2014年5月25日日曜日

魔の谷にて

 その井戸はラーノス辺境の砂漠の奥地にあった。ザタスクの町からもギファ・オアシスからも等しく離れた場所である。
 砂漠の真ん中にぽつんと一つだけの井戸。水が湧いているわけでもなく、ほとんど砂で埋もれていた。誰が何のために作ったものかも知られていなかった。
 灼熱の陽射しの下、二人の男が井戸から砂をかき出していた。
 痩せこけた小柄な男が井戸の中でバケツで砂をすくうと、筋骨隆々の大男がそれを引き上げてあたりにぶちまけた。
 彼らは夜のうちに砂漠を渡り、夜明けとともにこの作業を始めていた。今はもう太陽は中天にかかり、井戸の底まで熱い日射しに照らされていた。
「なあ、タウロン。少し休もうぜ」井戸の中の男がそう言ってへたりこんだ。
 大男がからにしたバケツを投げ込んで言った。「もう少しじゃないか、がんばれ」
 彼は岩につないだ馬のところに行って皮袋を取ると中の水を一口飲んだ。それから井戸の縁に立つと下で座り込んでいる男の頭へ垂らしてやった。
「うへっ」井戸の底の男は上を向いて水を舐めた。
 それで元気が出たのか小柄な男は、掘り進んだ井戸の高さを目測すると、かがみこんである一角の砂を手でかき出した。あらわれてきた井戸の壁を手で探ると彼は声を上げた。「おい、タウロン! タウロン!」
「どうした、ギーガ?」
「あったぞ、古文書の通りだ。刻みのある石だ!」
 大男タウロンはロープを伝って井戸の底へ降り立った。
 ギーガと呼ばれた男は、腰に吊った布袋から奇妙な凹凸のある四角い石を取り出した。
 それは、戦士タウロンと盗賊のギーガ、この二人が長い冒険行の末に、北の涯てニルンの地の氷に閉ざされた寺院の奥で見つけ出した石印だった。
 ギーガは石印を井戸の壁の刻みに押し当てた。
「うん、ぴったりだ」
 さらに石印を押し込むと、ゴゴゴッと重たげな石のこすれる音が響いた。
 井戸全体が激しく揺れだした。
「う、うわっ」
「落ち着け、ギーガ」
 足元の砂が流れ出した。井戸を埋めていた砂がみるみる減っていった。まるで砂時計の中に立っているようだった。
 やがて砂がすべて流れ落ちると、井戸の本当の底である石の床に二人は立っていた。そして二人の目の前には暗黒の窖へ通じる入り口が開いていた。
 二人はそれぞれ松明を手に暗闇の中へ踏み込んでいった。
 ゆるやかな下りの通路をしばらく進むと前方に石の扉があった。
 タウロンが手で押すと扉は音もなくすんなりと開いた。
 暗い広間を松明の炎が照らすと、奥の壁に三つの窪みが見えた。
 窪みのそれぞれには干からびた屍体らしきものがうずくまっていた。
「あ、あれは、木乃伊か?」恐る恐る足を進めながらギーガは言った。
 よく見るとそれらは三体とも手に頑丈そうな木の棒を握りしめていた。
「棍棒を持った木乃伊とはめずらしいな」
 二人が広間の中央あたりへさしかかると、三つの屍の眼窩の奥に、暗い鬼火のような光が灯った。
「待て、そいつは木乃伊じゃないぞ!」タウロンが言った。
 屍三体が動き出した。立ち上がり棍棒を振り上げた。
「あ、わわっ。ゾ、ゾンビ!」
「下がっていろ」タウロンは松明を捨て腰の大剣を抜いた。
「だ、だ、だいじょうぶか。相手は三体だぞ」
「まかせておけ」
 タウロンは獣のようなしなやかな動きで前進した。
 三体の生ける屍がタウロンに襲いかかった。
 戦士の剣が一閃した。
 ゾンビの一体は腹を裂かれ、もう一体は腕を切り落とされた。
