしい紺のブレザーを着ていて、左胸の下のほうにかすかに血がにじんでいた。長めの髪がかかった白い顔は静かに眠っているように見えた。
「凶器は?」
「近くには見当たりませんでした。で、そこに妙なものが」
「何だ?」
 相原が指差したのは死体から少し離れたコンクリートの壇の上で、そこには小型のノートのようなものが、ほとんど灰になった状態で置かれていた。
「どうやら日記帳のようですよ。ほらベルトが付いていて鍵がかけられるようになってるでしょう」
 田島が顔を近づけてみると、確かに日記帳のようで、元は赤い皮の表紙だったらしいことが燃え滓からわかった。
「彼女の持ち物かな?」
「まあ、多分」
「これじゃ、中は読めんだろうな」
「ええ」
「身元は?」
「ポケットに学生証があって、いま川口さんが確認しています」
 と相原は公園の外に止められた警察車に目を向けた。
 見るとちょうど川口が車から顔を出し、田島を手招きした。
 川口は五十過ぎのベテランで、日に焼けない体質なのか生白い肌で痩せていたが、眼光は鋭く叩き上げの刑事らしい風貌だった。
「おお田島、休みのところ悪いな」
 近づくと川口は体臭と入り混じったアルコールの匂い発散させていた。
「それはいいですけど。川口さん酒くさいな」
「あ、そうか。この時間に呼び出されちゃ仕方ないだろう」
「まあ、そうですけど」
「煙草でごまかすか」とポケットをあちこち探り出す。
「いや、煙草じゃむりですよ」
「じゃ、ガムか、ガムはなかったかな」
「捜査中にガムはまずいでしょ」
「そうか。そんなに匂うか?」
「いやまあ、それより被害者の身元はわかりましたか?」
「おお、そうだ。学生証によるとだ、ああ、被害者の名は浅倉那月。華成学園の二年生だな。いま母親に連絡をとって佐野と松岡を向かわせた」
「で、おれは何を?」
「久我山と一緒に周辺の聞き込みをやってくれ。それと不審者のチェックもな。まあ、こんな時間だが、帰宅途中に何か見た者がいるかもしれんからな。灯りの点いてる部屋を選んで手早く回って、せいぜい一時間が限度だろうな」
「久我山も来てるんですか。見かけなかったな」
「そこらにいるだろう」
「わかりました」
 立ち去ろうとする田島を川口が呼び止めた。
「ああ、田島。それからな、久我山のやつここんとこ様子がおかしいから、よく注意しとけ」
「様子がおかしいって、どういうことです?」
「ううん、まあ、見てりゃわかるよ」

 田島は鑑識課員と一緒に公園の周囲の植え込みをかき分けていた久我山を見つけた。凶器などが投げ込まれていないかチェックしていたのだ。久我山は刑事になって二年目の若者で、学生時代はテニス部だったという二枚目の好青年だ。田島は川口からの指示を伝え、ともに聞き込みに回った。
 周辺の住民は殺人があったと聞いて驚く者ばかりで、手掛りは得られなかった。川口は久我山の様子がおかしいと言っていたが、田島にはいつもとそう変わらないように思えた。少し元気がないように見えたが、時にはそんなこともあるだろう。
 深夜、署へつくと死体との対面を済ませた被害者の母親を、松岡が付き添って送り帰すところだった。
 捜査会議は明朝ということになり、田島は休憩室で休むことにした。長椅子に横になってしばらくすると廊下で誰かの話している声が聞こえてきた。大きな声というわけではないが、ひどく腹を立てているような口調なのが気になった。
 田島はドアを開けて廊下に顔を出した。そこには久我山が立っていて、スマートフォンを耳に当て、ちょうど「テメェ、やれるもんならやってみろ!」と言っているところだった。久我山は田島に気づくと、軽く頭を下げてから廊下の角のほうへ足早に去っていった。
 十分ほどたって久我山が休憩室に入ってきた。田島が起きていることに気づくと彼は言った。「すみません。うるさかったですか?」
「いや、うるさいってほどでもないけど、こんな時間に何だと思ってね」
