2014年5月28日水曜日

シフの洞窟

 ラズズール師が異端の疑いにより逮捕されてから三日。
 その日は公開審問が行われていた。
 異端審問官らの追及に対してラズズール師が弁明し、その後、市民による評決で罪が確定する。
 異端の罪、それも黒魔術の使用が明らかとなれば、判決は死刑以外にはなかった。
 老魔術師ラズズールには五十人近くの弟子があった。
 弟子の中でも主だった者たちは、審問所に証人として召喚されていた。
 残された弟子の大半は、審問所の近くのとある屋敷に集まって判決の時を待っていた。そこは弟子の一人の親類の家であった。
「どうなるかな?」若い弟子のミズクがガロニトに話しかけた。
「さあ……待つしかないよ」ガロニトは答えた。
「大丈夫だよな。この前だって無事だったんだし」
「どうかな、今度の逮捕は二度目だ。それがどう影響するか……」
 ラズズール師が逮捕されたのはこれで二度目だった。前回は半年ほど前、広場で行った演説が皇帝を侮辱する内容だったという理由で異端審問官により捕縛されたのだった。だが、それがほとんど言いがかり同然の理由であったことは審問で明らかとなり評決の結果、無罪放免となったのだった。
 今回の逮捕は、ラズズールの魔術研究それ自体が異端の黒魔術であるとするより本質的なもので、異端審問官らがこの半年密かに内定をすすめた結果らしい。
「ウィカが戻ったぞ!」誰かが言った。
 審問所の傍聴席の数には限りがあり、弟子が確保できたのは一つきりだった。そこでウィカが伝令役となり審問所と屋敷を往復して状況を伝えていた。
「どうなってる?」若い弟子たちのリーダー格であるギルノがウィカに尋ねた。
「今、師の弁論が終わり、休廷となったところです。評決は午後から」
「それで、弁論の様子は?」
「師の発言は堂々としたもので、大審問官からの質疑にも理路整然とよどみなく応答していました」
「では、上手くいきそうか?」
「ええ、多分……」
「肝心なのは評決だぞ。市民の反応はどうなのだ?」と弟子の一人で大柄なヒュジンが聞いた。
「傍聴席は終始静まり返っていて、聞き入っている感じでした」
「罵声を浴びせるようなものはなかったのだな?」
「ええ、それは」
「では、大丈夫だろう……、前回の審問でも市民は師に味方した」
「前回の評決はおよそ七対三で無罪に傾いたが、今回はどうなるか……」と、ギルノは不安げに言った。
「異端審問官はどんな証拠を出したのですか?」ガロニトが質問した。
「それは師が所持していた古い文書を、無理やり異端に結びつけたようなものばかりで、説得力のあるものではなかった」
「当然だ。われわれの研究はこの国土を救うためのもので、決して黒魔術などではない」とヒュジンは言った。
 この地、ガルケルトは氷に閉ざされようとしていた。北方からの氷河が年々国土を侵食しつつあるのだった。このままではもう十数年もすれば国全体が氷に覆われてしまう勢いだった。
 今では、真夏でも気温はあまり上がず、冷たい北風が吹きつづけていた。
 ラズズールとその弟子たちの研究は、魔術の力で氷河の侵攻を留めようとすることを目的としていた。
 一方、軍の将軍たちは、南部の隣国を侵略し新たな国土を得ることに活路を見出そうとしていた。
 だから今般の異端審問官の策動には、世論を戦争へと導きたい軍部の後押しがあるのだという見方もあった。

 そして午後。首都ザロンの高位審問所では、市民百二十人による評決が行われた。
 その結果は、有罪。
 つまり、ラズズール師の死刑が確定した。執行は七日後と決まった。
「死刑、死刑だと!」
「弁論では審問官を圧倒していたのではなかったのか?」
「そうだ、師は自らの正しさを証明したはずだ」
 屋敷に集まった弟子たちは騒然としていた。
 そこへ傍聴席にいたゾキロと伝令役のウィカが戻ってきたので、皆が詰め寄った。
「どういうことなんだ!」
「一体、なぜ……!?」
「それどころではないぞ」青ざめた顔でゾキロは言った。「オココヅとサバチも逮捕された」
「何だって!?」
 オココヅとサバチは証人として出廷していた弟子である。彼らは審問所を出ることを許されず身柄を拘束されたのだった。
「このままにしておけるか、抗議に行くぞ!」
「そうだ、審問所に押し掛けるんだ!」
 弟子たちは口々に叫んだ。
「莫迦な、そんなことをしてもまとめて逮捕されるのがおちだ」
「われわれもこんな所に集まっていては危いのでは……」
 皆、声高に意見を交わした。
「聞いてくれ」ギルノが一同を鎮めた。「ここはいったん各人身を隠してから、連絡を取り合って対策を考えよう」そうまとめて解散することになった。