 残る一体はいったん後退したが、すぐにふたたび向かってきた。
 タウロンが剣を振るうと、その一体も袈裟懸けに斬られ、くずおれた。
 ゾンビは三体とも塵となって消散した。
「ふう、いつもながら大した腕前だ」とギーガは言った。
 タウロンは剣を収め松明を拾った。
「行こう」
 広間を抜けると、その先で通路は左右に分かれていた。
「こっから先は迷路らしいな」
 とギーガが先に立って歩き出した。
 迷路には落とし穴や、左右から飛び出す槍などいくつものトラップが仕掛けられていたが、いずれもギーガが目ざとく見つけ出し、避けて通ることが出来た。
 しばらく行き来するうちにやがて中央に位置するとみられる小部屋へたどり着いた。
 部屋の奥は石作りの小さな祭壇になっていてその上に古びた宝箱が置かれていた。
 ギーガが慎重に周囲を調べながら祭壇に歩み寄ると、手製の工具で錠を解き、箱を開いた。
「あったぞ、石だ!」
 箱の中では、握り拳ほどもある大きさの青い宝石が、ゆれる炎を反射して妖しく輝いていた。
 盗賊が宝石に手を伸ばしたところ、タウロンがするどく声を上げた。「待て! 誰かいるぞ」
「何だって?」
「見ろ」
 部屋の入り口のところで不気味な影がゆらめいていた。
 影はやがて人の形をとり実体化した。それはフードつきの黒いマントで身体を覆った痩せこけた男で、フードの下から生白い皮膚のしわだらけ顔が見えた。
 マントの男は、手に持った細長い筒を口に当てるとシュッ、シュッと素早く二度息を吐いた。
 タウロンは反射的に剣を抜いて飛来した物体をはじき返した。
「吹き矢だ!」
「うっ、……うう」
 ギーガの胸に矢が刺さっていた。彼は口から泡を吹いて床に倒れた。
「おのれ、何者だ!?」
「フッフッフ……」男は含み笑いをもらし、ふたたび筒先をタウロンへ向けた。
 放たれた矢を剣がはじく。
「無駄だ。吹き矢でおれは倒せん!」
「フフッ、では、これならどうかな」男は、左手を前方にかざし小声で呪文をつぶやいた。「火よ。我にしたがえ!」
 松明の炎が目が眩むほど激しく輝いたかと思うと、その直後に火は消えてしまった。
 辺りは完全な闇に包まれた。
 シュッと吹き矢の吐き出される音が響いた。
 タウロンの剣が矢を跳ね飛ばした。もとより目で矢の動きを追っているわけではなかった。
 戦士は感覚を研ぎ澄まし、敵の気配を探った。
 暗闇の中、息を殺してゆっくりと位置を変えてゆく影の鼓動。
 コトリと、祭壇の上でかすかな音がした。
「そこだっ!」
 タウロンは床を蹴り、剣を走らせた。
 手ごたえはあった。
 床の上に小さな金属片の落ちる音が響いた。
「ううっ」かすかな呻き声とともにポタリポタリと液体の滴る音。
 だがその声はやがて「フッフッフッ、ハハハハハッ」という哄笑にかわりながら、気配が消えていった。
 タウロンはしばらくじっと動かず警戒していた。
 敵の気配は完全に消えていた。
 現われ方といい、消え方といいどうやら敵は妖術の使い手のようだ。
 タウロンは火を起こし松明を灯した。
 そしてまず、倒れたギーガの首筋に触れ脈を調べた。
 数々の冒険をともにした相棒は、もはや手の施しようもなく死んでいた。
 床には数滴の血が飛び散っていた。その中に細い鎖のついた小さな金のプレートが落ちていた。手にとって見るとそこには、正三角形の中に人の目のような図が刻印されていた。
 宝箱の中の宝石は失くなっていた。

 タウロンはギーガの死体をかついで地上へ出た。
 死体は砂に埋めて葬った。