「すみません」
「何か揉めてるのか?」
「大したことじゃないんです……友達とちょっと」
「そうか。川口さんも気にしてたぞ」
「川口さんが……?」
「ああ、お前の様子がおかしいって」
「いや、本当に大したことじゃないんで」
「そうか、まあいいけどな」そう言って田島は寝返りをうち背を向けた。
 久我山はしばらく空いた椅子に腰かけていたが、やがて出て行った。

 翌朝九時から捜査会議が始まった。
 相原が現場の状況を一通り説明した。
「鑑識の報告によると死亡推定時刻はおよそ午後九時半頃、死因は心臓を刺されたことによる失血死とみられますが、凶器は現場から発見されませんでした。この凶器は少し変わっていて、普通のナイフや包丁などではなく両刃の短剣のようなものということです」
「短剣だと」と川口が声を上げた。「今時、そんなもん持ち歩いてる奴いるかねぇ」
 捜査一課長は連続宝石店強盗の合同捜査にかかりきりで、この件は川口が指揮することになっていた。
「ええ、傷は心臓を突き抜けて背中まで達していたということで、刃渡りは三十センチ以上だろうと。それと現場に残されていた焼かれた日記帳のようなものですが、母親がそれらしい物を娘が持っているのを見たと言っていますので、これは被害者の持ち物だったと考えられます。とは言え、紙の部分は完全に灰になっていて文字などを読み取ることはできませんでした。他に、手掛りや目撃情報などはありません」
「その日記だがな、その場で燃やした理由は何だ?」と川口が言った。
「犯人が読まれたくない情報が書かれていたとか」田島が答えた。
「それなら持ち去って、人目につかないところで処分したほうが確実だろう」
「確かに死体が転がってる場所にとどまって火をつけるというのはおかしな話ですね」
「凶器の短剣といい、燃やされた日記といい、どうも妙な事件だな」
「ええ」
「それから佐野。昨夜被害者の家へ行ったときな、父親はどうしてたんだ?」
 佐野が答えた。「仕事で静岡に出張中と言ってました。まだ本人とは連絡が取れてないのですが」
「この時間で連絡が取れないというのはおかしいだろ」
「寝るときに携帯の電源を切ってそのままになってるんじゃないでしょうか」
「もう九時すぎだぞ。番号はわかってるのか?」
「はい。控えてあります」
「じゃあ、今かけてみろ」
 佐野は手帳を開きながら机の電話のボタンを押した。しばらく受話器を耳に当てて言った。「だめです、繋がりません」
「電源切ってるのか?」
「そのようです」
「仕方がないな。そっちはしばらく待つか。じゃあ佐野と松岡はもう一度母親の所に行って詳しく事情を聞いてくれ。とくに当日の被害者の足どりなんかをな。田島と久我山は被害者の通っていた高校、華成学園だな、そこへ行って事情聴取だ。もう教頭には連絡してあるから準備はしてあるだろう。相原はおれと現場周辺の聞き込みだ」

 田島は久我山の運転する警察車のセドリックで華成学園へ向かった。
 昨夜のことがあったからか久我山はどこか不貞腐れたような態度で無言で運転していた。田島も後輩の個人的な問題にまであえて踏み込むまいと思って声はかけなかった。
 華成学園はレンガ色のタイルに覆われた四階建てで、アーチ型に校舎をくり抜いた通路をくぐって車を駐車スペースに入れた。痩せた白髪の男が彼らを出迎えた。不安げな面持ちで何度も頭を下げているその男が教頭の村中だった。
 二人の刑事は校長室へ案内された。校長は五十代ぐらいの落ち着いた雰囲気の女性だった。
「どうか、生徒たちを動揺させないようにお願いします」彼女は言った。
「わかっています」
 会議室で浅倉那月の担任だった松江という若い女の先生と、被害者ととくに仲が良かったという女子生徒三人が待機していた。
 教師らからの事情聴取は久我山に任せ、田島は生徒の話を聞くことにした。