 夜になった。この頃は白夜の季節で、沈むことのない太陽がおぼろな赤い光で街を照らしていた。
 ガロニトはゾキロの住居を訪ねた。
 なぜラズズール師は死刑にならねばならないのか、彼はそれを知りたかった。
「おお、ガロニトか、よくきた」
 ゾキロは紫色のローブを着て水晶の盃から葡萄酒を飲んでいた。
「お前も飲めむか?」と酒瓶と手に取った。
「いえ、私は……」ガロニトは断った。「ここにいて大丈夫なのですか?」
「ああ、すぐに全員逮捕ということもあるまい。それに私ももう歳だ。逮捕なら逮捕で抵抗する気はない」
 ゾキロはラズズールの弟子の中では一番の高齢で、裕福な暮らしをしていた。
「だがガロニトよ、お前はまだ若い。それに弟子の中でもとくに優秀だ。無茶をして命を粗末にするようなことはやめておけ。何とか国外へ逃れてでも師の教えを伝えるのだ」
「ゾキロさん、ぼくは師の判決の時の様子を知りたくて来たのです」
「そうか……、師は、有罪の宣告を聞いてもうろたえたりはしなかった。それも運命と受け止めているようだった」
「でも、弁論では自分の正しさを主張したのでしょう?」
「それはそうだ。われわれは何も間違ったことなどしていないのだから。だが、市民の評決が有罪ではな……」
「なぜ、市民は有罪を選んだのでしょう?」
「ふむ、それはな……、論理的には、師は完全に正しかったと、私は思う。追及する審問官も言葉を失うほどにな。しかしあまりに高邁な理論というものは人を不安にさせることもあるものだ」
「それでは市民が愚かなんだ。そのために師は死刑に……」
「仕方のないことだ。それが市民というものだ。それになガロニト。今思えばあの半年前の演説での逮捕、あれも異端審問官の策略だったのではないかと思うのだ。あの時は無罪になったが、半年のうちに二度目の逮捕だ。たとえ灰色の疑惑でも、二つ重なれば黒に思える。市民の考えなどそんなものだ。理論だけではどうにもならんのだ」
「師は、審問官と論争するのではなく、市民に向けてわかりやすく語るべきではなかったのでしょうか」ガロニトは自分の考えを述べた。
「そうかもしれん。だが、師には師の考えがあったのだろう。私にはわからんよ」
「そうですか」
 ガロニトはゾキロの部屋を辞去した。

 ガロニトが自分の下宿へ帰ると、部屋の前に茶色の修道服の人物が二人佇んでいた。彼の帰りを待っていたミズクとウィカだった。
「どうした?」
「ギルノが呼んでる」ミズクが言った。
「何をする気だ?」
「われわれでラズズール師を救出する」ウィカが言った。
「どうやって?」
「魔術を使うんだ」とミズクは言った。

 三人がギルノの家へ行くと、そこではギルノとヒュジンが儀式のための準備を進めていた。
 黒いカーテンで囲われた部屋で、香炉が焚かれ、燭台の蝋燭に火が灯された。床には複雑な魔方陣が描かれていた。
「ガロニト、来てくれたか」ギルノは言った。
「何をする気なんです?」ガロニトは尋ねた。
「“黒の道”を使う」
「それは……禁じられた技だ」
「ふん、われわれはすでに異端の烙印を押されているんだぞ。手段を選んでる場合じゃない」
「そうだ」とヒュジンも同意した。
「四人で呪文を唱え、一人を牢獄へ送り込む。問題は誰を送るかだが……、これは危険が伴う。もっとも魔術の能力が優秀なものが行くべきだ」
 そう言ってギルノは四人を見渡した。
「ぼくが行きます」ガロニトは言った。
 ギルノは頷いて「他のもの異論は?」と尋ねた。
 他の三人は無言だった。
「では頼むぞガロニト」
 ガロニトは魔方陣の中央に立った。
 四人が四方に立ち両手をかざしながら呪文を唱えはじめた。

  える おうる あこるた はいら るうむ
  むる まうる おるこす ほうる うるえ
  かるます かるます きひきる うえ!
  かるます かるます きひきる うえ!
  える おうる あこるた はいら るうむ
  むる まうる おるこす ほうる うるえ