 井戸の近くに繋いであった馬は、胴体が爆発したかのように内臓を飛び散らせて死んでいた。飲み水も砂に吸われていた。あの妖術使いの仕業だろう。
 大男は地下室へ引き返し日が暮れるのを待った。
 夜になれば気温は下がる。だが、いかに屈強な戦士といえど、馬も水もなしに砂漠を渡るのは不可能だった。ここは人のいるザタスクの町からもギファ・オアシスからも等しく離れた場所だった。
 それでも彼は、夜空の星を見て方向を確かめると砂の上を歩き出した。
 夜中歩きとおしても景色は変わらなかった。どちらを見ても地上にあるのは砂だけだった。
 朝が近づき、空が色づいてきた。
 朝日が昇ると、その位置で自分が正しい方向へ歩いてきたことを確認した。
 すでに喉はからからに渇いていた。間もなく気温も上り始める。
 立ち止まることは出来なかった。日差しを避ける影もない。
 やがて戦士はふらつき、倒れた。しばらくすると立ち上がり前へ進んだが、すぐにまた倒れた。そんなことを何度かくりかえしながら、そのうち倒れたまま動かなくなった。
 彼は気絶した。

 バケツいっぱいの水を浴びせられてタウロンの意識は戻った。
 体が動かなかった。自分の置かれた状況を把握できずにいると、口の中に水が注ぎ込まれた。
 渇ききった喉が癒され、全身に水が滲みわたっていくようだった。
 目を開くと陽射しがまぶしい。
 背に伝わる振動から、荷車のようなもので運ばれているらしいと感じた。
 腕を動かそうとすると重い鎖で繋がれているのがわかった。さらに彼の体は鳥かごのような鉄格子で囲われていた。
「イヒヒヒッ、どうやら気がついたようじゃの」甲高い男の声がした。
 同じ荷台の上にクッション付きの椅子に座った太った男がいた。白髪に赤ら顔で体のあちこちに宝石をつけていて、格子越しに水を飲ませるのに使った柄の長いひしゃくを手にしていた。
「誰だ、お前は?」タウロンは首だけを男のほうへ向けて言った。
「私は砂漠の商人。名をモイという」
「この鎖は何だ? おれをどうする気だ?」
「ヒヒヒ、いい拾い物だ。西方のコロッセ辺りへ行けば、奴隷戦士が高く売れる。お前の体ならいい値段がつくだろう」
「ふん、グラジエーターか。まあいい。それより腹がへった。何か食わしてくれないか」
「もうすぐ町に着く。しばらく水だけで我慢せい」
 すぐ町か、どうやらおれは狙いどおり場所で倒れることができたらしい、とタウロンは思った。彼は町へもオアシスへも歩いて横断するのは不可能とみて、その二点の中間地点を目指したのだった。その辺りならばザタスク‐ギファ間を行き来する隊商が日に何組も通りかかるはずだった。それでも危険な賭けではあったが、うまくいった。奴隷商人に拾われたのは計算違いだったが。
 駱駝に引かれた荷車がザタスクの町へ入ると、タウロンはモイを呼んだ。
「コロッセでおれはいくらで売れそうなんだ?」
「まあ、50ギレといったところだろうな」
「ずいぶん安いな」
「砂漠で行き倒れてるような奴じゃそんなものだ」
「いいだろう。では、その額をおれが払おう」
「何だと、お前は文無しではないか」
「この町におれの知り合いがいる。金はそいつに借りられるだろう」
「ふむ、それは何者かね?」
「占い師のアグノという男だ」
「よかろう。探してやる」
 商人のモイは使いの者にアグノを探しに行かせた。
 しばらくすると、茶色のローブを着た卵のような禿頭の長身の男がやってきた。
「タウロンよ、久しぶりに呼ばれて来てみれば、何だその様は」