 相談室という小さな部屋を借りて一人づつ入ってもらう。
 最初の生徒は中浦里美という名の痩せて小柄な少女で、外見からは中学生ぐらいに見えた。大きな瞳を潤ませて今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「中浦さんね。君は浅倉さんとは仲が良かったんだね?」
「ええ、仲が良かったというか……」消え入りそうな声で彼女は言った。
「ん、そうでもなかったの?」
「いえ、仲は良かったですけど、私よりも藤崎さんが仲良かったので」
「ああ、なるほど藤崎さんがとくに仲良しだったと」
「はい。私は……人見知りで、なかなか友達ができなかったんですけど……、浅倉さんはよく話しかけてくれて、それで……」
「それで、友達になったんだね」
「はい」
「その浅倉さんだけど、最近何か変わった様子とかはなかった?」
「……いえ、とくに……」
「どんなことでもいいんだよ。何か気づいたことはないかな?」
「あの……」
「ん?」
「小林先生っていう、国語の先生……」
「うん、先生が?」
「授業でわからないところがあったって、浅倉さんが。私もわからなかったので先生に質問しに行くって聞いたんです。そうしたら浅倉さんが別にいいやって……」
「そう、つまり浅倉さんは小林先生に会いたくなかったってことかな?」
「さあ、それはわからないですけど……」
「ふむ、とにかくそのことが気になったというわけだね?」
「気になったというか、何となく思い出したので」
「それはいつごろのこと?」
「三日ぐらい前でした」
「そう、それともう一つ聞きたいんだけど、浅倉さん、何か日記のようなもの書いてなかったかな?」
「さあ、でも日記帳を持ってるのは見ました」
「どんな日記帳だっだかな、表紙の色とか?」
「赤い……」
「大きさは?」
「このくらい」と彼女は手でA5判ぐらいの大きさを示した。
「そう、わかりました。他に何か言っておきたいこととかあるかな?」
 里美は黙って首を振った。
 田島は少女の背中を力づけるように押してやり、部屋から出した。
 彼女はなぜ小林という教師の名を出したのか、それが気になった。彼は手帳に〈コバヤシ、国語〉と書きつけクエスチョン・マークをつけた。
 二番目の生徒は肩を震わせて泣きじゃくりながら部屋に入ってきた。だが椅子に座ると、背筋を伸ばし泣くのをこらえて田島へ目を向けた。
 ずいぶんと気の強い娘だなと彼は思った。 
 藤崎倫子と彼女は名を告げた。
「君は浅倉さんとは仲が良かったんだね?」
「はい」
「最近何か変わった様子とかなかったかな?」
「いいえ、とくに気づきませんでした」
「そう、浅倉さん日記をつけていたかどうか知らない?」
「つけてないって言ってました」
「それはいつ聞いたの?」
「一ヶ月くらい前です」
「どういうきっかけでそういう話題になったの?」
「私たち、二人で原宿に遊びに行ったんですけど、そこで小さな雑貨屋さんに入ったんです。するとそのお店をやってる女の人が占いもやるというので、二人で見てもらって、その時にその女の人が私たちに日記帳をくれたんです。手作りのものでちょうど二冊売れ残ってたからと言って……、それでその時に二人とも日記なんて書いたことないって」
「それはどんな日記帳なのかな?」
「赤い皮の表紙で鍵がついてる物です」
「でもそれじゃあ、もらってから日記をつけ始めたんじゃないかな?」
「いいえ、だって那月はあの日記帳に小説を書いてたんです」
「えっ、小説を、日記帳に?」
「はい」
「それは、どんな小説だろう?」
「クトゥルー神話だって言ってました」
「ええっ、クッ、クク……!?」
「クトゥルー神話です」
「神話って、あのギリシャ神話とかそういう?」
「ええ、その神話ですけど、クトゥルー神話というのは、アメリカにラヴクラフトっていう作家がいて、その人が考えた設定を使って書かれた怪奇小説です」