 やがて、ガロニトの体は黒い靄に包まれていった。
 ガロニトは猛烈な眩暈を感じた。
 視界を幾筋もの光の矢が走った。
 意識が遠のく……

 ガロニトの精神は暗黒の魔術空間を彷徨っていた。
「師よ、ラズズール師よ……、お答えください」
 と、呼びかけた。
 先方からの返答がなければ着地点を決められなかった。
「ラズズール師、どうか」
 必死で呼びかけをつづけた。
「師よ……」
「私を呼ぶのは誰だ?」と応答があった。
「ガロニトです。どこです、師よ?」
「私はここだ」
 そう応える思念に導かれてガロニトの身体は、ラズズール師が囚われている牢獄へと実体化した。
「ガロニト、これは黒魔術だぞ」老師はいさめるように言った。
 ラズズール師は、石の壁で囲われた監房で、粗末な木の椅子に腰かけていた。
「師をお救いするためです。このまま死刑にさせるわけにはいきません」
「愚かなことを。すぐに戻りなさい」
「なぜです、このままでは死刑になるだけです」
「市民による評決の結果だ」
「それを受け入れるというのですか?」
「そうだ。私とて市民の一人には変わりない。法の命ずるところには従わねばならん」
「しかし……しかし、市民はあなたの考えを理解してはいない。異端審問官の策動に惑わされているのです」
「私の考えはじゅうぶんに語ったはずだ」
「それでも理解を得られなければ……、もっと市民に直接訴えかけるように、わかりやすく語ってみては……」
「それは誠実さを欠くことだ。ガロニトよ。私の考えは、私の言葉でしか語ることはできないのだ」
「しかし……、いえ、ともかく一緒においでください。いったんこの牢獄を逃れましょう」
 ラズズール師は黙って首を振った。そして、もうガロニトに目を向けることもなく、ただ壁を見つめていた。
「師よ、では本当に……」
「さらばだガロニト。最後にお前と話せてよかった」
 その時、《黒の道》の効果が限界をむかえ、ガロニトの身体は暗黒の空間へと引き込まれた。

 ガロニトは、ギルノらの待つ儀式の間へもどった。
「一人で戻ったのか!?」ギルノが尋ねた。
「ええ」
「どうしてだ、師には会えなかったのか?」
「会いました。が、師は心を決めておいでです」
「どういうことだ?」
「市民が決めた以上、自分は死刑を受け入れると」
「莫迦な!」
「それで黙って引き下がってきたのか?」とヒュジンはガロニトにつかみかかった。
「説得はしました。しかし……」
「待て。誰か来るぞ」ウィカがヒュジンの腕を押さえて言った。
 騎馬の蹄が石畳を蹴る音が響いていた。
 ミズクがカーテンの隙間から外の様子をうかがって言った。「異端審問官だ! 武装している。この家に入ろうとしている」
「俺が行く」と大男のヒュジンが素早く部屋を出ていった。
 少し遅れてウィカも後について行った。
 玄関のほうから押し問答の気配が聞こえてきた。そして咳き込むような呻き声。
 ウィカが青ざめた顔で戻ってきた。
「ヒュジンが斬られました! 奴らすぐここへ来ます」
「二手に分かれて逃げよう」ギルノがすぐに決断して言った。「ウィカとミズクは裏口へ。私とガロニトは地下へ行く。落ち合う場所はユヴィラの酒場だ」
 ウィカとミズクは慌てて裏口へ向かった。
 ギルノは隠し扉を開け、ガロニトを地下へ通じる階段へ導いた。
 地下室へ着くと、明かりを灯し、彼は言った。「あの二人も助かるまい」
「それがわかっていながら!」ガロニトは言葉を荒げギルノの腕をつかんだ。
「仕方あるまい、誰かが生き延びねばならん」
 その地下室には古い書物や魔術道具が大量に保管されていた。
 ギルノは机の引き出しを開け、その奥に隠されていたものを取り出すとガロニトに手渡した。
 それは小さな黒い鍵だった。
「シフの洞窟は知っているな?」
「ええ」
「そこに師が集めた禁断の魔道書が隠してある」
「魔道書……、しかし、あそこはすでに氷に閉ざされているはず」
「その鍵をもって洞窟に近づいたら、『ウ・ヴァラ』と言うんだ。その呪文であらわれる錠に鍵を挿せば道が開ける」
 ギルノは床板の一枚を外した。そこにはさらに地下深くへと通じる階段があった。
「行け。魔道書をどう使うかは、お前に任せる」
「しかし、あなたは!?」
「ここもすぐ奴らに気づかれる。おれは残って時間を稼ぐ」
「いや、ならば……」
「お前が行くんだ。議論しているひまはないぞ」
 ギルノはガロニトの身体を階段へと押しやった。そうしてる間にも上階から隠し扉を破壊する音が響いてきた。
 ガロニトは階段を降りた。別れを告げる間もなくギルノは床板を閉じた。
 隙間から漏れるわずかな明かりで、用意されていたランタンを見つけた。
 ランタンに灯を入れ、地下道を進んだ。
 間もなく腹に響く轟音と振動がガロニトを襲った。通路に砂煙がたちこめた。
 振り返り、後方をランタンで照らすと、地下道の入り口が瓦礫でふさがれているのが見えた。
 ギルノが異端審問官を道連れに自爆したのだった。