「おおアグノ。早速で悪いが、その男に50ギレほど払ってくれないか」
「50ギレだと、ふうむ、どうしたものか……」
「すぐに返すよ」
「返せる当てはあるんだろうな」
「ああ」
 アグノは疑わしそうに目を細め、檻の中の戦士を見た。
 タウロンは格子に顔を寄せて囁いた。「ジリーヌの青い石」
「見つけたのか!?」アグノが囁きかえした。
 檻の中の男は目だけで肯いた。
「ふむ、わかった」
 アグノはモイに代金を支払おうとした。
「この男を自由にしたければ100ギレ払ってもらおう」モイは言った。
「ん、100だと、50ではないのか?」
「100だ」
「どういうことだ。モイよ。先刻は50と言ったはずだぞ」タウロンが鎖を鳴らしながら言った。
「代金を決めるのは私だ。お前の値段は100ギレと決めたのだ」
「おい、おれを怒らせないほうがいいぞ!」とタウロンは腕に力を込めた。
「100だ」
 タウロンはさらに力を込めた。するとバキッと荷台の板が割れる音が響き、鎖が留め金ごと外れた。戦士が自由になった腕を振るうと、鎖が格子の間を抜け奴隷商人の首に巻きついた。
「ふざけるなよ、この人買野郎!」タウロンは格子越しにモイの首を締め上げた。「お前を殺さずにおいたのは町まで運んでもらうためだけだったのだぞ」
 モイの顔が窒息して赤くなってきたのを見てタウロンは力をわずかに緩めた。
「うっ、ぐふっ、わ、わかった、言うとおりにする」
「鍵を渡せ」
 モイはベルトに下げた鍵を外すと震える手でタウロンに差し出した。
 タウロンは手枷を解き檻を開けると地面に降り立った。荷車に積まれていた自分の剣を取り返し、彼は言った。
「行こうアグノ。とりあえず飯だ」

 町の中で適当な飯屋に入るとタウロンはたっぷりと料理を頼んだ。
「飯代もないんだろうな」アグノは言った。
「ああ、貸しといてくれ」
「飯代ぐらいはいいが、じつをいうとこのところ懐が乏しいのだ」
「占い屋は儲かってないのか?」
「いや商売はまあまあだがな、最近ちょっとした買い物で奮発してな」
「何を買った?」
「古い巻物だ」
「巻物?」
「ああ、『シフの洞窟』という太古の叙事詩なんだ」
「ふん、そんな物が役に立つのか?」
「じつに興味深い内容だよ。それはそうと、ギーガはどうした?」
 タウロンは料理をかきこむ手を止めた。
「あいつは死んだよ。妖術使いの毒矢にやられた」
「妖術使い……何者だ?」
「わからん。それをお前に調べて欲しいのだ。ジリーヌの青い石もそいつに奪われた」
「そうか、ギーガは死んだか。いい奴だったがな……」
 食事を終えると二人はアグノが占いを商っている町外れの小屋へ行った。
 泥棒よけの結界を解いて中へ入るとアグノは古びた巻物を手にとってタウロンに見せた。
「ほらこれが世にも珍しい叙事詩だよ」
 タウロンが興味を示さないとアグノは残念そうにそれをしまいこんだ。
「占いだったな。そこに座ってくれ」
 絨緞を敷いた床にタウロンを座らせた。
 アグノは水の入った鉢を用意して対面に座った。
「その妖術使いの姿は見たんだろうな?」
「ああ、見たとも」
「では、気を楽にして、その姿を思い浮かべてくれ」
 タウロンが目を閉じて記憶を呼び起こすと、アグノは鉢の水面に手をかざし、小声で呪文を唱えた。
「難しいな……。何かそいつの持ち物があるといいんだが」
「ある」タウロンはベルトにつけた皮袋から金属の小さなプレートを取り出した。「おれが斬りつけた際に落としていった物だ」