「怪奇小説……というと吸血鬼なんかが出てくる?」
「いえ、吸血鬼は出ませんけど、大体そんなようなものです」
「そう、小説を書いてたと……、ふむ、すると、そのことで先生に相談したりはしなかったかな。国語の先生とか?」
「そういうことはないと思いますけど」
「国語の先生は何ていう人?」
「古文が東風谷先生で、現国が小林先生です」
「ああ、そうそう古文と現国があるんだよね」
「そう言えば……」
「ん、何かな?」
「いえ、事件とは関係ないと思うんですけど……」
「何でも言っていいんだよ」
「一週間ぐらい前ですけど、那月、小林先生の秘密を知ったって、そう言ってました」
「秘密を、それはどういう?」
「私も聞いたんですけど、教えてくれませんでした」
「そう、他に何か気づいたこととかある?」
「いえ、ありません」
「そう、じゃあこれで、ありがとう」
 彼女は席を立ちながら言った。「あの……もし良かったらですけど」
「ん、何だい?」
「携帯の番号教えてもらえませんか?」
「いいけど、何故?」
「那月を殺した犯人、どうしても捕まえて欲しいんです。それで、私も何か役に立てればと思って……」
 田島は電話番号の記された名刺を差し出した。
「何かあったらいつでも連絡していいけど、無茶なことをしちゃだめだぞ」
「はい、別に危険なことはしません。ただ何か噂とか聞くことがあるかもしれないし」
 田島は藤崎倫子を送り出すと、手帳を開きコバヤシという名の下に〈秘密?〉と書き込んだ。
 三人目の生徒を迎え入れた。
 その生徒は大柄で太り気味の体格で、きょろきょろと視線をさ迷わせながら、口元には冷笑とも思えるような表情を浮かべていた。
 彼女は渡辺瑞紀と名乗った。
「君は浅倉さんと仲が良かったんだね?」
「ええ、はい、わりと……」
「最近何か変わった様子とかなかった?」
「変わった様子と言われても……、ううん、とくになかったかな」
「どんなことでもいいんだけど」
「ううん、べつにないなあ」
「浅倉さんって何か趣味とかあったのかな?」
「さあ……、あ、最近は小説を書いてたみたいですね」
「小説を書くってことは国語とか得意だったかな?」
「そうね、成績は良かったみたい。とくに現国のほうは」
「現国は小林先生でしょう」
「そうですけど」
「じゃあ、小林先生に何か相談したりとか、そういうことはあったのかな?」
「ええっ、それはないでしょう。あの先生評判悪いし」
「評判悪いって、どういう風に?」
「いや、それはちょっと私の口からは……」
「教えてくれないかな。事件と関係なくても、いちおう一通り聞いておかないと」
「じゃあ、私から聞いたって言わないでくださいよ」
「それは、もちろん」
「小林先生……、私たちが入学する前の年、ですから二年前のことですけど、女子生徒にセクハラして泣かせたことがあるらしいんですよ。でも学校は評判に傷が付くと困るからって、その生徒の両親に大金を払って表沙汰にならないようにしたんですって」
「ふうん、それは秘密にされてることなの?」
「秘密といっても、生徒はみんな知ってます」
「他に何か気づいたこととかある?」
「んん、いえ、べつに」
「そう、じゃあ、どうもありがとう」
 と田島が生徒を相談室から送り出すと、ちょうど一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。手帳には〈セクハラ、2年前〉と書き足した。
 会議室で聴取を終えた久我山が待っていた。
「何か出たか?」
「いえ、どの先生も真面目ないい子だったと口をそろえて言うばかりで」
「現国の小林って教師に会ったか?」
「いいえ、授業中の先生は休み時間になってからということで」
「じゃあこれからだな。その小林って教師に会ったら昨夜九時から十時までどこにいたかを聞いてくれ」
「アリバイですか?」と久我山は声をひそめた。