 地下道は町はずれの廃墟に通じていた。
 そこは異端として追放された古い宗派の教会跡だった。
 ユヴィラの酒場はすぐ近くだった。
 ガロニトは酒場に入っていった。
 酔いつぶれた男が一人、椅子にもたれていびきをかいていた。
 ここの主人ユヴィラはラズズール師の密かなシンパなので、弟子たちには何かと親切にしてくれた。
 ミズクとウィカが街中で異端審問官に逮捕されたという噂がすでにここまで伝わっていた。 
 ガロニトが国外へ脱出するつもりだと告げると、主人は馬と食料を用意してくれた。
 ガロニトはシフの洞窟へと向かった。
 時刻は真夜中を過ぎていたが、空は赤紫色に輝いていた。
 氷河を渡り、山岳地へと分け入る。
 白夜が明ける頃、洞窟の入り口近くへ着いた。
 やはり、そこは厚い氷に覆われていた。
 ガロニトは黒い鍵を取り出し、呪文を口にした。
「ウ・ヴァラ」と。
 すると、鍵穴のついた錠前が虚空に浮かび上がった。
 鍵を挿し回転させる。
 錠は消え、鍵だけが手の中に残った。 
 前方の氷の壁には、ぽっかりと道が開けていた。
 ガロニトは馬を放した。
 朝日を浴びて、きらきらと光っている氷の壁を抜け、洞窟へと入っていった。
 しばらく行くと小さな木の扉があった。その奥がラズズールの魔道書の保管庫だった。
 ランタンを灯して扉をくぐった。
 本棚にいっぱい、書物が収められていた。
 読書用の机と椅子もある。
 ガロニトはランタンを机の上において、書物のタイトルを眺めた。
『死霊秘法』『ナコト写本』『エイボンの書』『無名祭祀書』『屍食教典儀』『ルルイエ異本』『妖蛆の秘密』……
 ラズズール師が長年にわたり世界を旅し、密かに持ち帰った禁じられた奥義書の数々だった。
 いずれも所持しているだけで異端の罪を逃れられないものばかりだが、師はこれらの中にこそ国を守るのに必要な知識が隠されていると信じていた。
 書物のほかに、未知の言語が刻まれた石版や陶片を並べた棚があった。
 ガロニトはその中から青い皮装の小型のノートを手に取った。
 表紙は鍵付きのベルトで留められるようになっていたが、すでに鍵は壊されていた。
 それは師が遠い異国より持ち帰ったもので、ガロニトも見せてもらったことがあった。
 このノートには、複雑な意味を持つ古代キタイ文字と、簡略化された記号のような文字の混成からなる手書きの文章が記されていた。
 最初のページには表題らしい文字があって“暗闇を歩け”と書かれていたが、ガロニトにはその意味を知ることはできなかった。
 彼はノートを棚に戻すと、次はアブドゥル・アルハザードなる人物が記した魔道の奥義書『死霊秘法』を手に取った。
 椅子に腰かけ、一ページづつ目を通し始めた。

 その考えがガロニトの心に浮かんだのは、自分自身で思いついたのか、あるいは魔道書に巣くっていた悪霊にでもとり憑かれたためなのか、自分でもわからなかった。
 とにかく彼は魔道書のページを繰るうちに、必要な知識をフォン・ユンツトによる『無名祭祀書』の中に見つけた。
 そして彼は待った、星座が求める位置に来るのを。
 ラズズール師の死刑の日もいつの間にか過ぎ去り、少しづつ摂ってきた食料が尽きるころ、その時が来た。
 彼は山を降り、ガルケルトの首都、黒い尖塔が建ち並ぶザロンを見下ろす崖の上に立った。
 そこで、クトゥーガを喚ぶ呪文を唱えた。
 やがて、太陽よりも眩しい光が都市に降り注いだ。
「世界よ、燃えろ」彼は呟いた。

0 件のコメント:

コメントを投稿