「おお、それはいい」
 アグノは受け取ったプレートを水の中へ静かに沈めた。
 ふたたび手をかざし呪文をつぶやく。
 すると水面にさざ波が立ちはじめた。光がきらめいて揺れ動いた。
「おお、見える、見えるぞ」目を閉じたアグノが苦しげに言った。「妖術使い……名は、フランジス!…………恐るべき男だ……恐ろしい企みを抱いておる…………」
「企みとは何だ?」
「わからない……、だが居場所は、居場所はわかるぞ……」
「どこだ?」
「南東の方角…………カリエンの森を抜け……目指すは……ダライの谷!」
 そう言うとアグノはかっと目を見開き、止めていた息を吐き、激しく肩を上下させた。
「大丈夫か?」
「ああ、お前の敵の名はフランジス。ダライの谷に向かっている」
「ダライの谷……」
「“魔の谷”と呼ばれている所だ。普通の人間が踏み込んで生きて帰った者はないと言われている」
「そうか、礼を言うぞ。石を取り戻したらお前にくれてやる。ラーノス王家が賞金をかけている宝玉だ。いい金になるだろう。おれは奴の命をもらう」
 タウロンは、町で頑丈な馬を手に入れるとすぐに旅立った。南東へ、魔の谷を目指して。

 大木の生い茂った広大なカリエンの森は昼でも薄暗い。
 タウロンは森の中を馬を飛ばして駆け通した。
 そのうちに彼は道に迷っている気がしてきた。いくら走っても景色が変わらない。同じところをぐるぐると回りつづけているよう思えた。
 タウロンは人一倍鋭敏な方向感覚を持っていた。普通なら進むべき方向を見失うなどということは、まずないはずだった。
 彼は目印を見定めながら慎重に馬を進めた。しかしやはりしばらく行くといつの間にか同じ場所に戻ってしまうのだった。
「誰だ……?」戦士は周囲を見渡し気配を探った。
 森の中は小鳥の声ひとつ聞こえず静まり返っていた。
 おれが進むのを邪魔している奴がいる、そうとしか考えられなかった。
「誰だ! 姿を見せろ!」
 タウロンがそう叫ぶと、森の中を一陣の突風が吹きぬけた。
 彼の目の前で舞い上がった木の葉が渦を巻いた。
 風が静まるとそこに一人の女が立っていた。裾の長い黒衣をまとった、長い黒髪で肌の白い女だった。
「何者だ?」タウロンは問いかけた。
「妾はメルドロスの魔女、イリューミラ」
 一見して大人の女と思ったが、声を聞くと少女のようでもあった。
「魔女か。なぜおれの邪魔をする?」
「この先へ進むのは危険だ。魔の谷では恐ろしいことが起ころうとしている」
「危険は承知だ。どけ」
「魔の谷におるのは妖術使いのフランジスだ。お前の剣では太刀打できまい」
「やってみなければわからんだろう」
「無駄だ。犬死するのがおちだ」
「お前の知ったことか?」
「フランジスは魔の谷の環状列石で魔界の扉を開こうとしている。ジリーヌの青い石がその鍵なのだ」
「魔界の扉だと……、それが開いたらどうなる?」
「恐るべき怪物ニョグタがあらわれる。そうなれば地上の王国はつぎつぎにフランジスの支配に屈することとなろう。それを阻止するために妾はメルドロスより参ったのだ」
「お前に奴を止められるのか? イリューミラよ」
「妾一人では無理だ。それでお前の力を借りたいのだ」
「二人で協力すれば奴を倒せるということか?」
「そうだ」
「ふむ、で、何をする?」
「剣を出せ。柄をこちらへ」
 タウロンは剣を鞘ごとベルトから外し、柄の方を向けてイリューミラへ突き出した。
 魔女イリューミラは自分の手首に巻いていた赤と黄の組紐を解くと、それを剣の柄に結びつけた。