「ああ、さりげなく聞くんだぞ」
「わかりました」
 教頭が、授業から戻った教師たちを久我山に引き合わせた。
 田島は車へ戻った。二時限目の始業チャイムが鳴ってしばらくすると久我山が姿を見せた。
「どうだった?」
「小林は婚約者がいて、別の高校で教師をやっている尾方奈々子という女性だそうですが、昨夜九時から十時、小林はその女性の部屋で食事をしていたということです」
 田島はこれまでの経過を川口に報告した。小林のアリバイ確認には松岡と佐野が向かうことになり、田島と久我山は現場周辺の聞き込みに合流するよう指示を受けた。
「あの先生がセクハラですか?」報告を聞いて久我山が言った。「そうは見えなかったけどな」
「ま、そんなもんさ」

 田島と久我山は再度現場周辺の聞き込みにかかった。昨夜すでに寝静まっていると見て飛ばした所を主に当たるのがかれらの役割だった。
 その辺りは小型のマンションやアパートが密集した地域だった。日中とあって単身者用の住宅などは留守の場合も多かったが、田島は電気メーターの回転などをたよりに人のいる部屋を見つけていった。そうして一時間ほども聞き込みをつづけたところ、事件を見たという人物に行き当たった。
 小奇麗な三階建ての賃貸住宅の一室で、ドアに〈氷室〉と表札を出していた。呼び鈴を鳴らすと、しばらくして出てきたのは紺のスウェットの上下を着た若い男だった。背中まで垂れるほどの長髪で、眉毛が濃く、口の周りは無精髭で覆われていた。
「……殺人ですか」眠そうに目をこすりながらその青年は言った。「ああ……そう言えば昨日の夜、変な男を見たんだよなあ、あの公園で」
「えっ、それはどういう!?」
「うん、何か、燃やしてたんだよね。こう、火をつけて」
「何時ごろ?」
「ええと、十時ちょっと前……いや、九時三十五分か、四十分かそのくらい」
「どんな感じだったのかな。詳しくお願いします」田島は手早くメモを取りながら質問した。
「ううん、その時は早く帰りたかったし、頭のおかしい奴じゃないかと思って、なるべく見ないようにして通り過ぎたんだよね」
「服装は?」
「黒っぽい、こう、フードの付いた、パーカーかジャケットか……」
「フードね。それを頭に被ってた?」
「うん」
「ズボンとか、靴とかはわかりませんか?」
「そこまでは憶えてないなあ」
「顔は見えました?」
「いや」
「そう、それは男だったんですね?」
「うん、いや……そうあらためて言われると、多少骨ばった女かもしれないし……」
「骨ばった、というのは?」
「男と女じゃ体つきがちがうでしょう」
「じゃあ体型からすると男だったと?」
「ええ、まあそうですね」
「痩せていた?」
「ええ、痩せてた気がします」
「身長は?」
「高めな気がしたけど、遠目なのではっきりはわかりませんがね」
「あなたが見たのはその一人だけ?」
「そうです一人でした。ああ、それと何かね、人形が……こう、地面に横たわってるのが見えたような気がしたんだけど……、あれは死体だったのか」
「人形のように見えましたか?」
「ええ、肌が青白かったし、第一まさかあんなところで殺人があるとは思いませんからねえ」
「その横たわってた人は服装は?」
「制服、女子高生の」
「胸に何か刺さってませんでしたか?」
「いや、それは……、ベンチや何かの影になってましたから」
「あと、何か燃やしてたということですけど、それが何かわかりますか?」
「いや、何か四角いものだったと思うんですけど」
「色とかわかりませんかね」
「いや」
「それは地面に置いた状態で?」
「いや、手に持ってましたね、ずっと」
「燃えてる状態で?」
「ええ、あんなに燃えてて手が熱くないのかって思いましたね」
「火を点けるところは見ました?」
「いや、何か光ってるなと思ってそっちを見たんですけど、その時はもう燃え出してましたね」
「じゃあライターとかそういったものは見てないわけですね?」