「不死鳥の羽で作った組紐だ。これが切れるまでの間この剣は魔を討つ刃となる」
「これであの妖術使いを倒せるのか?」
「ああ、斬れる距離まで近づければだが」
「それは何とかする」
「ジリーヌの青い石が奴の魔力を高めている。用心してかかることだ」
「わかった」
 イリューミラは仕上げにタウロンに魔除けの呪文をかけた。
 タウロンは魔女に別れを告げ、カリエンの森をあとにした。

 森を抜けるともう陽は暮れかけていた。空は暗紫色で、彼が進む方向には燃えているように赤く大きな満月が昇っていた。
 荒れ地を渡り、魔の谷へ踏み込むと無数の黄色い蝶たちが、これから起こる凶事を予知したかのように飛び去っていった。
 魔の谷ことダライの谷は切り立った灰色の岩盤が左右に連なり、青緑色の奇怪な植物が点々と根をのばしていた。
 谷底の小径を進んでいくと麝香に似た奇妙な匂いが漂ってきた。そして地鳴りが低く轟き、時おり落雷のような青白い閃光があたりを照らした。
 さらに何度か閃光が走った頃、谷の最奥へと辿り着いた。そこは両側の崖が左右に広がり円形の広場になってつながっていた。中央部は一段低い窪地をなしていた。
 タウロンは窪地の手前で静かに馬の歩みを止め、地面に降り立った。
 馬は怯えて、手綱を放した途端にもと来た方向へ駆け去ってしまった。
 戦士は窪地の淵に身を伏せ、下の様子をうかがった。
 そこには巨大な石が環状に配置された遺跡があった。その中心部では黒い泥のようなものが泡立ちながら蠢いていた。
 そして黒いマントに身を包んだ妖術使いフランジスがテーブル状の石の上に立って、青い宝石を握りしめた手を沸き立つ泥の方へとかざしながら、呪文のような言葉を叫んでいた。

  聞けや、ニャルラトテップよ!
  ありえざるものを我に与えよ!
  闇に棲むもの、我が言葉に従え! 
  ニョグタ! ニョグタ! ニョグタ!

 蠢く黒い泥はじょじょに大きくなってきていた。
 タウロンは妖術使いの立つ石までの距離を目測すると、立ち上がり数歩後方へさがった。剣を抜くと、助走をつけ窪地の淵から一気にジャンプした。
「覚悟しろフランジス!」
 空中で叫び、妖術使いのすぐ後ろに着地した。
「き、貴様っ!」
 フランジスは驚いて振り返った。手の中の宝石から閃光を発した。
 光を浴びたタウロンの全身は焼け付くような痛みを感じたが、かまわず剣を振るい妖術使いの肩口から脇腹へとなで斬りにした。
 赤黒い血を吹きながらフランジスは倒れた。倒れながら青い宝石を蠢く泥に向かって投げつけた。
「ニョグタ! ニョグタよ……目覚めよ……世界を呑みつくせ!」
 タウロンはフランジスの首に斬りつけとどめを刺した。
 地面を転がった宝石は泥の手前で止まった。
 すると泥の一部が触手のように細長く延びて宝石をつかみ上げた。
 その途端、宝石から青い稲妻状の光が八方に飛び散った。
 黒い泥は虹色に発光しながら爆発的に増殖しはじめた。あっという間に遺跡全体を覆うほどに成長した。
 泥状の怪物ニョグタはフランジスの屍体を呑みこんだ。
 タウロンは転げるように遺跡の外へ逃れていた。
「お前がニョグタか!?」
 怪物は無数の触手をタウロンへ向けて延ばしてきた。
 タウロンは魔を討つ刃を腰だめに構えると、蠢く泥の中心めがけて突きかかっていった。
「うおぉぉぉぉぉぉーっ!!」

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