「見てません」
「他に何か気づいたことなどありますか?」
「いや、特にないです」
「何か雰囲気とか印象に残ったことでもいいんですが」
「印象ですか……そうですね、何か儀式でもやってるのかなって、そう思ったんですよね」
「儀式ですか?」
「ええ、何となくですけど」

 田島が車に戻ると、久我山はすでに運転席についていてスマートフォンで何かさかんに喋っていた。久我山は田島の姿を見るとあわてて通話を切り、端末の液晶画面を隠すようにポケットへ押し込んだ。
「何かあったか?」田島は訊ねた。
「いえ、何も」
「こっちは目撃者が出たぞ」
「え、出たんですか?」
「ああ、いま報告する」
 田島は自分の携帯電話から川口にかけた。相手が出ると彼は言った。
「目撃者がいました。近くに住む大学生です」
「おお、出たか。で?」
「昨夜、九時三十五分から四十分ごろ、長身で痩せた人物が何か四角いものを燃やしてるのを見たそうです」
「おお、そうか。詳しい報告は署で聞くからな、いったん戻れ。ああ、それからな、あの小林っていうセクハラ教師な。あいつのアリバイは嘘だったぞ」
「えっ、嘘なんですか?」
「ああ、佐野と松岡が尾方って婚約者に確認に行ったら、そう言ってくれって小林から頼まれたってバラしたんだ。いま、小林が任意で署に来るから、お前も取り調べに立ち会え」
「わかりました」田島は携帯を畳んで久我山に言った。「署に戻れって」
 久我山は車を出した。
「小林って痩せてたか?」
「いや、太ってはいないですけど、まあ、中肉中背、身長は少し低めなぐらいでしたね」
「そうか、じゃあ、目撃された人物とは別かな」
 車は殺人のあった公園の脇を通りかかった。封鎖はもう解かれていたが、遊んでいる子供の姿はなかった。
 署に戻り、刑事部屋の席に着くと相原が近づいてきた。紙コップのコーヒーを手に隣の椅子に座る。
「いやあ、やっと被害者の父親と連絡が取れましたよ」
「そうか」
「やはり寝るときに携帯を切ったまま電源を入れ忘れてたらしいですね」
「ま、出張中ならアリバイはあるわけだろ」
「いや、それがそうでもないんですよ!」相原は身を乗り出すようにしていった。「出張先は静岡でしょう。そこで予定されていた会合が先方の都合でキャンセルになったというんですよ。それで、浅倉氏は一人で一泊して、今こっちへ向かってるらしいんですがね。その夜に予定されていた会合のキャンセルが告げられたのが午後六時ごろと言ってましたから、その後こっそり東京に戻ったとして、午後九時半に娘を殺すことは、不可能とは言えないわけでしょう」
「しかし、会合のキャンセルは相手方が言い出したことなんだろう」
「そうなんですがね、でも、だからこそうまい具合にアリバイが確保できる絶好のチャンスだと考えたかもしれないじゃないですか」
「つまり父親には娘を殺さなければならない動機があったってことか?」
「そうです」
「で、その動機というのは?」
「それはこれから調べないと」
「じゃあ、よほどの動機が浮上したら、あらためて検討するってとこだろ」
「まあ、そうなりますかねえ」
「久我山のやつどこへ行ったんだろう?」田島は部屋を見渡して言った。
「飯じゃないすか」
「もう昼か。しかしあいつ何かあったのかな?」
「暇さえありゃ電話ばっかしてるんでしょう」
「ああ」
「昨日もそれで川口さんに怒られてましたよ」
「そうなのか」
「でも川口さんもまずいですよ。あの人酒飲みながら捜査してるんですから」
「昼間からか?」
「ええ、そうですよ。酒の匂いぷんぷんさせて聞き込みしてるんだから、そのうち問題になるんじゃないかなあ」
「お前からひとこと言ってやれよ」
「いやあ、ぼくはだめですよ。何かっつうとあの人に怒られてるんですから。この間だって歩くのが遅いってだけで蹴り入れられたし」
 ちょうどその時、刑事部屋に川口が姿を見せた。
 相原は口に運んだコーヒーでむせ返り胸を叩いていた。
「おう、田島。やっこさんがきたぞ」と川口が手招きをした。

 華成学園の国語教師小林は取調室でかしこまった様子で椅子に座っていた。
 髪はきれいに七三にセットされ、銀縁眼鏡をかけていた。服は明るいグレーのスーツに水色のネクタイを締めていた。
 川口が対面に座り、田島は壁際の椅子に腰掛けた。
「で、小林先生よお、あんたは先の事情聴取のときにだ、昨夜九時から十時の間は婚約者の尾方奈々子さんの部屋で食事をしていましたと、こう証言したんだよな」
「い、いやその証言といいますか、その……」眉をひそめて小林は言った。
「言ったんだろう」
「え、はい、言いました」
「それがだな、うちの刑事が、その尾方奈々子さんに確認に行ったところ、あんたから嘘の証言をするように頼まれたが、実際には来ていなかったと、こう言ってるわけだよ。こりゃどういうことかね」
「いや、それはその……」
「ま、あんたの婚約者も、殺人の片棒まで担がされたんじゃたまらんと、こう思ったんだろうな」
「さ、さ、殺人って、そんなことは決して」
「じゃあ、何で嘘の証言を頼んだりしたんだ」
「いや、その、それはつまり、私、その時間は自分の部屋に一人でいたものですから……それでそのアリバイが無いせいで無用な疑いをかけられても困るな、と思ったものですから、それで、つい」
 小林はハンカチを取り出して顔を拭きはじめた。
「はん、部屋に一人でね。その日はまっすぐ家に帰ったのか?」
「はい」
「あんた通勤は電車かね?」
「はい」
「あのスイカってカード使ってる?」
「はい」
「そのカードの履歴調べたら、どこで乗り降りしたかわかるからな」
「えっ、えっ、あの、いや、いつも使ってるわけでもないので……」
「持ってて使わないわけ無いだろう。それにな、駅の監視カメラの映像もいまチェックしてるところだからな。今度嘘がばれると、もう本当に大変なことになるぞ」
「いや、その、あの……」
「ん、どうした。そう言えば、殺人現場の近くであんたとよく似た人物を見たって証言もあるようだし、これで犯人確定かなあ」
「いや、いや、殺人とは本当に関係ないんですよ。本当に、アリバイだってあるし」
「ほう、あるの。今無いって言ってたじゃない」
「そ、それは、その、個人的な事情がありまして、なかなか……」
「何、あるなら言いなさいよ」
「ええ、その、このことは内密にしていただくと約束していただかないと」
「あんたねえ、人殺しておいて内密にと言われても困るんだよねえ」
「いやだから殺してはいないんですって」
「じゃあ、言ったらどうだ。正直に言えば、それなりのことは考えてやるから」
「はあ、あの……その時間は生徒の一人と……」
「何、生徒と、何をしてたんだ?」
「ええ、渋谷の方で……ちょっとぶらぶらと」
「生徒っていうのは、あれだな、女生徒だな、教え子か」
「ええ、はい」
「それでただぶらぶらってことはないだろう」
「いやその、べつに……」
「おい、調べればわかるんだぞっ!」
「あ、あのじつは、ホテルに……」
「はん、ホテル、教え子とホテルに行ってたのか?」
「はあ、はい」
「こりゃ完全に淫行だな」
「あ、あの、その、ホテルに入ったというだけで、やましい行為は無かったんですよ。いや、本当に」
 川口は田島の方を向いて言った。「おい、どうするよこれ?」
 わっと酔っ払い特有の匂いがした。小林はずっとこの匂いを浴びていたのかと田島は思った。
 その時、田島のスーツの中で携帯電話が震動した。開いて見ると発信者は見憶えのない携帯の番号だった。
「すみません、ちょっと」と言って田島は席を立った。
 廊下に出ると角のほうで久我山がスマートフォンで会話をしているのが目に入った。低く抑えた声で「殺すぞ、コノヤロウ」と言っているのが聞こえた。
 田島は廊下の反対の端に行って、携帯に出た。
 相手は藤崎倫子だった。華成学園で浅倉那月と一番仲がよかったという生徒だ。
「何かな?」
「あの、ちょっとおかしなことがあって」
「うん、どうした?」
「ええと、電話では説明しづらいんです。会って話せませんか?」
「まあ、いいけど」
 倫子が自分の居場所を伝えた。
 田島は電話を切って、取調室のドアを開けた。
「川口さんちょっと」
「おお、どうした」川口が廊下に出てきた。
「生徒の一人が何か情報があるらしいんで、ちょっと出てきていいですか?」
「ああ、一人で行けるな」
「はい。あ、それと川口さん」
「何だ?」
「息、酒くさいですよ」
「ん、そうか、これはあれだ、昨日の酒がだな……」
「昼間から飲んでるんじゃないでしょうね?」田島が手の甲で川口の胸を叩くと、内ポケットのスキットルに当たってちゃぷんと液体の跳ねる音が聞こえた。
 川口は気まずそうに口元を歪めた。
 田島は結局噛む機会のなかった眠気覚ましのガム差し出した。「これで何とかしてください」
 嫌そうな顔をしながらも川口はガムを手に取った。

 田島はセドリックで華成学園へ向かった。
 藤崎倫子は、正門を出て左へまっすぐ行ったところにある神社で待っていると言っていた。神社はすぐに見つかった。参道の左右が小さな公園のようになっていて、そこのベンチに制服姿の女生徒が座っていた。
 田島が近づくと彼女は立ち上がった。
「すみません。お忙しいんでしょう」
「いや、これも仕事のうちだからね」
 倫子は手に赤い表紙の日記帳を持っていた。
「あの、これなんですけど……」
「うん、例の日記帳だね」
「私と那月と一冊づつ持ってるって言ったでしょう」
「うん」
「それでその、さっき開いてみたら、これ那月のなんです」
「えっ、どういうことだい?」
「つまり、いつの間にか入れ替わってたんです」
「じゃあ、昨夜浅倉さんが持ってたのは君の日記帳だったってこと?」
「いえ……、それがおかしいんです。今日の朝見たときは、確かに自分のだったんです。私はこれにスケジュールや買い物のメモなんかを書き込んでるんですけど。それで家を出るときに確認したので間違いありません。それで、さっき昼休みにまた書くことがあって開いてみたら内容が、那月の書いたものに……」
「ん、じゃあ、今日の午前中のうちに入れ替わったってこと?」
「そうです。学校にいる間はずっと鞄に入れてたんですけど、私が鞄から離れたのは刑事さんと話をしに行った時と、体育の授業の時だけです。刑事さんと話してたときは教室に皆がいて勝手に他人の鞄を開けることなんてできなかったはずですけど、体育の授業の時は教室に誰もいなくなるので、すり換えられたとしたらその時しか考えられないんですけど……」
 いや、それにしてもおかしい、と田島は思った。日記の一冊は殺人現場で燃やされているのだ。倫子が言うように、朝は自分の日記で、今は浅倉那月の日記になっているのであれば、日記帳は三冊存在したことになる。占いもやっている雑貨屋で売れ残りの二冊をもらったと倫子は言っていたはずだが……。
「浅倉さんは小説を書いてたんだよね」
「ええ」
「今持ってるその日記には、その小説が?」
「そうです」
「中を見ていいかな?」
 倫子は日記帳を差し出した。
 赤い皮の表紙で、鍵付きのベルトは今は外されていた。
 田島は表紙を開いた。最初のページには「アシュメラ」という小説のタイトルらしい文字が読めた。だがその途端、日記の白いページが青い炎を上げ始めた。
 手の上で日記が燃えていた。なぜ火がついたのか、まったくわからない。田島は動顛し、炎を上げる日記を体から離すのがやっとだった。
 倫子が強い力で田島の腕をつかんだ。そして叫んだ。
「これは魔術よ、魔術だわ!」

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